極東極楽 ごくとうごくらく

豊饒なセカンドライフを求め大還暦までの旅日記

ナセルに降る雪の華

2023年01月15日 | 環境リスク本位制


彦根藩二代当主である井伊直孝公をお寺の門前で手招き雷雨から救っ
たと伝えられる"招き猫"と、井伊軍団のシンボルとも言える赤備え。
(戦国時代の軍団編成の一種で、あらゆる武具を朱塗りにした部隊編
のこと)の兜(かぶと)を合体させて生まれたキャラクタ。愛称「ひ
こにゃん」。



【園芸植物×短歌トレッキング:カラーリーフ】
冬の園芸にはやはりカラフルな植物が欲しい。考えてみれば、冬には
「躍動感」は必要なのか。これは地植え園芸者には難題。そのなかで、
緑・赤系・オレンジ系・茶系の単色と斑入りの「ハツユキカズラ」、
「ワイルドストロベリー」「レネユニフローラ」の3種にトライする。 


             冬銀河 "他界"を背負い遠望す
                                       宇  

  この世にて地獄をみておくもまたよきか極楽にしかいけないおれは

                               小林 峯夫 『途上』



小林峯夫:昭和7年に岐阜県郡上郡和良村(現・郡上市和良町)の商
家に生まれた小林峯夫は、作家の道を志し早稲田大学文学部ヘ進学。
卒業後は、病に倒れた父に代わって家業の酒屋を営むため郷里へ戻る。
昭和30年に岐阜県立郡上高等学校和良分校
で講師として教壇に立って
から定年まで岐阜県で教職にあった。
 昭和21年に窪田章一郎ら耶羽
田大学の学生らが中心になって
創刊された短歌雑誌「まひる野」には、
大学卒業直後の昭和
30年に入会。現在「まひる野」代表を務める篠弘
は、文学部の
同級生であり、以後、長く同誌で交流を深め、切磋琢磨をした。
また、岐阜県歌人クラプ副会長として会の運営に関わった。歌集は『
はばき』ほか全4冊。今秋には遺歌集として5番目
の歌集『途上』の
刊行が予定されている。第4歌集『五六川』
は、平成26年に中日短歌
大賞を受賞している。

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洋上風力の年間設備利用率30%を妨げる最大の障壁 
陸上作業とは大きく事情が異なってくる 日本特有の気象・海象下での
難作業 大規模開発が進む洋上風車の設置やO&Mでは、波浪、海霧、海
上風等の海象条件、寒冷・多雪地域における冬 期休止期間や作業制限
(冬期における施工の困難性及びそれに伴う夏期への工事の集中・過密
)など、自然の影 響を大きく受けることにより、最適な工期設定を難
しくするという。

洋上では様々な要素が工事・作業工期に影響を与える
港湾ならびに沖合での海上工事やO&Mは、陸上風車と同様に工期の
厳守を求められる。一方で、 大規模開発が進む洋上風車の設置やO&
Mでは、気象・ 海象条件のほか、海上工事に従事する人員の確保、現
場の作業環境、関係者との調整など、
工期に影響を与える様々な要素
が加わる。

風浪、寒冷・多雪地域における冬期休止
工期の設定にあたっては、波浪、海霧、海上風等の海象条件、障害等
による作業不能または制限がある日数や期間を、いかに適正予測でき
るかが事業者に求められる。風浪、寒冷・多雪地域における冬期休止期
間や作業制限(冬期における施工の困難性、及びそれに伴う夏期への
工事の集中・過密)は、国内では、これまでに、前例・事例がないこ
ら、事業者や現場責任者の判断ならびに工期策定に不安が増す。

日本の海域は欧州の気象・海象と比べ短サイクルで目まぐるしく変化する
海側では、季節風による風浪の影響により作業給を使用する工事は困
難であり、夏から秋にかけての太平洋側では、天気が良くても「うね
り」(低気圧に伴い発生する周期の長い波)があると作業船の稼働が困
難になることに留意する必要がある。
さらに一旦荒天となれば、周辺海域の波浪が静穏になるまで1週間以
上要する場合もあり、現場海域が晴天であっても工事が困難となるな
ど、一般的な陸上工事とは大きく事情が異なってくる。また、工事や
O&Mの作業では、洋上風車の周囲で行われている様々な事業者へ、
影響を与えない配慮が求められる。業務工程への影響、安全管理・環
境管理に特段の配慮が必要である。



