引佐町奥山地区は、北区役所の北北西約5kmのところ
県道320号線を北へ、神宮寺信号を左(西)へ県道303号線です
道なりに西へ進み奥山地区に寺入ると方広寺の案内板が有りますので奥山信号を左へ
県道68号浜北三ヶ日線です、門前の商店街をぬけると奥山門前ポケットパークです
方広寺山門の黒門入口ですが、今回は車道を三重塔前駐車場まで入ります
奥山地区観光案内板で確認して急な坂道を登って三重塔まで行きましょう
駐車場から門前商店街を見ました
では、一度黒門からの参道へ下ります
上の駐車場から黒門(総門)と赤門(楼門)からの参道まで戻って来ました
説明版です
臨済宗大本山方廣寺
方廣寺は末寺170ヶ寺を擁する臨済宗方廣寺派の大本山で、井伊家の一族・奥山六郎次郎朝藤(是榮居士)が後醍醐天皇の皇子無文元選禅師を開山と仰ぎ建徳2年(1371年)に建立した寺。
寺名を深奥山方廣寺というのは、開山禅師が悟後の修行をされた中国の天台山にこの地形が似ていたので、そう名付けられたもの。
開山さまご在世のころは常に500人の雲衲(修行僧)
三叉路になっている所を右の車道へ「半僧杉」を見に行きましょう
石仏がいっぱい並んでいます、「五百羅漢」ですね
丸い石橋の上にも羅漢さまが並んでいます、石橋は宝暦年中に三河の石匠親子二代によって造られたそうです
「半僧杉」が見えて来ました
こちらが正面でしょうか
説明版です
方広寺の半僧杉
市指定天然記念物(昭和52年4月9日指定)
当地方第一の老杉で、根廻り7.55m、目通り5.75m、樹高43m、枝張り19mで樹勢は良好である。
明治14年、三河方面から発生した山火事の折り、ときの住持東明禅師は燃え来る大火の中で、半僧坊神殿に籠り一心に祈願,渦巻く黒煙の中に、何処よりともまく鈴の音が鳴り響き、師は柱杖を持って燃え盛る火炎を左右に切りさばく半僧坊の姿を拝した。やがて火事は治まったが、そこには一本の緑ひときわ濃い大杉がそびえていた。この大火の中で明治11年8月に再建されたばかりの半僧坊と七尊菩薩堂とこの大杉だけが不思議に焼け残り、以来この杉は方広寺の御神木すなわち「半僧杉」として今日に語り継がれている。
ふるさと創生事業 浜松市
浜松市制百周年記念事業
「湖北五山古木・御神木巡り」の説明版です、内容は上の説明版といっしょですね
斜め上側から、こちらにも羅漢さまが沢山居ます
方広寺庫裏の建物入口から
では、一度三叉路まで戻りましょう
左の赤い鳥居の参道へ進みます
「延命半僧杉」の切株です、明治の大火で幹の中が炭化してもな130年生きつづけたそうです
(山内で新たなパワースポットになっているそうです)壑手水です、ここにも羅漢さまです
手水です
羅漢さまがいっぱいです
赤い大鳥居です
広い参道を進みます
「方広寺十聖境 第七の龍偃杉(りょうえんすぎ)」の羅漢様です、龍偃杉は幹の一部を残すのみになっているようです
椎河宮です、石段下の左に龍偃杉の一部です
椎河龍王の説明版です
赤い橋が見えて来ました
橋の対岸に本堂が見えました
方広寺十境 代8 亀瀬橋(きはいきょう)です
赤い橋の廊下を進んで本堂前です、大きなソテツが在ります
大きな本堂です
説明版です
本堂
(水戸黄門ゆかりの本尊さま)
建徳2年(1371年)に建てられた本堂は、数度の山火事による類焼をうけ、現在の本堂は明治38年長山虎壑管長の発願により天正4年完成したもの。
本尊釈迦如来、脇侍に文殊・普賢の二菩薩が安置されており、天平9年(1354年)に仏師「法橋院遵」「法眼院廣」「法印院吉」の三人によって彫刻された木像で、元禄のころ水戸の徳川光圀卿(黄門さま)の命により修繕したと背面に誌されている。もとは茨城郡古内村の清音寺に祀られていたのを明治末年に当山に移したと誌されている。
