昨日、『世界』4月号、『Journalism』3月号、そして単行本2冊が送られてきた。そして今日は『週刊金曜日』。
昨日から『世界』を読んでいるが、なかなかよい内容が多いので紹介しようと思っていた。思っていたというのは、今夜夕食後にふと『Journalism』を手に取ったら、そこに稲垣えみ子さんの文が目にとまった。稲垣えみ子さんは、もと朝日新聞記者。報道ステーションに一度出演されていた。そのときのコメントや風采が気に入った。ユニークだったのだ。
ボクは「○○らしい○○」というのは好きではない。たとえば「先生らしい先生」。自分のことを「先生はね・・・」と語る教員。ボクは羽目を外した生き方をする人が好き。体制にすっぽりと埋もれてしまっているような人、また上ばかりみている人は嫌い。面白くないからだ。
面白い人生を生きている人、いろいろなことにぶち当たって苦しんだり、泣いたり、大笑いしたり・・・自由に生き生きと生きている人が好きだ。そういう人と会うと、嬉しくてたまらない。
稲垣えみ子という人を見た時、ボクの嗅覚は、ふむこれは変わり者の記者だ、と思った。「○○らしくない○○」。稲垣さんが朝日を退社する時のコラムを読んだ。
http://www.asahi.com/articles/ASH975CJLH97ULZU00B.html
いい文章だった。稲垣さんのコラムをいくつか読んだ。情がこもっていた。人間が、人間のことを書いていた。苦しみ、悩み、悲しみ、笑う、そういう人間の姿が記されていた。
そして今日、『Journalism』で、「怒りも悩みも個人の言葉もみえない それでもマスコミで働きたいですか」という文に接した。これもとてもいい文章だ。居丈高に、上から目線で文を展開していくのではなく、ひとりの人間としての自分の目線で、思ったことを、経験したことを綴っていく。難しいことを書いているのではない、鋭い主張をするのではない、でも説得力があり、訴える力がある。こういう人が朝日を退社した?朝日はもったいないことをしたなあと思う。
ここに記されている文を、『世界』の内容より先に紹介したくなった。
稲垣さんの姿やその考えは、以下のサイトでも記されている。
http://www.geocities.co.jp/asahi_roso53/cast_26_int_inagaki.html
稲垣さんの主張は、要するに、自分自身が心の奥底から訴えたいもの(「おもしろい!」「許せない!」)をもった文でないとダメだと言っているのだ。「絶対にこのことは何が何でも伝えなければならぬ」という、パトスが必要だと言っているのだ。
それは、ボクが行っている歴史研究にも通じる。この研究で、何を訴えたいのか、何を明らかにしようとしたいのか、それがないとよいものにはならない。ボクは、鋭角的な問題意識を持てと、一定の人には伝えてきた。ボクが今まで研究するなかで、現代的な意義を持つものをテーマにしてきた。自治体史であっても、そうした内容を綴ってきた。
稲垣さんの文に戻る。
そして「慰安婦」問題を契機に、「萎縮」(ボクにはそうみえる)している朝日新聞のあり方を問題にする。「読者目線」。それは「一方的な価値観の押しつけをせぬよう両論併記を心がける。社外の識者に定期的に紙面を点検してもらい、批判に謙虚に耳を傾ける。」そうすると「記事はどんどんひっかかりのない、つるんとしたものになっていく。つるんとしていればいるほど抗議を受けることもない。」
稲垣さんは、そしてこう続ける。「しかしですね。だったらそもそも新聞なんて発行しないのが一番だ。何も発信しなければ絶対に苦情も抗議も来ない。・・抗議を受けないってことは、いつしか大きな者、力の強い者の代弁者になってしまう可能性をはらんでいる。マスコミが先頭に立ってモノ言えぬ社会をリードすることになりかねない。」
ボクが稲垣さんの文でもっとも共感したことは、「世の中の苦しみとつながることだ」である。「「つるん」とした情報や、声の大きさを競うような主張が氾濫する裏側で、今みんなが本当に苦しんでいることは何なのか、その根っこを見つめることだ」と稲垣さんは綴る。
そういう「苦しみ」とつながるとき、「中立」とか「両論併記」なんて考えることはない。そしてそれがないからといって抗議され、批判されたっていいじゃないかと、ボクは思う。
稲垣さんも、「世に言う閉塞感とはつまるところ、人間が人間であることを許さない社会なのではないだろうか。契機も社会も行き詰まる中で、全体が生き残るためには個はどこまでも後回しにされ、誰もがおいていかれないよう、切り捨てられないようビクビクしながら生きている。今求められているのは「立派な見解」でも「正しい意見」でもない、ふつうの弱い人間同士が共感し励まし合える場なのではないか」と書く。
そして、「耳を貸さぬ人を説得する言葉を必死で紡ぎ続けられるか」、権力の背後にいる「国民に「違う」と叫ぶことができるか」、「これからは、ものを言う人間はどんどんキツくなる。」
「どんなに批判されても、給料が出なくなっても、自分たちがお金を出し合って印刷することになっても言わなきゃいけないことを持ち続けることができるか」。
稲垣さんのことばは、厳しい。しかし、メディアの世界に入ることは、そうした決意が、本当は必要なのだ。
Mくん、君には、「言わなきゃいけないこと」があるか?
「言わなきゃいけないこと」は、鋭い感受性と、問題を問題として認識できる知性が必要だ。ぜひそれを鍛えて欲しい。
今月号の『Journalism』の特集は、「若者よ、ジャーナリストを目指せ!」である。