作業員が万全の状態で作業に従事できる時間は少ない
欧州のウインドファームでは、ほぼすべてが、ポートベースのメンテ
ナンス戦略を採用している。技術者は毎日、港から風力発電所に移動
し輸送船から風車に移動する。
しかし、このアプローチには2つの問題が指摘されている。まず、海岸
から遠くなるほど、移動時間が長くなり、その結果、技術者は、風力発
電所で働くよりも船上で過ごす時間のかなりの部分を費やしてしまう。
通過時間が長くなればなるほど、作業を安全に完了するために必要な天
候確保が難しくなる。
さらに安定した海象の海域では、ボートから風車への移動は、容易で安
全であるが、海岸から遠く離れた場所では、厳しい波浪状況に遭遇す
る可能性が高くなり、乗り移りが制限される。
これらの問題の解決策としては、技術者を洋上基地、または母船を哀
悼して風力発電所の沖合に配置したヘリコプター活用などの、より堅
牢な移送システムを開発することが必要となる。

海上作業の大きなリスクは風より波浪
作業員の輸送を阻む“波浪"
海上を運行する船舶にとって、常に変化する波浪は油断できない存在。
また、港湾作業での波浪リスクは高く、安全面だけでなく、それに関わ
るコストの面でも管理者に大きな影響がある。洋上風力発電所の建設
では、施工の稼働率を維持するために、実働日数と悪天候などで作業中
止になる日数の誤差を少なく予測することが重要となる。しかし、施工
に支障のない波浪の高さや周期は、施工法や作業船の種類により異な
るため、高精度に推定することは大変難しい作業となる。
洋上風力発電は陸上と比べ、騒音など環境問題が少なく、好条件の風
が安定して得られ、かつ風車の大型化が可能であることから、効率的な
発電が期待できる。しかし、洋上風力発電ならではの課題があります。
そのひとつが海上の波浪。洋上風車は海上に設置するため、風車や基
礎、海底ケーブルの設置工事など、陸上の約2倍のコストがかかると
言われています。また、運転開始後の風車の○&Mについても、陸上
風車と異なり、多くの費用を要す。そこで、風車設置工事の工期短縮
や発電開始後の高い稼動率の維持による発電コストの低減が求められ
る。沖合の波浪は、風車へ作業人員を輸送する小型船の運航に影響を
与え、作業計画に支障をきたす。

海上工事に大吉な障害となる“うねり"
太平洋側の“うねり”は、リスクが高い現象で工事の障害になる。周期
が長く大きな波が、長時間にわたって押寄せる。夏の赤道付近で発生
する台風の大きな波や冬のアリューシャン海域で発生する波が、大き
なうねりとなって太平洋沿岸に到達。風がない穏やかな海域でも、突
然高いうねりが来襲することがある。太平洋側の海域では、うねりが風
車設置工事などに支障を与え、うねりは波高が低い場合でも、大型の
作業船によっては、船舶の係留や荷役に影響を及ぼします。夏季の太平
洋側の海域は、台風の直撃も避けられない。

“波浪"の影響を多く受け、作業能率の低下は避けられない海上作業は
陸上作業に比較して作業効率の低下は避けられまない。洋上風力発電
所を建設する際には、施工稼働率が重要。海上工事では、作業員の安
全のため、波高、波周期、風速がある許容値を超えると、作業が中止され
る。
・海上作業は安全が最優先されるため、風や波浪の弱い時間帯に行う。
・台風や低気圧通過などでは、一時的 な避難、待機が発生する。
・天候、波浪の急変により、作業の中断、あるいは作業を中止するこ
 とがある。
・日本海側の冬季中は、高波浪の荒れ た天気が多く、作業制約が増
 大する。
・基幹港から海上の風車までの往復に 時間的な制約を受ける。
・風車の大型化により、風車間の距離が増し、移動時間が長くなる。
・風車設置海域が拡大することで、設置工事や保守点検等、風車への
 移動バこ時間がかかるため、気象・海象の 影響を受けます。

この許容値は、現状は欧州の安全率を基準に、日本に合わせて開発し
ています。今後、日本の各海域の海象毎に、使用する工法や作業船の種
類によって、作業環境の安全性や工事作業の定時性の確保、作業船種
の選択等に適用した基準値が求められる。このため安全性、経済性の
検討には、風車建設地点における海象・気象条件を高精度に推定する
ととに、想定される工法を使用した際の施工稼動率を的確に予測する
ことが不可欠となる。

日本海の波は冬季では3m以上になる 
洋上風車への○&Mは、ブレードや支柱の点検作業や発電機、変電・
制御装置等の保守、修理が、定期的に行なわれます。そのために作業
員は基地港から小型船で洋上風車へ向かう。沖合に広がる大規模な洋
上風カサイトヘ、円滑な作業員輸送を実現するには、安全欧を最優先
し、波のリスクが極めて低い海象予測が求められる。波高が50cmを超
えると輸送船によっては作業員が風車に移るリスクが高まる。日本海
の沖合の波は、冬季になると3m以上にもなることから海象の実測値や
高精度の予測値が重要になる。

