浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

本を読む行為

2020-01-28 08:24:29 | 読書
 私の家には、たくさんの本がある。子どもの頃から本を読むことが好きで、本を読んで勉強しないと困る職業に就いたからである。その上、歴史研究をはじめたためテーマに関連する本を読みこまないと、発見された史料を歴史の中に位置づけることができないからであり、さらに時事問題など人々の前で話をする機会が増えているからでもある。

 今まで、読みたいという本は、次々と注文してきた。しかし、消費悪税が10パーセントになったときから、簡単に注文しなくなった。まず図書館にはないだろうかと探すようになった。消費をするたびに、1割の悪税というか罰金が課されるわけだから、買おうという意欲はわかなくなる。消費は、やむを得ない場合に限るようになっていく。

 かくして国民の消費意欲は減退し、需要は減り、景気は悪くなっていく。それは安倍政権が政策的に求めていることである。

 さて、私はそれでも、図書館から借りて、また少しは購入して本を読む。ところが若い人々は本を読まなくなっている。それはもうずっと前から言われていることだ。

 本を読む時間より、スマホを見る時間のほうがずっと長くなっているからでもあるが、もうひとつ経済要因があるようだ。


「若者の本離れ」を嘆く出版業界の大きな間違い 出版不況の根本的な理由は何か?
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ドストエフスキー体験

2020-01-16 08:48:59 | 読書
 大学に入学した年、夏休みは帰省せずにアパートでずっとドストエフスキーを読んで暮らした。高校3年の現代国語の先生が、みずからのドストエフスキー体験を感動的に語った。それを聞いた私は、先生と同じようにすべてを読破しようと、夏アパートにこもった。他人と話をするのは、「豆腐一つ」くらいであった。

 そのとき読んだ本は今も書棚に並んでいる。

 さて『座談会 昭和文学史』を読んでいると、ドストエフスキーのことが何度かでてくる。しかしそれを読むと、私たちが読んだのはドストエフスキーではなくて、翻訳者の米川正夫の文学を読んでいたというのだ。ロシア語ができる小森陽一はこう語る。

 日本では、深刻な小説という印象をもたれていますが、19世紀ロシアでのドストエフスキーの出自は大衆小説にあります。そういう意味では、日本でドストエフスキーに近いのは井上ひさしさんかもしれません。『罪と罰』にも駄洒落がたくさん入って笑えますよ。・・・・・米川さんの訳では、そういうあたりが消えている。みんな社会の矛盾や悲哀を一身に背負った登場人物になっていく。(71~2)

 こう書かれると、私が読んだドストエフスキーは、本物のドストエフスキーではないということになる。私は、ずっと深刻にドストエフスキーを読んだ。人生とはなんぞや、などという青春期にもつ疑問を背景にして、むつかしい顔をして読み進めたのだ。

 今更ロシア語を勉強するなんてことはできもしないから、はてどうしたものか。

 ドストエフスキーやトルストイが翻訳されたのは昭和初期。その頃から、ドストエフスキーの読者は、「社会の矛盾や悲哀」を背負いながら難しい顔をして読んでいたことになる。確かに、ドストエフスキーを読んでいたとき、笑いはなかった。小森陽一は、笑いながら読んだという。

 翻訳物をどう考えるのか、も検討しなければならないことだということになる。
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並行して

2020-01-10 21:58:05 | 読書
 私は、芥川龍之介全集を持っている。その表紙は、浜松にあった今枝染工が染めたものだ。今、今枝染工の跡地はパチンコ屋になっている。

 私はその全集を読みはじめようとしている。その理由の一つは、最近某所で石川啄木や小林多喜二、竹久夢二らのことを「〇〇〇〇とその時代」と題して話をしている。それぞれが生きた時代を、彼らの生の軌跡をたどりながら浮き彫りにしていくという手法である。
 その聴講者から、芥川を扱って欲しいと言われた。はたしてできるかどうかを確かめるべく、岩波文庫の『芥川追想』を読んでいる。言うまでもなく、芥川と交流があった人々が芥川龍之介という作家・人間を追想しているのだが、これがなかなか面白い。

