徒然なるまま”僕の趣味と遊ぶ”

タイガース、水彩画、鉄道などの、僕の気ままな”独り言”

” なんば ☆ 光旅 ” へ 

2013年12月05日 16時14分55秒 | 独り言・社会・ニュース

昨日、梅田から難波まで御堂筋を歩き、5時から点灯される” なんば・光旅”を見てきました。
この時期、多くの地域や場所でイルミネーションが点灯されています。

  
  御堂筋のイチョウも落葉が盛んです。       淀屋橋の花壇から四ツ橋方面を・・・

   
   御堂筋を何回も歩いたことがあるのですが、少し入った所に御霊神社があり、この市街地
   で、ひと際紅葉が目立ちました。                                     


昨年は、神戸のルミナリエに行ったのですが、今年は少し場所を変えて見ました。

大阪では、OSAKA光のルネッサンス2013と称して、市役所・公会堂あたりや、御堂筋イルミネイション2013、大阪ミナミ光マッセ!と言って心斎橋~道頓堀~なんばへと続く全長1.5Kmのエリアで様々なイルミネーションが実施されています。
その他、今年は、大阪城が3Dマッピングスーパーイルミネーション(有料)が14日から開催されます。
今回は、今まで行ったことがなかった難波にしました。

  


”なんば・光旅”は、難波周辺で、”なんばパークス” ”なんばカーニバルモール” ”南海ビル” ”なんばCITY” ”高島屋大阪店の屋上ビヤガーデン” などで開催されています。

その内、”なんばパークス” と ”なんばカーニバルモール”を見てきました。

 

なんばパークス


江戸時代の庶民の生活 上方編 ④ -商に三法ありー

2013年12月03日 12時27分42秒 | 江戸時代とは・・・・・

大坂人気質を象徴する言葉に「始末」と言うのがあります。
江戸では「宵越しの銭は持たない」ということに表せるように、金離れの良さが江戸っ子気質と言われていました。

「 始末 」 とは、「始=収入」 「末=支出」 でツジツマを合わせるという意味で、無駄な金を使わないという精神を表しています。

この「始末」と「算用」、「商才」を合わせて、大坂商人は、「商に三法あり」と言い現わしています。

「 算用 」 とは、何事もソロバン勘定を働かせることと言うことで、如何なる商売も損をするなということですが、同時に目先の利益に惑わされるなという戒めでもあるようです。

「 商才 」 とは、商売の機を逃がすなということでしょうか。
商売とは、多くの商売かたきを相手にして勝ち残っていかなくてはなりません。いわゆる商機をとらまえる才覚が必要ということです。

商機を捉え、一気に勝負するためには、丁稚からたたき上げて、長い目で損得勘定を計る度量が必要ということだそうです。

江戸の「宵越しの銭を持たない」というのは、商人というより職人としての心構えであり、のれんを懸けて物堅い損得勘定を言ったとも云われています。

      
       今年1月に、お参りした伊勢神宮の宇治橋を描きました。  水彩画 F6号 


江戸時代の庶民の生活 上方編 ③ -火事は・・・-

2013年12月01日 19時25分23秒 | 江戸時代とは・・・・・

今まで、江戸時代について話をするときは、多くは江戸の町での話であって、江戸以外の土地での話はあまりなかったようです。

上方の話をするには、どうしても江戸との比較の話になります。
火事は江戸の華とも云われていますが、それでは上方では火事は少なかったのでしょうか?

上方、特に大坂は、江戸に比べて人家の密集はなく、大火の頻度もさほど高くなかったようです。
大火事が少なかった理由の一つに、屋根を「本瓦葺」にしたこと、反対に少なかったから「本瓦葺」にしたとも言えるのだそうです。

また、江戸の安普請に対して、堅固な家を建てるのが大坂の通例だったのも、上記の理由と同じです。
その中でも、堺商人は、堅固な上に絢爛豪華だったようです。

もともと、国際商業都市として潤って財政が豊かで、儲けた金を、家を建てることに費やすことが、堺商人の贅沢だったのです。

このような成金的な豪華な建物を「堺普請」と言われ、疎まれました。
それに対して京都では、「勘略葺」にするのが一般的で、やがて「京普請」といわれ、広がりました。

 本瓦とは、平瓦を並べて 縦にできた継ぎ目に
丸瓦を並べる屋根の葺き方を言います。                                     



江戸に火事が多い理由は、江戸の人口の6割を占めている町人が、江戸の土地の16%にひしめき、又その7割が「裏店住まい」だったのです。

そのため、江戸では、一たん火事が起こると、広範囲に及びました。
それも当時の長屋は、屋根が藁(わら)や茅(かや)で非常に燃えやすく、それは幕府が、瓦は贅沢であると見なしていたことも影響しています。

安普請の理由は、どうせ10年ぐらい経てばまた火事が起こるだろうという考えが家主にあったとも云われています。

文字通り、「火事と喧嘩は、江戸の華」だったようです。