※MWS(マリンワランティサーベイ)洋上風力発電設備建設工事は、
作業時に多くのリスクが伴うことから、洋上風力建設工事保険(WI
NDCAR)への加入が必須となります。その保険契約において、保険
会社が認める第三者機関であるMWS(マリンワランティサーベイ)の
採用が保険付保の条件となることが一般的。
MWSは欧州のシステムを参照し、日本に合わせて開発された、日本
の気象・海象に対応した基準。工事の安全性を高めるために、MWSに
対応した高精度の気象・海象予測が求められており、当社では長期間の
海象調査やシミュレーションを実施している。予測には、海域ごとに
異なる海象の実測調査が非常に重要であり、耐久性の高い観測機器を
用いて、長時間の連続観測を実施しています。実測データをもとに国
内環境に合わせて開発したシミュレーションを実施することで、波高
や潮流などを高い精度で予測することが可能になる。


via 環境ビジネス2023年 冬季号


 世界最強風力タービン建造計画
中国企業が、直径 260 メートルのローターと定格電力 18 メガワット
(MW) の「超巨大」風力タービン建造計画を公表。
✔ 風力発電も総合的なエンジニアリングに突入していますね。大変
おもしろい。




 コロナ禍で出生数が急減、このまま我々は手をこまねき「小国」への
途を受容するのか。 人口は国力の源である。国際関係の基本構造は
「大国」が定め、「小国」はその中で生き残る方策を考えるしかない。
人口急減に直面する日本は、一億人国家の維持すら危うい状況にある。
このままでよいのか。本書は、介護保険の立案から施行まで関わり「
ミスター介護保険」と呼ばれた著者が、豊富なデータと学識、政策現
場での深い経験をベースに、危機的な日本の人口問題を正面から論じ
た超大作。 人口問題は、社会経済に深く関係し、国家存亡にも影響を
与える重要テーマ。それだけに我々の価値観に関わる根深い意見対立
も存在する。そこで様々な登場人物が異なる視点から語る小説形式を
とる。政府、政党、国会がどのように関わりながら政策・法案が練ら
れ、諮られていくのか、超リアルなストーリーに沿って、人口問題の
深刻さを知り、解決策の手がかりが得られるまったく新しいタイプの
書籍。 ※本書はフィクションである。登場人物は著者による創作で、
モデルは存在しない。しかし、登場人物が語り、取り組む人口減少問
題の内容は、すべて公開資料に基づく事実である。

『目次』
プロローグ 衝撃の海外レポート
第1章 一億人国家シナリオの行方
第2章 高出生率国と低出生率国の違い
第3章 出生率向上のための「3本柱」
第4章 「地方創生」と「移民政策」
第5章 議論百出の人口戦略法案
第6章 波乱の「人口戦略国会」
エピローグ 「始まり」の終わりか、「終わり」の始まりか

【著者略歴】
山崎 史郎(やまさき しろう、1954年〈昭和29年〉12月17日 - )は、
日本の厚生・厚労官僚。リトアニア国駐箚日本国特命全権大使等を経
て、内閣官房参与(社会保障・人口問題担当)。 
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【最後の読書録 Ⅰ】
"小さく産んで大きく育てよ" はまちがっていたのか
1979年1月6日、わたしたちの家族つくりはこの言葉ではじまった。そ
して、冬銀河を見つめ、この国とこの世界の行く末を考える。

第1章 一億人国家シナリオの行方

図1-2年間出生数と合計特殊出生率の推移

現下わが國の人口は著しく過剰である。このために國民の生活水準の
向上は容易に望まれないばかりでなく、他面、わが國の経済復興計画
の樹立と実施に著しい困難を貢えており、更に婦人解放、母性文化の
向上に対しても大きな障碍をなしていることが認められる。
1949年には内閣に人口問題審議会が、その後、19533年に厚生省に常
設の人口問題審議会(以下、「人口審」)が設置され、人口政策が審
議された。当時、人口増加を抑制する方策として考えられたのが、受
胎調節」と「移民」である。移民といっても、現在議論となっている
ような海外から日本への移民ではない。日本人が海外へ移住していく
ということである。戦前からハワイなどへの海外移住が行われていた
が、戦後はブラジルなどへの移住が再開された。一方、「受胎調節家
族計言」のほうは、官民あげての産児制限運動として強力に展開され
た。1948に優生保護法が制定(49年、52年に改正)され、人工妊娠中
絶の要件が法定化されるとともに、都速府県知事の指定を受けた助産
婦などが「受胎調節実地指導員」となって、各地域で受胎調節を指導
する体制が整備されている。農村地域では「計画出産モデル村」事業
が展開された。これは、①最初に、その地域の人々全体に対する啓発
活動、②次に、その全体の中から受胎調節実行希望者を選び出して、
それらの対象者に対する集団教育、③最後に、一組一組の夫婦に対す
る定期的な個人指導、という3段階にわたる徹底したものだった。企
業でも労務管理の一環として受胎調節指導が行われ、指導員が、社宅
の主婦を5世帯から巧世帯ずつのグループに分け、集団指導や戸別訪
問による個人指導を展開した。こうした活動により、避妊を現在実行
している。または前に実行したことがある人の割合は、1950年には29
%だったが、60年代には8割に速した。また人工妊娠中絶は1949年に
は10万件であったのが、50年代半ばには毎年100万件を超えるまでに
なる。その結果、出生動向に大きな変化が生じた。
図1-2を見れば分かるように、出生数は1949年から、1950年の1年
間で、一気に36万人も滅少した。出生率は1942年に4.54であったのが、
10年後の1952年には2.04にまで急速に低下した。10年間で出生率が実
に半分以下に急減したのだから、劇的な変化である。こうした動きを
専門家は「人口転換」と呼ばれる。終戦後の人口急増期を脱したあと、
政府が目指したのは「静止人口」である。