 芥川ほどの作家となると、芥川のなかに、捉えることができないほどの広大無辺の精神世界がある。その精神世界を、また同じように作家活動をしている人たちが語るのだ。収載されている文を読み続けると、日本にはものすごい精神世界の蓄積があることに気付く。

 『東京新聞』で、田中優子法政大学総長がコラムを書いている。楽しみに読んでいるが、江戸時代の文学などを主に研究している田中氏が、近世文学というか江戸学という方が正確だと思うが、その世界を少しずつ教えてくれる。近世にも、精神世界を書きつけたものがたくさん残っている。

 日本に生まれてきて、そうした蓄積された精神世界を知らずしてあの世に去っていくのは、あまりに惜しいと思う。

 学問研究でもそうだが、今の日本人は蓄積されてきた文化とか文学など、「良きもの」とあまりに疎遠になっていると思う。

 私は、いくつか並行して仕事をしているが、もうひとつは関東大震災における軍隊、警察、民衆の蛮行の背景に何があったのかを考えている。その作業の一つとして大江志乃夫さんが書いた『戒厳令』(岩波新書)を読んだが、まったく素晴らしい内容であった。大江さんらしく緻密でねちっこい研究成果である。大江さんはすでに亡くなられたが、大江さんの研究はすべて参照されるべき業績となっている。

 あらゆる分野で、多くの人たちが「良きもの」を著し、それらが蓄積されている。

 それらをあとどのくらい自分のものにすることができるだろうか。芥川がいう“孤独地獄”にはいり込まないとなかなか進まない。
 私は「良きもの」をできるだけ摂取したいと思うのだが、アベ政権の恣意的で暴力的な施策がそれを邪魔する。

 静かな晴耕雨読の生活、そして時々その成果を語るという生活に入りたい。
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【本】森嶋通夫『サッチャー時代のイギリス』(岩波新書)

2019-11-28 13:38:52 | 読書
 1988年に出版された本である。1979年にイギリス首相になったマーガレット・サッチャーの政治がどういうものであるかを記したものである。日本ではイギリス並みの小選挙区制が実施されていない時代、小選挙区制のイギリスにサッチャーのような人物が登場したらどうなるかを、実地で体験している森嶋が書いた本である。

 にもかかわらず、政治学者・山口二郎は小選挙区制導入の旗を振っていた。今は後悔しているようだが、山口はこの本を読まなかったのであろうか。
 
 サッチャーは、効率最優先と利潤原理の貫徹を掲げた政治を行った。利潤原理になじまない教育にも利潤原理と効率至上主義を導入し、公共セクターを私企業に売り渡した。

 もう30年も前に刊行された本であるが、現在の日本で行われている政策に相似的である。その弊害も相似的である。

 この本、今読んでも古くはない。とりわけ、現政権の大学政策、30年前のイギリスが行ったこととほとんど同じ。一部の大学教員はたいへんだたいへんだと騒いでいる。しかし多くの教員は黙っている。

 森嶋さんは、「いったん時代の進む方向が逆向きになったと一般の知識人が判断すれば、彼らは栄誉と安楽を求めてわれもわれもと右傾化するであろう。知識人ほど転向に敏感なものはない。知識人の大部分は便乗の徒であり、時代の風向きが逆さまになっても、なおかつ一所定住を決めこむ愚鈍者は、もともと知識人の名に値しない、とすら言い得るくらいである。」(217頁)と書く。

 30年以上も前にイギリスで行われていたことに対して、大学教員がいかなる対応策もとってこなかったことに、私は驚いてしまう。

 日本の知識人も期待できない、ということである。
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小林多喜二(1)

2019-10-01 22:13:49 | 読書
 ある人から譲ってもらった新日本出版社の『定本 小林多喜二全集』を読んでいる。今日、第一巻を読み終えた。今まで、「蟹工船」、「1928年3月15日」など有名なものしか読んでこなかったが、多喜二は作家としての才能が半端ではないと思った。そしてとても人間的で、優しく、明るい人物であることがわかった。そしてまたとても利他主義的である。
 第一巻に収められている小説にそれが現れていた。

