有東木地区は、静岡市役所の北約25kmのところ
県道29号安倍街道で安部川左岸沿いを北へ進みます
やがて県道29号線は梅ヶ島温泉昭和線と名前が変わります
それまで安部川左岸を北上して来た県道が平野橋で右岸側へ
また大川内橋で左岸側に戻ると約2kmで有東木への道を右斜めに入ります
ここも「いろは坂」の様なつづれ折の道路を進むと
山葵栽培発祥の地の石碑が有ります
記念碑建立について
山葵栽培は、今から遡ること約400年の昔、慶長年間に有東木沢の源流である「山葵山」に自生していたものを、ある時、村人が採集して村内の井戸頭という遊水地に栽培したところ、これが適地であり生長繁殖した。そこで村人達がこぞって栽培に勤み、やがて栽培法は各地に広められたので、ここ有東木を「山葵栽培発祥の地」という。
慶長12年7月(1607)駿府城に入城した大御所徳川家康公に山葵を献上したところ、その珍味の程に天下の品と嘉賞し、ついに有東木から門外不出の御法度品とした。また徳川家の家紋が葵の紋であったことからもことさら珍重したと言われている。
延享元年(1744)三島の代官斎藤喜六郎の命を受けた伊豆天城の住人板垣勘四郎が椎茸栽培の師としてこの地に派遣された。任務を終えて板垣は帰国に際し、庄屋が弁当籠に忍ばせた山葵の苗を密かに持ち帰り、栽培したのが伊豆の山葵栽培に始まりと言われており、者の語り草となっている。
明治10年、有東木山葵の先覚者、望月重太郎の東京での国内博覧会入賞は、安部での山葵栽培を広める契機となり、更に昭和22年
頃から普及した平井熊太郎考案の畳石式田床及び栽培技術の開発により質量ともに向上し「安部の山葵」の名声は益々高まった。
今日に至るまでには、元禄16年(1702)及び享保5年(1720)の大洪水をはじめ、幾多の台風災害等大自然の暴威にさらされた。しかし、その都度全力を傾注し山葵栽培の伝統を守るべく復旧に尽力した住民や石工達の労苦を忘れることはできない。
時は流れ、ここに改めて先人の遺徳を忍び、特産品の山葵に対する感謝の念を後世に伝えるべく、平成の改元を期してこの記念碑を建立するものである。
平成4年4月3日
山葵栽培発祥之碑建設委員会
山葵田を見ることができます
地区の案内板ですが、かすれてしまっています
もう少し進んで左への道で集落の西側の尾根へ上がります
白髭神社は集落を見下ろすように鎮座します、鳥居前の駐車場を利用しました
有東木集落を見下ろしました
沢には山葵田が作られています
説明版です
わさびと民俗芸能の里 有東木
「ここは、大昔、泥の海だった,そこにムギョドリ(セキレイ)がやって来て、尾をチョンチョンと動かして土を固めていた」有東木(うとうぎ)には、そんな昔話が伝えられています。
また、有東木という地名も、「落人が大きな木のウロ(洞)の中に隠れて難を逃れ、やがてこの地に住み着くようになった。そのウロギがなまって、有東木と呼ばれるようになった。」という伝承に由来するとされています。
標高およそ500m。山葵栽培発祥の地として知られ、山葵田と茶畑に囲まれた心安らぐ集落景観は、平成24年「ふじのくに美しき品格のある邑(むら)」にも登録されました。
砂防ダムの説明です、三基の砂防ダムで地区を土砂災害から守っています
白髭神社です
村社 白髭神社です
参道入口に杉の大木が見えています①
鳥居です
説明版です
静岡市指定天然記念物
有東木白髭神社の大スギ群
指定年月日 令和2年9月1日
現在地 静岡市葵区有東木580番地他
幹周 4.3m~6.6m 樹高約48m
推定樹齢 約500年
白髭神社の大スギ群は、白髭神社の境内地に生える生育良好な10本のスギから成り立っている。
大スギ群の中の最も太いものは、静岡市内で知られているスギの中でも最大級の大きさであり、静岡市を代表する樹木といえる。さらに、同規模のスギが10本生えている神社の社も大変珍しい。
大正時代の地誌によると、有東木の歴史は500年と記されており。大スギ群の推定樹齢は同地区の歴史に匹敵すると考えられる。白髭神社からは集落を一望でき、大スギ群は有東木の歴史を見守ってきたといえよう。
令和3年 静岡市教育委員会
参道石段から右手に三本のスギの大木です②③④
手水です
拝殿です
幣殿が無い形です
本殿です
本殿左側の境内社です
本殿右側の境内社です
更に右の境内社です
本殿右側の大木です⑤
本殿前から見上げると二本の大木が在ります・・・⑥
本殿左のスギが境内で一番太い目通り幹囲6.6mの杉です⑦
本殿前から
拝殿左側のスギの大木三本です⑧⑨⑩