「静止人口」の実現
静止人口とは、出生数と死亡数が等しく、人口増加率がゼロとなる状
態を指している。1959年に人口審がとりまとめた「わが国人口再生産
の動向についての意見」は、「わが国の人口はすでに1億をこえる大
規模の人口であり、非常に高密度の人口であって、高い人口増加率は、
これを歓迎することはできない」とする一方で、「わが国の人口が低
い出生力によって縮小再生産のポテンシャルを内蔵していることは注
意を要する」とし、それゆえに、「近い将来においてわが国の純再生
産率が1に回復することが望ましい」という方針を示した。

この「純再生産率が1」というのは、「静止人口」の状態を意味して
いる。そして、「純再生産率」とは、1人の女性が次世代で何人の女
性に置き換わるかを示す指標であり、その数値が1というのは、出生
率(合計特殊出生率)が「人口置換水準」当時は2.10程度)であるこ
とに相当する。つまり、静止人口の状態を実現するため、出生率が人
口置換水準の2程度で安定的に推移することを目指すべきである、と
いうものだった。
それでは、実際の出生率の動きはどうだったのだろうか。図(1-2)
をもう一度見てほしい。当時の状況をよく見ると、出生率は、1957年
に2.04になってから、1974年の2.05までの間(図の二重線囲みの部分
)、1966年「ひのえうま」の1.58を唯一の例外として、2前後で安定
的に推移していたことが分かる。静止人口が実現したとみなされるよ
うな状態が現実に起きたのである。

再び「出生抑制」のキャンペーン----日本人口会議  
ところが、「静止人口」を実現したと考えられた状態は、その後、急
速に崩れていった。1975年に2を切った出生率は、3年後の1978年に
は一気に1.8を切り、それ以降も低下し続けた。この勤きのきっかけ
になったとされるのが、1974年に再び、官民あげて展開された「出生
抑制キャンペーン」である。すでに1970年代初頭には、出生率は人口
置換水準に近かったが、1974年4月に人口書が決定した戦後2回目の「
人口白書」(表題「日本人口の動向-静止人口をめざして」)は、出
生抑制の必要性を強調した。この白書は、天然資源の多くを輸入に頼
る日本が、「増加が予想される人口をいかにして扶養すべきかという
ことが多大の関心をひくようになった」とし、日本の人口問題も「地
球規模的な観点から再検討を要する」と指摘した。そして、「出生抑
制にいっそうの努力を注ぐべきである」と提言したのである。

これを受けた形で、同年7月には、政治家や研究者、家族計画関係諸
団体が結集した「日本人ロ会議」が開催された。この会議は、3日間
にわたる講演やシンポジウムを経て、大会宣言を採択した。その中で
は、「まずわれわれは、わが国の人口増加率が、アジアでは最低なる
が故に"ご心配は無用だ"という錯覚を、直ちにすてるべきである」と
した上で、「人口増加の勢いを阻止するための節度ある、しかも効果
的な対策が必要である」ことから、「"子供は二人まで” という国民
的合意を得るように努力すべきであるとさえ考える」と訴えた。
こうした宣言が出された背景には、当時は「第二次ベビーブーム」の
到来やオイルショックによる経済低迷があり、人口増加に対する懸念
が急速に高まっていたことと、翌8月にルーマニアの首都ブカレスト
で、発展途上国の出生抑制をテーマとする国連の「世界人口会議」が
開催されるため、「家族計画の優等生」としての日本の発信が強く期
待されたことが影響したとされている。

