八幡町は、浜松市役所の東北東約1kmのところ
国道152号線北へ下池川町信号を(右)東へ、六県道路です
遠鉄電車の高架を潜って次の交差点を左(北)へ入って次を右(東)へ
浜松八幡宮の鳥居前に出ます、直ぐ先を境内に入って拝殿前東側に車を止める事が出来ました
参道入口前の、八幡町屋台蔵と公会堂です
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参道松並木です
浜松八幡宮です
傍らに天然記念物 雲立の樟の石柱です
境内は保存樹林です、指定番号は樹林第6号です
鳥居です
由緒書の石碑です
浜松八幡宮由緒
祭神
玉依比売命 たまよりひめのみこと
品蛇和気命 ほむだわけのみことー(応神天皇)
息長足姫命 おきながたらしひめのみことー(神功皇后)
伊弉諾尊 いざなぎのもこと
伊弉冉尊 いざなみのみこと
八幡宮の御祭神は、品蛇和気命(応神天皇)息長足姫命(神功皇后)であって、石清水八幡宮は、中御前の応神天応をはさんで、東・西御前にそれぞれ神功皇后・宗像三神をお祀りしてあります。
当社でも馬込町に在った白山神社の祭神である伊弉諾・冉尊と下垂に祀られていた玉依比売命を本殿に遷し、祀ってあります。
749年天平21年に、聖武天皇は、大仏鋳造に神の援助を仰ぐため宇佐神宮より八幡神を迎えられ、更に859年、清和天王、貞観元年に僧行教によって、同じく宇佐八幡神を男山に迎えました。
神功皇后摂政時代の国威発揚期の人々の心情によって、単なる産土神や氏神でなく「国家の祖廟」・「鎮護国家」の神として、伊勢の皇大神宮に次ぐ崇拝を受けるに至りました。
諾冉二尊は、神話では「国生みの神」。玉依姫命は、神武天皇の生母として語られ、民俗信仰上、祖先神として敬われた神々であります。
源義家が男山八幡宮神前で、元服したという伝承によって、武家の棟梁源氏の氏神となったことから、八幡信仰は、中世以降さらに大きな地歩を固めました。
この過程において、極めて自然に、神仏習合の信仰が浸透して、八幡大菩薩の称号も生まれました。
社伝及び郷土史家研究に基く由緒
社伝によれば、仁徳天皇・遠津淡海の海運安穏のため、海神・玉依姫命を、現小沢渡町の許都神社は、「延喜式」の敷地郡六座の神の中に登録され、極めて由緒ある神社であります。
その後、938年、朱雀天皇、天慶元年に、神託によって当地に遷されました。
その節、白狐が老翁の姿となって「浜の松」を移し植え「浜松」の地名となったとも伝えられております。
この翌年、平将門が常陸で、翌々年藤原純友が伊予で反乱を起こしたため、岩清水八幡宮の神霊に頼る信仰が盛んになった頃でありました。
武家の信仰
1051年、後冷泉天皇、永承6年、八幡太郎義家が、陸奥に出陣の祭、当社に参篭し、源氏の氏神である八幡社を喜び、武運を祈って「契あれば 帰り来るまで 岩清水 かけてぞ いまふ 浜松の里」と詠進し、武運を祈って社禅の楠の下に旗を立てたと伝えられ「御旗楠」とよんでおりました。これが、現存する「雲立の楠」の起源とされています。
1432年、後花園天皇永享4年、義政将軍が富士山を慕って駿河へ下向した際、先述の小沢渡村より移した松が成長して臥龍の様に這い伸びている姿を見て、「浜松の音は颯々」と謡ったといい、この松を「颯々の松」と語り伝えられています。この縁起は、現在野口町に紀念碑が残されていますが、昭和20年の空襲によって焼失した、今の松は三代目であると郷土史「浜松の史跡」で述べております。