 まず社会的弱者への温かく、優しい眼差しが感じられる。またみずからの倫理観に反することはできないという人格の保持者であることも。

 第一巻の作品のなかで、よいと思ったのは、「田口の「姉との記憶」」、「師走」、「人を殺す犬」(これはものすごい短いが、迫力がある)、「万歳、万歳」、「女囚徒」、「龍介と乞食」、「ある改札係」、「曖昧屋」である。
 すべての作品に多喜二の人間性や思想が記されているが、とりわけてみずからの思想を前面に出して書いたものは、どうもストーリーに無理があるように思えた。

 しかし、多喜二の文学的才能は、有名な小説だけではない、こういう作品にも開花していることを知った。
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雨の日の読書

2019-07-15 10:07:52 | 読書
 志賀直哉の『暗夜行路』を読んでいる。秋に、小林多喜二を講じなければならないので、多喜二が文学者の先達としていた直哉の文学をきちんと読んでおかなければならないと思ったからだ。

 もちろんかつて『暗夜行路』は読んでいる。書庫から持ち出してきた新潮文庫の末尾のページには、読了の年月日が記されている。
 ところがまったく記憶がない。読んだことすら忘れていた。もちろん内容もである。
 
 読み進めているうちに、こんな内容も忘れてしまっていたのかと思った。主人公の時任謙作は、なかなか難しい出生の事情があった。母は実母であるが、父は父ではなく、祖父が父親であったことが、長じて知らされるのであった。実母が早くに亡くなった後、謙作は祖父のもとに預けられていた。その理由が、長じて分かるのであった。
 なかなか衝撃的な内容であった。なぜこういう衝撃的な話を忘れてしまっていたのか、と思った。昔読んだときには、そんなに衝撃的だと受けとらなかったのかもしれない。

 文学作品というのは、読む都度に感想が変わる。以前、三島由紀夫の『午後の曳航』を読んだとき、それは青春期の頃であったが、強く惹きつけられいろいろ考えた。それが日記にも記されている。しかし長じて読んでみると、まったく面白くはなかった。

 年齢を重ねたら、買ってあった全集を繙くことが理想であった。しかし、仕事を頼まれたり、時代が私をそっとしておいてくれないために、なかなかそれができない。

 日本の政治社会の現状には、絶望を抱いている。日本の未来は、破滅以外にないという気がしている。開高健の小説『パニック』のように、日本人は滅亡に向かって集団で走りさろうとしているかのようだ。

 無関心と沈黙が支える全体主義国家が眼前にあるかのようだ。

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【本】平野啓一郎『ある男』(文藝春秋)

2018-12-30 13:35:13 | 読書
 知的で社会的な小説である。

 宮崎県西都原市に住む里枝は、どこからか流れてきた男・谷口大祐と再婚する。最初の夫との間に出来た悠人、その谷口との間に生まれた花、そして里枝の母、5人家族であった。谷口は群馬県伊香保溫泉の旅館の次男だとみずからの素性を明かした。しかし実家の家族とは断絶して生きてきたとも語った。

 その谷口が、伐採作業のなかで事故死。里枝は、その旅館に連絡した。谷口の兄が宮崎にやってきた。しかし、その谷口は、谷口ではなかった。

 里枝は、先夫との離婚の際に世話になった弁護士の城戸に相談する。私の夫は、本当は誰なの?これがこの話の発端である。在日3世である城戸は、仕事の傍ら、この調査を続ける。

 その中で、戸籍とそれまで生きてきた人生の軌跡を取り替えるということが行われていることを知る。谷口は、残虐な殺人犯の息子・原誠であった。

 在日3世である城戸、そして在日に対するヘイトが横行する日本社会のあり方を問いつつ、ミステリー風に話は進んでいく。また城戸の妻との間に吹く隙間風、話の展開の中で夫婦とは、愛とは、家族とは・・・を問う。

 読む価値がある小説である。

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「○○らしい○○」

2016-03-10 20:14:23 | 読書
 昨日、『世界』4月号、『Journalism』3月号、そして単行本2冊が送られてきた。そして今日は『週刊金曜日』。