では、次へ行きましょう
県道29号安倍街道で安部川左岸沿いを北へ進みます
やがて県道29号線は梅ヶ島温泉昭和線と名前が変わります
それまで安部川左岸を北上して来た県道が平野橋で右岸側へ
また大川内橋で左岸側に戻ると約2kmで有東木への道を右斜めに入ります
ここも「いろは坂」の様なつづれ折の道路を進むと
山葵栽培発祥の地の石碑が有ります
記念碑建立について
山葵栽培は、今から遡ること約400年の昔、慶長年間に有東木沢の源流である「山葵山」に自生していたものを、ある時、村人が採集して村内の井戸頭という遊水地に栽培したところ、これが適地であり生長繁殖した。そこで村人達がこぞって栽培に勤み、やがて栽培法は各地に広められたので、ここ有東木を「山葵栽培発祥の地」という。
慶長12年7月(1607)駿府城に入城した大御所徳川家康公に山葵を献上したところ、その珍味の程に天下の品と嘉賞し、ついに有東木から門外不出の御法度品とした。また徳川家の家紋が葵の紋であったことからもことさら珍重したと言われている。
延享元年(1744)三島の代官斎藤喜六郎の命を受けた伊豆天城の住人板垣勘四郎が椎茸栽培の師としてこの地に派遣された。任務を終えて板垣は帰国に際し、庄屋が弁当籠に忍ばせた山葵の苗を密かに持ち帰り、栽培したのが伊豆の山葵栽培に始まりと言われており、者の語り草となっている。
明治10年、有東木山葵の先覚者、望月重太郎の東京での国内博覧会入賞は、安部での山葵栽培を広める契機となり、更に昭和22年
頃から普及した平井熊太郎考案の畳石式田床及び栽培技術の開発により質量ともに向上し「安部の山葵」の名声は益々高まった。
今日に至るまでには、元禄16年(1702)及び享保5年(1720)の大洪水をはじめ、幾多の台風災害等大自然の暴威にさらされた。しかし、その都度全力を傾注し山葵栽培の伝統を守るべく復旧に尽力した住民や石工達の労苦を忘れることはできない。
時は流れ、ここに改めて先人の遺徳を忍び、特産品の山葵に対する感謝の念を後世に伝えるべく、平成の改元を期してこの記念碑を建立するものである。
平成4年4月3日
山葵栽培発祥之碑建設委員会
山葵田を見ることができます
地区の案内板ですが、かすれてしまっています
もう少し進んで左への道で集落の西側の尾根へ上がります
白髭神社は集落を見下ろすように鎮座します、鳥居前の駐車場を利用しました
有東木集落を見下ろしました
沢には山葵田が作られています
説明版です
わさびと民俗芸能の里 有東木
「ここは、大昔、泥の海だった,そこにムギョドリ(セキレイ)がやって来て、尾をチョンチョンと動かして土を固めていた」有東木(うとうぎ)には、そんな昔話が伝えられています。
また、有東木という地名も、「落人が大きな木のウロ(洞)の中に隠れて難を逃れ、やがてこの地に住み着くようになった。そのウロギがなまって、有東木と呼ばれるようになった。」という伝承に由来するとされています。
標高およそ500m。山葵栽培発祥の地として知られ、山葵田と茶畑に囲まれた心安らぐ集落景観は、平成24年「ふじのくに美しき品格のある邑(むら)」にも登録されました。
砂防ダムの説明です、三基の砂防ダムで地区を土砂災害から守っています
白髭神社です
村社 白髭神社です
参道入口に杉の大木が見えています①
鳥居です
説明版です
静岡市指定天然記念物
有東木白髭神社の大スギ群
指定年月日 令和2年9月1日
現在地 静岡市葵区有東木580番地他
幹周 4.3m~6.6m 樹高約48m
推定樹齢 約500年
白髭神社の大スギ群は、白髭神社の境内地に生える生育良好な10本のスギから成り立っている。
大スギ群の中の最も太いものは、静岡市内で知られているスギの中でも最大級の大きさであり、静岡市を代表する樹木といえる。さらに、同規模のスギが10本生えている神社の社も大変珍しい。
大正時代の地誌によると、有東木の歴史は500年と記されており。大スギ群の推定樹齢は同地区の歴史に匹敵すると考えられる。白髭神社からは集落を一望でき、大スギ群は有東木の歴史を見守ってきたといえよう。
令和3年 静岡市教育委員会
参道石段から右手に三本のスギの大木です②③④
手水です
拝殿です
幣殿が無い形です
本殿です
本殿左側の境内社です
本殿右側の境内社です
更に右の境内社です
本殿右側の大木です⑤
本殿前から見上げると二本の大木が在ります・・・⑥
本殿左のスギが境内で一番太い目通り幹囲6.6mの杉です⑦
本殿前から
拝殿左側のスギの大木三本です⑧⑨⑩
では、次へ行きましょう