1570年、正親町天皇、元亀元年6月、徳川家康が岡崎より浜松に入城した時、源義家の東征祈願の由緒があり、更に鬼門鎮守の氏神として信仰厚く、1586年、駿府に移るまで当社を祈願所として数度社参して、武運長久を祈ったと伝えられています。更に1572年元亀3年12月、三方原合戦に敗れた家康は、天林寺に入り、義俊和尚が案内して当八幡宮に逃れ、義家ゆかりの「楠」の洞穴に潜み、甲州勢の追手を逃れて武運を祈願した時、楠の上に瑞雲立ち昇り、神霊が白馬に跨がり、浜松城方面へ飛び立ちました。家康は八幡宮の加護により「戦われに利あるべし」・・・と勇躍、城に帰り、犀ヶ崖に布の懸橋を渡して、武田信玄の入城を防ぐことができました。有名な酒井忠次の陣太鼓の武勇伝み、この時のことであります。
これにより、家康開運の社前の楠(「御旗楠」)を「雲立楠」と呼ぶように至りました。これらの伝承は、古老、郷土史家の伝える諸説であります。その後も家康は代々当社を祈願所として旗・神馬を奉納いたしました。豊臣秀吉は、北條氏討伐の資金を調達するため、神領を没収し、寺島八幡の社領であった現在の寺島町・旭町附近のみを、八幡地として残しました。
1603年、家康は征夷大将軍に任ぜられ、歴世社領50石の朱印を与えましたが、明治新政権により上地とされ、同年、郷社に列しました。
八幡宮に合祀された諸社
明治末年、祠官近藤伊織氏上申による、静岡県庁・社寺課の認可によれば
相殿 天之御柱命 国之御柱命
神倭伊波礼毘古(神武天皇)
大気都比売命 伊佐波登美命
神直日神 大直日神
猿田彦神 蛭児神
とあり、この神々は現在境内末社・浜松稲荷神社に祀ってあります。また、東照宮も一宇、氏子も八百戸とあり、この神祠は、同じく現在境内末社東照宮に祀ってあります。
明治44年2月6日 下垂・無格社 池上社合祀の許可
仝 5月8日 野口・無格社 颯々神社合祀の許可
昭和4年8月13日 早馬町 浜松稲荷神社合祀の許可等が記載されております。
昭和年月不明 馬込町 白山神社合祀
参道左側に石碑にあった「颯々の松」三代目です
手水舎です
参道右手に目的の雲立の樟です
南側から
説明版です
雲立のクス
昭和27年4月1日県指定天然記念物
浜松市教育委員会
楠の巨樹で、地上1.5mの幹回り約13m、根元回り14m。枝張り東西約21m、南北約23m、樹高約15mあり、幹の下部には大きな空洞がある。幹は地上1.5mのところより数枝に分れ、古木の部は樹勢が衰えているが、新生部はすこぶる旺盛で、枝葉は四方に繁茂している。
永承6年(1051年)八幡太郎義家が当八幡宮に参詣の折り、樹下に旗を立てたとの伝承から「御旗楠」と称された。また、元亀3年(1572年)徳川家康は三方原合戦に敗れ、武田軍に追われてこの楠の洞穴に潜み、その時瑞雲が立ち上がったとの故事により「雲立の楠」と称されるようになった。
東側から
北東側から
北側から
*拝殿の全景を執り忘れていました
拝殿の賽銭箱には三つ葉葵、徳川家の家紋が在ります
本殿です
本殿東側に東照宮です
例祭日 4月17日
御祭神 徳川家康公
赤い鳥居が三列に並んでいます
浜松稲荷神社です
説明版です
浜松稲荷神社
例祭日 2月11日
御祭神 倉稲魂命 大宮比賣命
大己貴命 月夜見命
太田命
古くから浜松八幡宮の境内末社として伝わります。
神徳を慕う浜松宿の人々に篤く尊崇され、明治大正期には一時現在の中区早馬町にお祀りされていました。
商売繁盛・事業繁栄・家内安全の神徳を持つ神さまとして信仰され、毎年2月21日には氏子崇敬者によって賑やかなお祭が行なわれています。