 昨日から『世界』を読んでいるが、なかなかよい内容が多いので紹介しようと思っていた。思っていたというのは、今夜夕食後にふと『Journalism』を手に取ったら、そこに稲垣えみ子さんの文が目にとまった。稲垣えみ子さんは、もと朝日新聞記者。報道ステーションに一度出演されていた。そのときのコメントや風采が気に入った。ユニークだったのだ。

 ボクは「○○らしい○○」というのは好きではない。たとえば「先生らしい先生」。自分のことを「先生はね・・・」と語る教員。ボクは羽目を外した生き方をする人が好き。体制にすっぽりと埋もれてしまっているような人、また上ばかりみている人は嫌い。面白くないからだ。
 面白い人生を生きている人、いろいろなことにぶち当たって苦しんだり、泣いたり、大笑いしたり・・・自由に生き生きと生きている人が好きだ。そういう人と会うと、嬉しくてたまらない。

 稲垣えみ子という人を見た時、ボクの嗅覚は、ふむこれは変わり者の記者だ、と思った。「○○らしくない○○」。稲垣さんが朝日を退社する時のコラムを読んだ。

  http://www.asahi.com/articles/ASH975CJLH97ULZU00B.html

 いい文章だった。稲垣さんのコラムをいくつか読んだ。情がこもっていた。人間が、人間のことを書いていた。苦しみ、悩み、悲しみ、笑う、そういう人間の姿が記されていた。

 そして今日、『Journalism』で、「怒りも悩みも個人の言葉もみえない それでもマスコミで働きたいですか」という文に接した。これもとてもいい文章だ。居丈高に、上から目線で文を展開していくのではなく、ひとりの人間としての自分の目線で、思ったことを、経験したことを綴っていく。難しいことを書いているのではない、鋭い主張をするのではない、でも説得力があり、訴える力がある。こういう人が朝日を退社した?朝日はもったいないことをしたなあと思う。

 ここに記されている文を、『世界』の内容より先に紹介したくなった。

 稲垣さんの姿やその考えは、以下のサイトでも記されている。

http://www.geocities.co.jp/asahi_roso53/cast_26_int_inagaki.html

 稲垣さんの主張は、要するに、自分自身が心の奥底から訴えたいもの(「おもしろい!」「許せない!」)をもった文でないとダメだと言っているのだ。「絶対にこのことは何が何でも伝えなければならぬ」という、パトスが必要だと言っているのだ。

 それは、ボクが行っている歴史研究にも通じる。この研究で、何を訴えたいのか、何を明らかにしようとしたいのか、それがないとよいものにはならない。ボクは、鋭角的な問題意識を持てと、一定の人には伝えてきた。ボクが今まで研究するなかで、現代的な意義を持つものをテーマにしてきた。自治体史であっても、そうした内容を綴ってきた。

 稲垣さんの文に戻る。

 そして「慰安婦」問題を契機に、「萎縮」(ボクにはそうみえる)している朝日新聞のあり方を問題にする。「読者目線」。それは「一方的な価値観の押しつけをせぬよう両論併記を心がける。社外の識者に定期的に紙面を点検してもらい、批判に謙虚に耳を傾ける。」そうすると「記事はどんどんひっかかりのない、つるんとしたものになっていく。つるんとしていればいるほど抗議を受けることもない。」

 稲垣さんは、そしてこう続ける。「しかしですね。だったらそもそも新聞なんて発行しないのが一番だ。何も発信しなければ絶対に苦情も抗議も来ない。・・抗議を受けないってことは、いつしか大きな者、力の強い者の代弁者になってしまう可能性をはらんでいる。マスコミが先頭に立ってモノ言えぬ社会をリードすることになりかねない。」

 ボクが稲垣さんの文でもっとも共感したことは、「世の中の苦しみとつながることだ」である。「「つるん」とした情報や、声の大きさを競うような主張が氾濫する裏側で、今みんなが本当に苦しんでいることは何なのか、その根っこを見つめることだ」と稲垣さんは綴る。

 そういう「苦しみ」とつながるとき、「中立」とか「両論併記」なんて考えることはない。そしてそれがないからといって抗議され、批判されたっていいじゃないかと、ボクは思う。

