なぜ、大坂が「天下の台所」と呼ばれるようになったのでしょうか?
江戸時代の大阪は、北組、南組、天満組の三郷に分けられ「大阪三郷」と言われていました。
この三郷を取り締まっていたのが、大阪町奉行でした。
しかし、実際に町政の実務をしていたのは、三郷の町人のなかから選ばれた「惣年寄」とその配下の「町年寄」たちでした。
大名たちは、税として農民から米を取り立てていましたが、多くの大名が中之島などに蔵屋敷を置き、米や地方の物産を運び込みお金に換えていました。
黒田藩蔵屋敷長屋門 現在は天王寺公園内にある大阪市立美術館の南門。
江戸時代の大阪の役割は、江戸の消費地に対して、消費物質を供給することでした。
古くから各地の物質が集積していた大阪には、運輸機能、市場機能など流通拠点としての要素が備わっていました。
1806年頃の中之島と堂島にある各藩の蔵屋敷
大阪には、三つの大きな市場がありました。
堂島の米市場、天満の青物市場、雑喉場の魚市場です。
中でも重要なのが堂島の米市場で、ここで取引された米の価格が、全国の米価の基準になったからです。
高松藩蔵屋敷跡 薩摩藩蔵屋敷跡
現在の中之島リーガルロイヤルホテルの前庭 現在の土佐堀2丁目三井倉庫前
これらの事から、大阪が江戸に物資を供給する「天下の台所」と言われた所以だそうです。
江戸時代の文献には、大坂を「諸国之台所」「日本の賄い所」という記述は存在していたのですが、「天下之台所」と直接の記述したものはありません。
が、大正時代に「大阪市史」の中で用いたのが、一般に広まり、あたかも江戸時代から言われていたかのように誤解されていたのでは、と言われています。