西側の「勅使玄関」は当山が皇室ゆかりの寺ゆえに、しばしば勅使の参向を受けており、その際、勅使が出入りして玄関である。
平成22年8月、百年ぶりの大改修工事と耐震工事を行った。
本堂前に鐘楼です
遠州「五山梵鐘」の説明版です
西側に開山堂の勅使門です
説明版です
勅使門(開山堂)
この勅使門の奥山に開山堂が建っています。開山無文元選禅師は後醍醐天皇の皇子で、延元4年(1339年)に天皇が吉野で亡くなられるや、翌年、京都建仁寺の普光庵で剃髪、出家し、雪村友梅禅師について修行され、さらに三年後に中国に渡り、建寧府高仰山大覚寺の古梅正友禅師のもとで七年間、大変な修行をされて、遂にその印記(印可証明と大戒)をうけ正平5年(1350年)に帰国されました。28歳のころであります。
開山さまはその後、京都・鎌倉をはじめ各地を行脚、僧俗を接化され、建徳2年(1371年)奥山是榮居士の請を容れて」この寺の開山となれました。開山さまの徳を慕って、ここで修行にはげむ雲衲(修行僧)は常時500人いたといい(境内の五百羅漢はそれを象徴したもの)寺名を深奥山方広寺というのは禅師が曾と行脚された中国の天台山に、この境地が似ていたからといわれています。元中7年(1390年)閏3月22日、当山で示寂(逝去)されました。
開山さまの御廟を黙霊塔といい、宮内庁の記録に「無文元選王廟」と記されています。光格天皇から「大慈普應禅師」、明治天皇から「聖鑑国師」、昭和天皇から「圓明大師」とそれぞれ勅諡されています。
現在の開山堂は、昭和10年、足利紫山老師が建立したもので、それまでの假開山堂は、いま禅堂として建てかえられ、雲水たちの修行の場になっております。
長くなりましたので、明日に続きます
県道320号線を北へ、神宮寺信号を左(西)へ県道303号線です
道なりに西へ進み奥山地区に寺入ると方広寺の案内板が有りますので奥山信号を左へ
県道68号浜北三ヶ日線です、門前の商店街をぬけると奥山門前ポケットパークです
方広寺山門の黒門入口ですが、今回は車道を三重塔前駐車場まで入ります
奥山地区観光案内板で確認して急な坂道を登って三重塔まで行きましょう
駐車場から門前商店街を見ました
では、一度黒門からの参道へ下ります
上の駐車場から黒門(総門)と赤門(楼門)からの参道まで戻って来ました
説明版です
臨済宗大本山方廣寺
方廣寺は末寺170ヶ寺を擁する臨済宗方廣寺派の大本山で、井伊家の一族・奥山六郎次郎朝藤(是榮居士)が後醍醐天皇の皇子無文元選禅師を開山と仰ぎ建徳2年(1371年)に建立した寺。
寺名を深奥山方廣寺というのは、開山禅師が悟後の修行をされた中国の天台山にこの地形が似ていたので、そう名付けられたもの。
開山さまご在世のころは常に500人の雲衲(修行僧)
三叉路になっている所を右の車道へ「半僧杉」を見に行きましょう
石仏がいっぱい並んでいます、「五百羅漢」ですね
丸い石橋の上にも羅漢さまが並んでいます、石橋は宝暦年中に三河の石匠親子二代によって造られたそうです
「半僧杉」が見えて来ました
こちらが正面でしょうか
説明版です
方広寺の半僧杉
市指定天然記念物(昭和52年4月9日指定)
当地方第一の老杉で、根廻り7.55m、目通り5.75m、樹高43m、枝張り19mで樹勢は良好である。