 稲垣さんも、「世に言う閉塞感とはつまるところ、人間が人間であることを許さない社会なのではないだろうか。契機も社会も行き詰まる中で、全体が生き残るためには個はどこまでも後回しにされ、誰もがおいていかれないよう、切り捨てられないようビクビクしながら生きている。今求められているのは「立派な見解」でも「正しい意見」でもない、ふつうの弱い人間同士が共感し励まし合える場なのではないか」と書く。

 そして、「耳を貸さぬ人を説得する言葉を必死で紡ぎ続けられるか」、権力の背後にいる「国民に「違う」と叫ぶことができるか」、「これからは、ものを言う人間はどんどんキツくなる。」

 「どんなに批判されても、給料が出なくなっても、自分たちがお金を出し合って印刷することになっても言わなきゃいけないことを持ち続けることができるか」。

 稲垣さんのことばは、厳しい。しかし、メディアの世界に入ることは、そうした決意が、本当は必要なのだ。

 Mくん、君には、「言わなきゃいけないこと」があるか?

 「言わなきゃいけないこと」は、鋭い感受性と、問題を問題として認識できる知性が必要だ。ぜひそれを鍛えて欲しい。

 今月号の『Journalism』の特集は、「若者よ、ジャーナリストを目指せ!」である。


 
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『伸子』

2016-03-09 14:20:57 | 読書
 静岡女性史研究会の『しずおかの女』第九集の紹介文を、研究会の会報用にまとめて送った。同誌には宮本百合子の『伸子』に言及した文があり、そこでボクは、学生時代『伸子』や『真知子』(野上弥生子)を読み論じ合ったことがあると記した。

 ところが、読んだはずのものではあるが、その内容をいずれも忘れてしまっていた。ただ結論的なこと、ボクは「真知子」のほうが好きだというようなことを語った記憶がある。

 しかしもう一度読んでみようと『伸子』を、Kindleで読んだ。幸い青空文庫のそれがKindle用になっていた。

 あまり熱心に読んだわけではないが、先ず読んでいて伸子と結婚した佃という男性は、ボクから見てもダメだと思った。主体性がなく、生きているという積極性もなく、みずからを表現することすらしない。他者とできるだけ関わらないように生きていて、まったく面白くもない人物だ。よくもこういう男性を伸子は好きになったものだと思った。

 個性的に生きていこうという伸子にとって、こういう男性とは一緒に生活はできないだろうと初めから予想してしまう。

 人生には躍動がないとおもしろみはない。軌道を外れたり、傍若無人のことをしたり、倫理に反するようなこともあったり、みずからのなかから湧き上がる情熱に身を任せたり・・・そういうことがないと、人生は死んだも同然だ。

 佃がみずからの意思を全面的に表現したようにみえた時は、たった一回である。それは伸子から別れを切り出され、それが本気であることが佃に認識された時のことだ。だが、それとて「表現したようにみえた」のであって、本当にそうであったかはわからない。ひょっとしたら演技かもしれない。佃は、伸子を愛しているのではなく(ことばではでてくるが、そのことばは嘘っぽい)、世間体とか離婚するということに対するある種の「恐怖」から、伸子を翻意させるために演技したのではないか。

 日常生活をくり返していくなかで、当初は存在していた愛情とか情熱は日常生活の中に塗り込められ、ドラマティックに出現するものではなくなっていく。となると、家庭生活に躍動することがなくなり、家庭ではなく、その外に躍動を求める。伸子の場合は、素子という女性との関係にあらたな躍動を求めるようになるのだが、それがあってはじめて伸子は明確に佃に離婚することを伝えることができたのである。そういうきっかけがないと、そうした決断はなかなかできるものではない。
 佃は、家庭にもあるいはそれ以外のところにも、躍動を求めるような人物ではない。そういう人物を、なぜ伸子が「愛した」のか。伸子にとって佃は、長い間を共に生きることのできる人物ではなかった。

 『伸子』は、夫婦のありかたなどを考える手段ともなる本だ。結婚のことなんかまったく考えもしなかった学生の頃、何故にこの本を読んだのだろうか。ひょっとして、Mさんに読まされたのかも知れない。
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1980年代