人口審は、人口白書と同じタイミングで、「国連世界人口会議対処方
針についての意見」を決定し、政府に提出している。その中で、「本
審議会は日本政府が人口増加抑制政策への提案国となることを期待す
る」とし、「国際会議の場で積極的発言をするためには、何はともあ
れ自らの足もとを見すえて襟を正す必要がある。それにはわが国自ら
の人口増加抑制政策に対する進路を示すことこそ、国際舞台での積極
的発言に説得力をあたえ、諸外国の信頼に応え、国際協力に貢献する
ことになる」との意見を明らかにしていた。当時の関係者の報告によ
ると、8月の国連世界人口会議では、日本の「歯切れのよい態度は、
かなりの好評を呼んだが、日本人口会議での活発な討論と大会宣言の
強い口調が、その駆動力と支えになっていることは明らかである」と
されている。
官民全体がそうした雰囲気にあったせいか、各メディアは大会宣言を
大々的に報じた。新聞報道は150編以上にのぼり、人口教育効果は
大いに上がったとされている。その中には、日本は危機感が足りない、
現状を維持していくには一夫婦当たり子ども数を0.7人まで減らさな
ければならない、といった論調もあったという。こうして「子供は二
人まで」という認識が国民の間に一気に浸速していき、出生率は、再
び急速に低下していったのである。

「政策の空白」と「楽観的見通し」
1970年後半から80年代にかけて、出生率はほぼこ貝して低下し続けた。
その背景には、これまで述べたような「出生抑制」の勤きとともに、
若年世代の未婚率の急速な上昇という、社会経済構造の変化があった。
女性の就業機会の増加などによる「出産の先送り(晩産化)」と呼ば
れる現象である。しかし、そうした出生率の低下に対して懸念が示さ
れることはほとんどなく、政策課題として取り上げられることもなか
った。戦前の「産めよ、殖やせよ」という出産奨励策に対する批判が
常に念頭にあり、出生抑制という大きな潮流の中で、人口増加につな
がるような動きに慎重詰が強かったことは確かであるが、政策という
点では「空白期間」と言わざるを得ない。

同じく1970年代から欧米でも出生率は低下し始めたが、これに対する
スウェーデンの対応は素早く、1974年には、若年世代が仕事と育児が
両立できるよう支援する政策(両立支揚言に取り組み始めた。フラン
スなどの国も80年代以降、相次いで両立支援策の強化を図り、日本と
は対照的な動きを強めていった。 こうして日本の出生率が低下し続
けている間、日本政府や人口問題の専門家は、出生率低下の現象を、
一体、どのように捉えていたのだろうか。「平成27年(2015)版厚

労働白書」は人口問題に関する当時の考え方を整理している。それに
よると、出生率が1.75なった1980年に人口書は、夫婦が生涯に生む子
どもの数には変化なく、出生率の低下は、女子の進学率・就職率の上
昇により結婚・出産が遅れているためと分析し、「一応
静観が許され
る」とした。1984年に人口書が編集した書籍でも、夫婦の子どもの生
み方そのものにはあまり大きな変化は見られないため、今後、結婚年
齢の上昇が止まるとともに、出生率は下げ止まり、やがて上向くこと
が考えられるとしていた。

そして、この考え方は、日本の将来人口の推計にも影響を及ぼした。
推計の際に設定される「出生率の長期仮定値(中位推計)」は、出生
率が低下し始めた以降も昭和61年(1986年)推計までは、人口置換水
準に相当する2を下回らない数値が設定された。当時の出生率低下は、
「出生のタイミングの遅れ」による一時的な効果に過ぎないというの
が、専門家の支配的な考え方だったのである。しかし、現実には、そ
の後も20代、30代の未婚率は上昇し続け、それに伴い出生率は低下し
続けた。

少子化対策に乗り出すも、効果は上がらず
1989年に、出生率が「ひのえうま」の年を下回る1.57にまで低下した
ことは、「1.57ショック」として大きく取り上げられた。これを契機
に、翌90年、政府はようやく少子化対策に乗り出した。子育て支援を
中心とする対策が打ち出され、「エンゼルプラン」の策定(1994年)
に始まり、各分野において様々な措置が講じられていった。
 しかし、対策の実際的効果は少なく、出生率は低下し続けた。
 当時、少子化問題に先見性を待って取り組んだ数少ない厚生官僚で
あった古川貞二郎氏は、成果が出なかった背景として、「当時は、戦
前の『産めよ、殖やせよ』の忌まわしい記憶があって、出生について
は公がかかわるべきじやないというような根強い社会風潮があったこ
と」に加え、「当時政府は高齢者対策にかかりきりになっていたこと
がある」と述べた上で、少子化対策について「決死の覚情でやるべき
でした」と真情を吐露している。古川氏が指摘した社会風潮は、2000
年代になっても続いた。

こうした状況に加え、少子化対策の中心となる、子育て支援策に対す
る各界の消極的な姿勢が、取り組みの遅れにつながった面は否定でき
ない。たとえば、児童手当は、制度導入が1972年と諸外国に比べ
遅かった上に、「小さく生んで大きく育てる」はずだったにもかかわ
らず、導入後も無駄使いだと財政当局や経済界から何度も見直しの声
が上がった。保育制度についても、都市部を中心に待機児童問題が発
生する中で、制度創設時の基本理念をめぐる議論や、保育所と幼稚園
の「幼保一元化」の問題などが提起され、改革の方向性はなかなか定
まらず、結果として、女性就業に伴う保育ニーズの増大への対応は遅
れ続けた。