明治14年、三河方面から発生した山火事の折り、ときの住持東明禅師は燃え来る大火の中で、半僧坊神殿に籠り一心に祈願,渦巻く黒煙の中に、何処よりともまく鈴の音が鳴り響き、師は柱杖を持って燃え盛る火炎を左右に切りさばく半僧坊の姿を拝した。やがて火事は治まったが、そこには一本の緑ひときわ濃い大杉がそびえていた。この大火の中で明治11年8月に再建されたばかりの半僧坊と七尊菩薩堂とこの大杉だけが不思議に焼け残り、以来この杉は方広寺の御神木すなわち「半僧杉」として今日に語り継がれている。
ふるさと創生事業 浜松市
浜松市制百周年記念事業
「湖北五山古木・御神木巡り」の説明版です、内容は上の説明版といっしょですね
斜め上側から、こちらにも羅漢さまが沢山居ます
方広寺庫裏の建物入口から
では、一度三叉路まで戻りましょう
左の赤い鳥居の参道へ進みます
「延命半僧杉」の切株です、明治の大火で幹の中が炭化してもな130年生きつづけたそうです
(山内で新たなパワースポットになっているそうです)壑手水です、ここにも羅漢さまです
手水です
羅漢さまがいっぱいです
赤い大鳥居です
広い参道を進みます
「方広寺十聖境 第七の龍偃杉(りょうえんすぎ)」の羅漢様です、龍偃杉は幹の一部を残すのみになっているようです
椎河宮です、石段下の左に龍偃杉の一部です
椎河龍王の説明版です
赤い橋が見えて来ました
橋の対岸に本堂が見えました
方広寺十境 代8 亀瀬橋(きはいきょう)です
赤い橋の廊下を進んで本堂前です、大きなソテツが在ります
大きな本堂です
説明版です
本堂
(水戸黄門ゆかりの本尊さま)
建徳2年(1371年)に建てられた本堂は、数度の山火事による類焼をうけ、現在の本堂は明治38年長山虎壑管長の発願により天正4年完成したもの。
本尊釈迦如来、脇侍に文殊・普賢の二菩薩が安置されており、天平9年(1354年)に仏師「法橋院遵」「法眼院廣」「法印院吉」の三人によって彫刻された木像で、元禄のころ水戸の徳川光圀卿(黄門さま)の命により修繕したと背面に誌されている。もとは茨城郡古内村の清音寺に祀られていたのを明治末年に当山に移したと誌されている。
西側の「勅使玄関」は当山が皇室ゆかりの寺ゆえに、しばしば勅使の参向を受けており、その際、勅使が出入りして玄関である。
平成22年8月、百年ぶりの大改修工事と耐震工事を行った。
本堂前に鐘楼です
遠州「五山梵鐘」の説明版です
西側に開山堂の勅使門です
説明版です
勅使門(開山堂)
この勅使門の奥山に開山堂が建っています。開山無文元選禅師は後醍醐天皇の皇子で、延元4年(1339年)に天皇が吉野で亡くなられるや、翌年、京都建仁寺の普光庵で剃髪、出家し、雪村友梅禅師について修行され、さらに三年後に中国に渡り、建寧府高仰山大覚寺の古梅正友禅師のもとで七年間、大変な修行をされて、遂にその印記(印可証明と大戒)をうけ正平5年(1350年)に帰国されました。28歳のころであります。
開山さまはその後、京都・鎌倉をはじめ各地を行脚、僧俗を接化され、建徳2年(1371年)奥山是榮居士の請を容れて」この寺の開山となれました。開山さまの徳を慕って、ここで修行にはげむ雲衲(修行僧)は常時500人いたといい(境内の五百羅漢はそれを象徴したもの)寺名を深奥山方広寺というのは禅師が曾と行脚された中国の天台山に、この境地が似ていたからといわれています。元中7年(1390年)閏3月22日、当山で示寂(逝去)されました。
開山さまの御廟を黙霊塔といい、宮内庁の記録に「無文元選王廟」と記されています。光格天皇から「大慈普應禅師」、明治天皇から「聖鑑国師」、昭和天皇から「圓明大師」とそれぞれ勅諡されています。
現在の開山堂は、昭和10年、足利紫山老師が建立したもので、それまでの假開山堂は、いま禅堂として建てかえられ、雲水たちの修行の場になっております。
長くなりましたので、明日に続きます