2016-02-27 21:48:23 | 読書
 今月、河出書房新社から『1980年代』という本が刊行された。到着したばかりで読んでいないが、最近1980年代はじめに存在していた「臨調」について調べ始めた。というのも、いずれ自治体史で「行政改革」について論じなければいけないので、それに関する本を読みはじめた。

 まず『臨調行革の構図』(大月書店、1982年)を読みはじめたが、その序論「対談 臨調密室協審議の実際と基本的性格」を読んでいると、第二次臨調で議論されていたことが、現在ほぼ実現しているということがわかる。21世紀の日本の設計図は、この臨調により作成されていた。

 臨調の中で議論されていた「行政改革」は、「行政のムダを省くとか、肥大化した機構をどうするかというようなものだと考えられている」が、そうではなく、「日本の政治や行政の全般について見直しをはか」るものであって、戦後の民主主義的な諸制度に対して、「超民主主義的な機関として絶対者のような姿勢で」裁断していったのである。そこで基調となっていたのは、「企業の論理」であり、「民営」にすればすべてうまくいくという考え、それとともに公務員の賃金を下げることによって民間の賃金を下げること、同時に「上厚下薄」の給与体系をつくりあげること、これは格差社会をつくることでもあり、戦後型の賃金体系を破壊するものでもあった。

 また民間企業の「社長と総理大臣とを同じように考えている」、つまり上意下達があるべき姿だと考えていて、なるほど今や自治体も教育機関なども「長」に権限が集中し、上意下達の「経営」が確立している。

 また「官は悪」、「民は善」という考え、そして大企業の要求を政治に正確に反映させること、これらも実現している。

 「官は悪」、「民は善」、こういう考えを社会に普及したのは、新聞やテレビであったことを思い出す。メディアは、臨調を隠れ蓑にした大企業に大いに協力したのだ。

 1980年代を今一度振り返ることはとても重要だ。現代社会の「悪」を退治するために、どういう経過でその「悪」が計画され、実践されてきたのか、をつぶさに調べるのだ。

 今、その作業を開始している。
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伝記

2016-02-07 21:14:13 | 読書
 歴史上の特定の人物についての生き方や思想などを描いた本がある。伝記とか評伝と言われるものである。後者の「評伝」は、人物評価を加えた伝記だと、辞書にはある。

 さて、近年書かれる伝記や評伝について気になることがある。最近、読むにい値しないようなものが出てきているのだ。

 ボクが伝記や評伝を読むのは、描かれている歴史上の特定の人物を、その時代状況に即して、生き方や思想を客観的に描いていると思うからである。

 ところが、最近、伝記や評伝を書く著者が、描かれるべき対象となった人物についてではなく、その人物の生き方や思想の一部を取り上げて、現在の時代状況や著者自身の思想、あるいは著者自身の生き方を交えて、あーだこーだと記しているものが散見される。読者であるボクは、歴史上の特定の人物について知りたいのに、結果的に著者のどうでもよい思想や生き方を読まされるということとなる。

 そうしたものを書く著者には、謙虚さのない人が多い。特定の人物を借りて、自分自身を主張したいのだ。読まされる方はたまったものではない。しかし、なぜかそういう本が注目されることもあるから、よけいに驚く。その理由は、学問の方法、この場合で言えば、客観的に人物の生き方や思想を描く方法がないがしろにされているからだと思う。同時に、主観的な判断でも、何でも許されるという知的劣化があるからだ。

 今までの学問の蓄積が軽視されていることでもある。

 学問が浮遊しながら、どこかに流されていくように思われる。
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極寒の『時間』

2016-01-24 20:51:34 | 読書
 しんしんと夜は更けて行く。最大級の寒波が来ているせいか、ストーブをつけているのに、足元は冷たい。しかしその冷たさに気がつかないままに、堀田善衛の『時間』を読み終えた。