図1-3 人口推計の比較(「一偉人国家シナリオ」)----「選択する未来委
員会」「地方創生ビジョン」「将来推計人口(中位推計)」
備考:
①「選択する未来」委員会における推計では、合計特殊出生率が2030年
 に2.07まで上昇し、それ以降同水準が維持すると仮定。
②地方創生長期ビジョンにおける推計では、合計特殊出生率が2030年
 に. 8程度、2040年に2.07程度になると仮定。
③「日本の将来推計人口(平成29年度推計)」(出生中位・死亡中位)にお
  ける合計特殊出生率は、実績値が1.45であった2015年から2024年の
  1.42に至るまで緩やかに低下し、以後やや上昇して2035年の1.43を
  経て、2065年には1.44へと推移する。
資料:内閣府、第2回「選択する未来2.0」会合提出参考資料(2020年3月)
に基づき筆者作成。

失われた「第三次ベビーブーム世代」
再度、図1-2に移る。この図では、年間出生数の勤きも示している。
出生数は、出生率の動向に影響を受けるのは当然だが、両者の動きは
必ずしも同一ではない。それは、先ほど述べたように、出生数は出生
率だけでなく、「再生産年齢(15~49歳)の女性人口」も関係するか
らである。仮に出生率が変わらなくても、再生産年齢の女性人口が増
加すると、出生数は増加するし、逆に女性人口が減少すれば、出生数
は減少する。

日本の人口構成で見ると、終戦後の「第一次ベビーブーム世代」が、
一つの大きな塊(団塊の世代)を形成している。年間270万人近くの出
生数があった世代である。その「第一次ベビーブーム世代」の子ども
たちが中心となって1970年代前半(1971~74年)に年間出生数が200
万人に達する「第二次ベビーブーム世代(団塊ジュニア世代)」が誕
生した。この2つの人ロの塊が、数の上で突出しており、日本の総人
口を引っ張ってきたと言える。
そこで、いずれ将来、この「第二次ベビーブーム世代」が結婚して子
どもを生めば、年間200万人は無理としても、かなりの出生数が見込
める「第三次ベビーブーム」がやってくるのではないか、そうなると
少子化の動きも緩和されるのではないかと期待されたのである。しか
し、残念ながら、「第三次ベビーブーム」は到来しなかった。彼らの
結婚、出産が想定されたのは、1990年代後半から2010年代前半までの
間(図1-2の右の点線囲みの部分)で、最も期待されたのは200年前
後たった。
実は、この時期にちょうど、日本は金融システム不安に端を発した経
済危機に見舞われ、さらにぞの後リーマンシヨックが襲いかかった。
その時最大の犠牲者となったのが、若年世代だったのである。日本の
雇用システムが大きく変化する中で、厳しい就職難や生活基盤の不安
定化は、就職、結婚、出産の時期にあった彼らに決定的な影響を与え
た。晩婚化の流れは、1960年代後半に生まれた「バブル世代」によっ
て90年代から強まっていたが、90年代後半から始まった経済危機は、
それに追い打ちをかける形となり、未婚者を急激に増加させた。その
結果、出生率は過去最低の1.26(2005年)にまで落ち込んだ。そして、
その後、若干の上昇が見られたものの、再び低下に転じ、いまだに低
い水準を脱し切れないでいる。

「人口貯金」を使い果たし、人口減少へ
以上述べてきたように、わが国の出生率は1970年代半ばから急速に低
下し、人口置換水準の2.07を下回る状態が、今日に至るまで50年近く
にわたって続いている。ところが、少子 日本の人口は長らく増加を
続けてきた。つまり、「少子化」イコール「人口減少」とは、すぐに
はならなかった。
それは、出生率低下によるマイナスを埋めて余りある要因があったか
らである。1つには、これまで戦後の第一次・第二次ベビーブーム世
代という大きな人口の塊があり、再生産年齢の女性人口が相対的に多
かったため、出生率が下がっても出生数は大きく低下しなかったこと
がある。そして、他の1つは、この間、平均寿命が急伸したことが示
しているように、死亡数(特に乳幼児死亡数)が低い水準で抑えられ
ていたことである。こうしたことから、長らくの間、出生数が死亡骸
を上回り続け、人口は増加してきた。
1990年ごろから「少子化」の問題が叫ばれながらも、一般には危機意
識がそれほど高まってこなかったのは、このような幸運な状態が続い
たことが背景にあるかもしれない。そして、この「人口貯金」とも呼
ばれる状況がついに使い果たされたのが、2008年であった。これを境
に、日本の人口は減少局面に入ることとなったのである。