では、次へ行きましょう
国道152号線北へ下池川町信号を(右)東へ、六県道路です
遠鉄電車の高架を潜って次の交差点を左(北)へ入って次を右(東)へ
浜松八幡宮の鳥居前に出ます、直ぐ先を境内に入って拝殿前東側に車を止める事が出来ました
参道入口前の、八幡町屋台蔵と公会堂です
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参道松並木です
浜松八幡宮です
傍らに天然記念物 雲立の樟の石柱です
境内は保存樹林です、指定番号は樹林第6号です
鳥居です
由緒書の石碑です
浜松八幡宮由緒
祭神
玉依比売命 たまよりひめのみこと
品蛇和気命 ほむだわけのみことー(応神天皇)
息長足姫命 おきながたらしひめのみことー(神功皇后)
伊弉諾尊 いざなぎのもこと
伊弉冉尊 いざなみのみこと
八幡宮の御祭神は、品蛇和気命(応神天皇)息長足姫命(神功皇后)であって、石清水八幡宮は、中御前の応神天応をはさんで、東・西御前にそれぞれ神功皇后・宗像三神をお祀りしてあります。
当社でも馬込町に在った白山神社の祭神である伊弉諾・冉尊と下垂に祀られていた玉依比売命を本殿に遷し、祀ってあります。
749年天平21年に、聖武天皇は、大仏鋳造に神の援助を仰ぐため宇佐神宮より八幡神を迎えられ、更に859年、清和天王、貞観元年に僧行教によって、同じく宇佐八幡神を男山に迎えました。
神功皇后摂政時代の国威発揚期の人々の心情によって、単なる産土神や氏神でなく「国家の祖廟」・「鎮護国家」の神として、伊勢の皇大神宮に次ぐ崇拝を受けるに至りました。
諾冉二尊は、神話では「国生みの神」。玉依姫命は、神武天皇の生母として語られ、民俗信仰上、祖先神として敬われた神々であります。
源義家が男山八幡宮神前で、元服したという伝承によって、武家の棟梁源氏の氏神となったことから、八幡信仰は、中世以降さらに大きな地歩を固めました。
この過程において、極めて自然に、神仏習合の信仰が浸透して、八幡大菩薩の称号も生まれました。
社伝及び郷土史家研究に基く由緒
社伝によれば、仁徳天皇・遠津淡海の海運安穏のため、海神・玉依姫命を、現小沢渡町の許都神社は、「延喜式」の敷地郡六座の神の中に登録され、極めて由緒ある神社であります。
その後、938年、朱雀天皇、天慶元年に、神託によって当地に遷されました。
その節、白狐が老翁の姿となって「浜の松」を移し植え「浜松」の地名となったとも伝えられております。
この翌年、平将門が常陸で、翌々年藤原純友が伊予で反乱を起こしたため、岩清水八幡宮の神霊に頼る信仰が盛んになった頃でありました。
武家の信仰
1051年、後冷泉天皇、永承6年、八幡太郎義家が、陸奥に出陣の祭、当社に参篭し、源氏の氏神である八幡社を喜び、武運を祈って「契あれば 帰り来るまで 岩清水 かけてぞ いまふ 浜松の里」と詠進し、武運を祈って社禅の楠の下に旗を立てたと伝えられ「御旗楠」とよんでおりました。これが、現存する「雲立の楠」の起源とされています。
1432年、後花園天皇永享4年、義政将軍が富士山を慕って駿河へ下向した際、先述の小沢渡村より移した松が成長して臥龍の様に這い伸びている姿を見て、「浜松の音は颯々」と謡ったといい、この松を「颯々の松」と語り伝えられています。この縁起は、現在野口町に紀念碑が残されていますが、昭和20年の空襲によって焼失した、今の松は三代目であると郷土史「浜松の史跡」で述べております。