 1937年11月から翌年の10月まで、南京で生きた中国人となった堀田が、そこで見た、体験したであろう事態、それはもちろん限定された時空のなかでのものであるが、その事態のなかで考え、思ったことを叙述するという小説だ。それはもちろん、過去から未来へと一方通行で過ぎていく時間の流れに沿って記されていくのだが、その思考や思惟は、時空を超えることができるが故に普遍性をもったものとなる。

 そしてこの本は、歴史の本ではない。特定のきわめて世界的に有名な実在した事件の渦中を「舞台」として書かれたものではあるが、その「舞台」を描こうとしたものではなく、その「舞台」の上でいかなる思考や思惟が為されたか、その可能性について書かれたものではないかと思うのだ。極限状態の中での思考や思惟の可能性、その意味で、この本はまさしく文学である。

 その「舞台」で、無数の人びとが虫けらのように殺された。主人公も、妻と子ども、そして嬰児を殺された。そして従妹が日本軍の暴虐により瀕死の状態に追い込まれる。そのような現場(「舞台」)で、どのような普遍的な思考や思惟がなされるのか。

 いうまでもなく、ボクはいつものように赤線を引きながら読んでいった。その赤線を引いたところにボクは立ちどまり、たちすくみ、その思考や思惟に揺り動かされながら、読み進めた。

 最後のことばは、

 人生は何度でも発見される。

 であった。まさに人生の可能性、未来という時間に開かれて終わっているのだが、しかしボクは、このことばに、実は圧倒された。

 人生は、この時間は、われわれが普通想っているように、生から死へと向かうだけのものではなくて、死の方からもひたひたとやって来ている

 南京で起きたことは、南京にいた中国人の生から死へという、ある意味順当な時間の流れを断ち切り、彼らの生に向けて死を差し向けたのである。その主体は、日本(軍)である。

 戦争(戦闘)というものの本質は、ここにあると思う。

 堀田が、極限の時空に置かれた主人公として生み出した思考や思惟は、まさに普遍性をもったものとしてある。そうしたところに赤線を引いてあるのだが、そのすべてを紹介するわけにはいかないので、ぜひ読んで欲しいと想う。辺見庸の「解説」もよい。


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力作

2015-10-01 07:43:23 | 読書
 『現代思想』の臨時増刊号、特集「安保法案を問う」は、ほんとうに力作揃いである。ボク自身も、反対の国会包囲デモに参加したりしていたし、関連書籍を読み、安倍政権が行った「クーデター」(石川健治)の問題性を強く認識した。

 本書の執筆者は、「参戦法案」そのものの問題性、アベ政権の非立憲性、多くの人々が街頭に出て抗議の声を上げた最近稀にみる人びとの動き、これらについて、正面から向き合い論じている。

 そういう文が並んでいる。

 今回の「クーデター」は、真剣に対座しなければならない事態であり、法案が成立されたとしても、今を生きる者は、この事態を放り出すわけにもいかず、常にNOをつきつけていかなければならない。それほど重要なのだ。

 徐々に、本書に記されている論文を読み進めているが、学問的な文であっても、運動についての文であっても、ただひとつの文(成田論文)を除き、その真摯さに圧倒される思いである。この問題に関する他の書物は、法学や政治学などの研究者が書いたものが多いが、本書は様々な分野から、この「クーデター」とそれに反対する良心的な運動を考察したもので、きわめて新鮮である。

 今読めなくとも、この本は買っておいて、参照すべきものとして所有すべきものである。1300円+悪税である。

 

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文を操る人

2015-09-30 07:09:07 | 読書
 『現代思想』の臨時増刊号の「安保法案を問う」は、各方面の方々が、それぞれの立場から、成立したという「安保法案」、ボクは「参戦法案」と呼んでいるが、それについて真正面から問題点を提示している。その意味では、教えられることが多い。

 未だすべてを読んでいるわけではないが、ひとつとてもひどい文に際会した。それは成田龍一の文である、そのあとに徐京植の「他者認識の欠落」というきわめて重く、また示唆に富んだ文が並んでいるから、その落差は際立っている。