人口減少はいったん勣きだすと、止まらない
壱岐からの報告が終わると、その後、出席者による意見交換が予定さ
れていた。だが、会議室ぱ沈黙に包圭れた。それほど気が重くなる内
容だった。そんな時、議論の口火を切ってくれたのは、しばしばメデ
ィアに登場する企業経営者の古賀だった。
「私は、正直、驚きました。人口や出生率は、国民の生活水準や社会
経済の動きに応じて変化してきたと思っていたのですが、随分、国の
政策が関わっているのですね」
すると、壱岐がこう説明を付け加えた。
「戦後の動きを見ると、今日の人目減少のかなりの部分ぱ、国の政策
が反映した結果だと言えるかも
しれません。終戦直後から1970年代半ばまでは、出生抑制政策が強力
に展開された時期で、出生率低下は政策の『作為』による結果です。
そして、70年代後半から80年代にかけては、政府は人口問題への介入
を避け続けましたので、その意味では、政策の『不作為』が反映して
いると言えます。その後、90年代以降、政府は少子化対策に乗り出し
たのですが、少子化の流れは、現在に至るまで止めらねない状態が続
いています。
「政府が本格的に取り組めば、状況はすぐに変わるんじやないのです
か。与党や政府では、『こども庁』を創設するような構想もあるよう
ですし」と古賀が言うと、
壱岐は、「今日のように、人口減少の局面に圭でなってし圭うと、も
はやこの動きぱ、そんなに簡単には止まらないのです」と深刻な表情
を浮かべた。
古賀と壱岐のやりとりに、気鋭の経済学者、片岡が口をはさむ。
「政府は、1倍人を維持すると言っているわけですから、当然ながら
国民は、近い将来、人口減少は止まるだろうと期待しますよ。壱岐さ
ん、そのあたりはどうなのですか」
「将来人口のことは、次回の勉強会で詳しく説明しますが、人口には
いったん、ある方向に動き出したら止まらない性質かおりまして、そ
れを止めるのには非常な困難を伴うのです」
「次回は、その辺を詳しく聞きたいですね」
古賀がそう返して、第1回の重い雰囲気の会合は終わった。

毎年、政令指定都市クラスの人口が消失していく
この見解を聞いた出席者から、深いため息がもれた。壱岐は話を続け
た。----本日のテーマは、将来、日本の人口はどうなるのかというこ
とである。

人口の将来推計でベースとなるのは、国立社会保障・人口問題研究所
(社人研)が5年ごとに発表する「将来推計人口」で、現時点で最新
のものは、平成29年(2017/言推計である。
人口推計は、将来の「出生」及び「死亡」の推移について、それぞれ
「中位」「高位」「低位」の3つの仮定を設定し、それらの組み合わ
せにより9通りの試算を行う。平成29年(2017年)推計では、長期に
わたって安定的に推移する出生率を「中位推計」では1.44、「高位推
計」では1.65、「低位推計」では1.25に仮定している。このうち「中
位推計」によると、総人口は、約30年後の2053年には1偉人を切り、
2060年は9284万人、2090年は6668万人、20110年には6000万人を切っ
て、5343万人となると推計されている。人口減少のスピード(中位推
計)としては、2030年ごろは年間80万人の減少だが、その後、減少幅
は年々拡大し、2060~70年代には年間100万人前後にまでなる。その後、
徐々に縮小するものの、2110年でも年間60万人程度の減少が見込まれ
ている。時期によって変動はあるが、毎年、「政令指定都市クラス」
が一つずつ、数十年以上にわたって消えていく計算だ。それ以降の推
計は行われていないが、当然ながら、出生率が人口置換水準の2.07以
上にならない限り、人口減少はいつまでも止まらない。そして、2020
年の現実の出生率である1.34は、この人口推計の出生率の仮定値(20
20年時点)と比較すると、「中位推計」と「低位推計」の間にある。
したがって、このまま推移するならば、将来の日本の人口は、今ほど
紹介した「中位推計」よりも下回るおそれがある。由々しき事態と言
わざるを得ない----。

