ビーズうさぎのハナちゃんです!!

日々の生活、山登りや釣り、ドライブなどをアップします。ここの所、巨樹めぐりがメインですが!(汗)

静岡県小山町、須走「冨士浅間神社」(世界文化遺産構成資産)です!!

2022-03-10 06:31:05 | 文化財・寺社
 3月10日は、第二次世界大戦(太平洋戦争・大東亜戦争)での、東京大空襲の日です、戦争によって一般人が大勢犠牲になったこと、いま、ウクライナに侵攻したロシア軍の問題についても考えさせられます、こんごの安全保障について考えなければいけません

 須走地区は、小山町役場の西約12kmのところ

 国道246号線を西へ、道の駅ふじおやまの手前の菅沼信号を右(北西)へ

 県道151号須走小山線を延々と登ります

 県道を登り詰めた正面に冨士浅間神社が東向きに鎮座します

 国道138号線側に駐車場が有りますので利用させて頂きました



駐車場の境内萬内図で確認しましょう、赤丸が現在位置ですね

索引です

説明版です、基本知識を学習しましょう
  冨士浅間神社
鎮座地 静岡県駿東郡小山町須走126
御祭神 
 主祭神 木花開耶姫命
 相殿神 大己貴命
     彦火火出見命
御由緒
 平安時代初頭、桓武天皇の時代・延暦21(802)年、富士山東脚が噴火した。
 当時の朝廷は逃げ惑う住人のため、富士山東面に位置するこの須走の地に斎場を設け、鎮火祭を斎行した。
 すると、同年4月初申の日に噴火が収まった。
 この御神威を畏み、報賽するべく、平城天皇の時代大同2(807)年に鎮火祭の跡地・現在の御社殿の地に神様をお祀りしたことが、当社の創建と伝えられる。
 江戸時代、宝永の噴火では、神社と街は約3mの降灰の被害を受けるが、富士登山と交通の要衝として幕府より手厚い支援の下、街を埋めて灰の上に街を復興させ、神社は村民により灰が除去されて現在に至る。
 明治時代、逸早く自動車化が進んだ地域であり、登山安全と相まって、交通安全・道中守護としても一層の崇敬を集める。
 平成19(2007)年には、御鎮火祭1200年を迎え記念式年大祭を斎行。
 平成25(2013)年には、富士山の世界文化遺産登録に際し、その構成資産の一つとして登録された。
冨士山信仰
 霊峰・富士山は、古来より浅間大神が鎮座する神体山として、全国の登拝・修験者が最も尊崇する山の一つである。
 富士山本宮浅間大社(富士宮市)を総本宮とし、全国には約1300社の浅間神社が鎮座する。
 当社は、天正年間開道と伝えられる、かつての東口・いまの須走口登山道の起点として、東口本宮と尊称される。
 須走口は、富士山頂より真東に位置し、おおよそどの位置からでも御来光(日の出)を拝することが出来るのが特徴であり、須走の街からは朝陽で染まった縁起物の赤富士が見られる。
境内末社(六社合祀)
 日枝神社 高尾神社
 山神社  霧島神社
 琴平神社 社護神社
 恵比須大国社(別祀)
境外末社
 須走口9合目鎮座・迎久須志之神社
 須走口本6合目鎮座・胎内神社
 須走口5合目鎮座・古御嶽神社
 (御室浅間神社・雲霧神社 合祀)
 東富士演習場内鎮座・野中神社
 (旧 大日堂)
祭礼神事
 例大祭 5月5日
 開山祭 7月1日
 閉山祭 8月31日
 紅葉祭 11月上旬
「祈年祭・新嘗祭等の恒例祭」
では、東側の参道入口へ行きましょう

鎌倉往還の説明版です
  鎌倉往還
 鎌倉往還は、かつては、鎌倉道などと呼ばれ、幕府所在地の鎌倉から放射状に複数のルートがありました。
 由来については、現在のところ、源頼朝が鎌倉に幕府を開くに至る源平の合戦にその起源をおくといわれています。
 鎌倉時代に鎌倉幕府の御家人や坂東の武者達が、有事の際に「いざ鎌倉」と鎌倉殿の元に馳せ参じた道であり、当時の御家人らが鎌倉と自領との往還に利用した道でもあります。
 当時から街道が担ってきた役割は軍用道路としての実質的な目的の他、政治や経済流通としての交易にも用いられ、地方に残る様々な遺物から文化や宗教等も急速に伝えられてことが明らかにされています。
 かつての鎌倉往還は、廃道となっていいたり、拡幅されたり付け替えられたものも見受けられ、また枝道も多くあることから正確なルートについては諸説あります。しかし、未舗装のまま現在に至り、当地のようにかつての雰囲気を偲ばせる箇所も一部に残存しています。
 当地の鎌倉往還は、真直ぐに籠坂峠・御坂峠を越え、甲斐源氏の国の中心、石和へ向かうルートをとっています。
 このように小山町須走は、古くから富士山北麓地域と駿東部を結ぶ交通の要衝として利用されていたことがわかります。
  

参道入口です

冨士浅間神社です、旧社格は縣社です


左には境内から流れる「信しげの滝」です

一の鳥居です、額の文字は「不二山」です

鳥居前参道左手に富士山の「火山弾」です、約1トン、この火山弾は地中の溶岩が噴火の為に空中へ吹き上げられ、落下の際に、酸化・冷却して出来たものです。

手水舎です

楼門(随身門・神門)です

楼門手前左右の岩の上に狛犬です

楼門説明版です
  楼門(御神門)
 二階建ての随身門を特に楼門と呼び上層の周囲に高欄付この縁を回らしている。
 御門の神様である櫛岩窓神(向かって右)・豊岩窓神(向かって左)が随身として配神されている。
 貞享2(1685)年、小田原城主稲葉丹後守が鳥居と共に楼門を修繕したと伝えられる。
 しかし、宝永の大噴火(1707年)に社殿と共に大破し、幕府へ再建の願いが出されている。
 現在の楼門は、明和4(1767)年、随身が寄進された当時のものと考えられる。


参道を進みましょう

参道右側の神馬舎です


こちらの境内末社には、事代主命(恵比寿さま)大国主命(大黒さま)が祀られています


こちらの境内末社には
 日枝神社:大山咋命 金山彦命 素戔嗚命 奥津彦命 奥津姫命
 山神社:大山祗命 火産霊命
 琴平神社:大物主命 水分命 水速賣命 市杵島姫命
 霧島神社:邇邇杵命
 高尾神社:穂見命
 社護神社:大己貴命 月読命
由緒 古い時代より当社境内には、日枝神社を始め多くの神社がそれぞれ祀られてきた。
 そして何度か神社の合併がなされ、昭和33年、現在のように6社がここに合併された。
 その中で、社護神社は最も古く本社の鬼門除とされていた。
 また、氏子崇敬者の信仰篤く「おしゃごつぁん」と称され、親しまれていた。
 毎年中秋名月の夜、神官によて祭典が執り行なわれている。

拝殿手前左にも手水舎です

拝殿です

本殿です

裏参道側から社殿を見ました

では、境内の木々を紹介していきます
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