 成田と徐の文は、他の二人の文とともに、「歴史から問う」というパラグラフのなかに置かれている。

 ところが、成田の文には、主張がない。なぜか。成田は「安保法案」を、正面に据えてまともに捉えようとしていない。今までも成田の文は、たとえば『大正デモクラシー』(岩波新書)などを読んできているが、読み通して、何の読後感も生まれないのだ。「大正デモクラシー」に関する一応の説明はあるのだが、それだけに終始していて、成田が「大正デモクラシー」という時代状況を、自分ではどう考えるのか、主体的に格闘したあとが見られないのである。

 今回の「安保法案」についても同様である。徐は、在日という視点から、「安保法案」だけではなく、原発事故や文科省による国立大学の人文社会科学系学部の廃止通達、「安保法案」反対運動、アベの「70年談話」などを俎上にあげて、「日本近代の思想を問題にする時、「他者」(アジア諸民族)認識の欠如は決定的に重要である」という視点から、鋭く切り込んでいる。

 ところが、成田は日高六郎編『1960年5月19日』(岩波新書)や丸山真男などの言説を並べて文を組み立てているのだが、何を主張したいのかがまったく霧のなかなのだ。末尾近くに「7月15日の歴史的・現代的位相の認識とそのことに基づく実践が、喫緊の課題である」とは記しているが、成田の文章を読んでいる限り、7月15日という衆議院安保特別委員会で「参戦法案」が強行採決された日への認識とそれに関わる実践の「喫緊」性が浮かび上がってこない。

 この雑誌には多くの人々が、「安保法案」に関する論考が載せられているが、それぞれこの法案を真正面から認識し、またみずからの立場から実践しようとしている。

 成田の文の特徴は、文を書く人ではなく、文を操る人という評価が適当だろう。

 わが家の近くには、天竜川が流れている。大雨もない平常の流れは、穏やかに見える。しかし流れの表面はそう見えるが、流れに入るとその強い流れに抗することはとてもたいへんだ。天竜川に呑み込まれ亡くなった人もいる。成田は、いつも表面だけを眺めて書く。その表面の下には、表面とは異なる位相の流れがあることまで認識が至らない。なぜか、「安保法案」とか、見すえるべき現実と正面から対座しないからだ。

 ひろたまさき氏が、『福沢諭吉』を岩波現代文庫で再刊した。その「解説」を成田が書いている。ひろた氏からこの本をいただき読み進めているとこrだが、ボク同様に寄贈を受けた町田の住人から、「何で成田に書かせたのだろうか、ひどい解説だ」という評価を聞いた。

 「解説」の末尾に、成田の専門を「日本近現代史」としているが、ボクは日本近現代史の「批評家」とすべきだろうと思っている。

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「戦後70年」

2015-07-31 23:14:31 | 読書
 今月号の『現代思想』の特集は、「戦後70年」である。『現代思想』は特集によって買わないこともあるが、ほとんど購入し、頭の体操と挑発的な記述によりみずからの問題意識を鮮明化するために読んでいる。

 樋口陽一氏と杉田敦氏の対談は、なかなか啓発的で、現時点で考えなければならない「憲法の前提」に関する「知」をもたらしてくれる。樋口氏は「立憲主義」に関する論考をかなり以前から発表されていたが、その「立憲主義」が今やきわめて重要な概念となっている。

 樋口氏の発言。

 立憲主義というのは権力の抑制で、軍事権力というのはその権力の最たるものですから、(18世紀のアメリカやフランスでも)軍事権力をどうするかが大きな問題として認識されていた

 ところが、安倍政権がだしてきた「参戦法案」であるが、国会の答弁を聞いていても、軍事権力をどのように抑制しながら行使するのか、それがまったく語られない、逆に安倍政権は軍事権力にフリーハンドを与えるような発言をしている。安倍政権の行っていることは、あらゆる意味で立憲主義の無視としかいいようがない。

 杉田氏は、この討論の最後にこう語っている。

立憲主義の重要性や人権の意義といった基本的な前提を共有していない人びととは、憲法改正をともに語ることはできない。

 残念ながら、歴史学においても、「基本的な前提」をまったくもたないままでの罵詈雑言がネットを中心に飛び交っている。

 学問の軽視、知に対する蔑視。安倍政権の大学政策にもそれは現れているし、育鵬社の教科書にもそれがある。
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