1570年、正親町天皇、元亀元年6月、徳川家康が岡崎より浜松に入城した時、源義家の東征祈願の由緒があり、更に鬼門鎮守の氏神として信仰厚く、1586年、駿府に移るまで当社を祈願所として数度社参して、武運長久を祈ったと伝えられています。更に1572年元亀3年12月、三方原合戦に敗れた家康は、天林寺に入り、義俊和尚が案内して当八幡宮に逃れ、義家ゆかりの「楠」の洞穴に潜み、甲州勢の追手を逃れて武運を祈願した時、楠の上に瑞雲立ち昇り、神霊が白馬に跨がり、浜松城方面へ飛び立ちました。家康は八幡宮の加護により「戦われに利あるべし」・・・と勇躍、城に帰り、犀ヶ崖に布の懸橋を渡して、武田信玄の入城を防ぐことができました。有名な酒井忠次の陣太鼓の武勇伝み、この時のことであります。
これにより、家康開運の社前の楠(「御旗楠」)を「雲立楠」と呼ぶように至りました。これらの伝承は、古老、郷土史家の伝える諸説であります。その後も家康は代々当社を祈願所として旗・神馬を奉納いたしました。豊臣秀吉は、北條氏討伐の資金を調達するため、神領を没収し、寺島八幡の社領であった現在の寺島町・旭町附近のみを、八幡地として残しました。
1603年、家康は征夷大将軍に任ぜられ、歴世社領50石の朱印を与えましたが、明治新政権により上地とされ、同年、郷社に列しました。
八幡宮に合祀された諸社
明治末年、祠官近藤伊織氏上申による、静岡県庁・社寺課の認可によれば
相殿 天之御柱命 国之御柱命
神倭伊波礼毘古(神武天皇)
大気都比売命 伊佐波登美命
神直日神 大直日神
猿田彦神 蛭児神
とあり、この神々は現在境内末社・浜松稲荷神社に祀ってあります。また、東照宮も一宇、氏子も八百戸とあり、この神祠は、同じく現在境内末社東照宮に祀ってあります。
明治44年2月6日 下垂・無格社 池上社合祀の許可
仝 5月8日 野口・無格社 颯々神社合祀の許可
昭和4年8月13日 早馬町 浜松稲荷神社合祀の許可等が記載されております。
昭和年月不明 馬込町 白山神社合祀
参道左側に石碑にあった「颯々の松」三代目です
手水舎です
参道右手に目的の雲立の樟です
南側から
説明版です
雲立のクス
昭和27年4月1日県指定天然記念物
浜松市教育委員会
楠の巨樹で、地上1.5mの幹回り約13m、根元回り14m。枝張り東西約21m、南北約23m、樹高約15mあり、幹の下部には大きな空洞がある。幹は地上1.5mのところより数枝に分れ、古木の部は樹勢が衰えているが、新生部はすこぶる旺盛で、枝葉は四方に繁茂している。
永承6年(1051年)八幡太郎義家が当八幡宮に参詣の折り、樹下に旗を立てたとの伝承から「御旗楠」と称された。また、元亀3年(1572年)徳川家康は三方原合戦に敗れ、武田軍に追われてこの楠の洞穴に潜み、その時瑞雲が立ち上がったとの故事により「雲立の楠」と称されるようになった。
東側から
北東側から
北側から
*拝殿の全景を執り忘れていました
拝殿の賽銭箱には三つ葉葵、徳川家の家紋が在ります
本殿です
本殿東側に東照宮です
例祭日 4月17日
御祭神 徳川家康公
赤い鳥居が三列に並んでいます
浜松稲荷神社です
説明版です
浜松稲荷神社
例祭日 2月11日
御祭神 倉稲魂命 大宮比賣命
大己貴命 月夜見命
太田命
古くから浜松八幡宮の境内末社として伝わります。
神徳を慕う浜松宿の人々に篤く尊崇され、明治大正期には一時現在の中区早馬町にお祀りされていました。
商売繁盛・事業繁栄・家内安全の神徳を持つ神さまとして信仰され、毎年2月21日には氏子崇敬者によって賑やかなお祭が行なわれています。
では、次へ行きましょう