「一億人国家」シナリオの実現性
次に壱岐は、「一倍入国家」シナリオについて話を進めた。
では、2014年に政府は、一定の試算の下で「一倍入国家」を目指す方
針を打ち出したが、その試算はどのような前提で行われているのか。
2014の「一倍入国家」シナリオの試算(図1-3の「①選択する未来
委員会推計」)は、出生率が2030年に2.07まで向上し、それ以降同じ
水準が維持されると仮定している。それが実現されると、2060年には
1億546万人となり、2090年頃から人口は安定化し始め、2110年以降
は9961万人の水準で安定する、という見通しである。その後、2019年
に行われた別の試算(図1-3の「②地方前生長期ビジョン推計」)
では、2030年までに1.8程度、2040年に2.07程度に向上するという仮
定を置き、その下で、2060年は1倍189万人となり、2110年以降は8969
万人の水準で人口が安定する、との見通しが示された。
これらのシナリオの試算を、先はどの社人研の平成29年(2017年)推
計と比較してみると、どうなるか。いずれの試算の出生率も、「③将
来人口の中位推計(図1-3の黒点線)」の1.44はもちろん、「高位推
計」の1.65をも大きく上回至高い水準に、10~20年というハイペース
で到達することが前提となっている。一方、足もとの出生率の勤きは
どうかというと、先ほど述べたように、「中位推計」を大きく下回る
1.34(2020年であり、そして、さらに低下する傾向にある。残念だが
シナリオの前提には遠く及ばず、このまま推移すれば「一億人国家」
のシナリオの達成は、極めて難しいと言わざるを得ない。もし実現し
ようとするならば、大きな社会変革にすぐにでも取り組まない----。
と、間に合わない-。

 「人口減少」----5つの不都合」
 「人口問題の専門家の立場から見ると、『人口減少』という事象
 に対する人々の認識は、一般に甘いと言わざるを得ません。もっ
 とも、従来の人口学で考えられていた古典的『人口転換』理論の
 想 定を超えるような事態が起きつつあるのだから、仕方がない
 のかもしれませんが、もちろん、決してあきらめる必要はありま
 せん。しかし、私たちにとって″不都合″ではあるものの、将来
 確実に起こる事態は、しっかりと認識しておく必要があります」

ここまで話したあと、1枚のペーパー(図1-4)が配られた。
壱岐自身が名付けた「人口減少-5つの不都合」という表題のメモだ
った。そのメモを示しながら、壱岐は説明し始めた。
                        この項つづく

✔ わたしの当初予想より、楽観的な数字で語られておりその差につ
 いて再試算する必要があるが、この作品の読破するまでには何か見
 つけることができるだろうと楽観視している。

 風蕭々と碧い時代


Jhon Lennon   Imagine

  

曲名: 雪の華 2003年10月 唄: 中島美嘉 J-POP
作詞:Satomi  作曲: 松本良喜

のびたかげを舗道にならべ
夕闇のなかを君と歩いてる
手をつないで いつまでもずっと
そばにいれたなら 泣けちゃうくらい

風が冷たくなって 冬の匂いがした
そろそろこの街に 君と近付ける季節がくる

今年 最初の雪の華を ふたり寄り添って
眺めているこのときに 幸せがあふれだす
甘えとか弱さじゃない ただ 君を愛してる
心からそう思った

君がいるとどんなことでも
乗りきれるような気持ちになってる
こんな日々がいつまでもきっと
続いてくことを祈っているよ

風が窓を揺らした 夜は揺り起こして
どんな悲しいことも 僕が笑顔へと変えてあげる

舞い落ちてきた雪の華が 窓の外ずっと
降りやむことを知らずに 僕らの街を染める

『雪の華』(ゆきのはな)は、2003年10月1日に発売された 中島美嘉
の10枚目のシングル。中島自身が出演した明治製菓(現・明治)
「boda」「galbo」のCMソングであり、第45回日本レコード大賞で 本
作は金賞を受賞し、作詞のSatomiは作詩賞を受賞。また、本楽曲をモ
チーフとする実写映画が2019年2月に公開されている。 NHKの『NHK紅
白歌合戦』では、2003年第54回、2005年第56回と2回歌唱されている。
2005年第56回NHK紅白歌合戦の出場者選考の参考アンケートとしてNHK
が実施した『スキウタ〜紅白みんなでアンケート〜』に紅組9位で ラ
ンクイン。また、発売以降、毎年『冬うた名曲ランキング』など各冬
うたランキングに選ばれる曲となった。中島のリクエストによって、
ミュージックビデオは摂氏0度以下のスタジオで撮った。 韓国では、
多くのアーティストがカバーするために中島側に許可を求めたが、本
人が直接聴いた結果、シンガーソングライターのパク・ヒョシンに決
定。そして、KBS第2テレビのドラマ『ごめん、愛してる』の主題歌と
して披露され、大ヒットを記録した。

● 今夜の寸評:(いまを一声に託す) 思いから行いへ
Right now, take the first step toward achieving the goals you have set.
せっかく立てた目標も、実行しなければ達成できない。
まず一歩、踏み出していこう。

PS. 近くの家電販売店に用事があり出かけると、プリンター用紙をシ
ャープが販売していることを知る。そういえばテレビ、有機ELが独占
状態で、かつての液晶テレビは片隅においやられていった。栄枯盛衰
と「平家物語」を思いだし、スマートフォン用のワイヤレスイヤホン
セットも忘れずに買って帰る。
>


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