中島町本町は、岡崎市役所の南西約10km、岡崎市役所 六ツ美支所の南南西約4kmのところ
岡崎市役所 六ツ美支所前の奥屋敷信号から県道479号線を南西へ
約3kmで東浅井町信号を左(南東)へ県道292号線です
約1.1kmの中島橋西信号を右(南西)へ進むと間も無く左手に白い塀が見えて来ます
塀沿いを左に曲がると浄光寺山門です
山門は南西向きです、山門前に
車を止めさせて頂きました
真宗 大谷派 浄光寺です
説明版です
真宗 大谷派 良永山 浄光寺
開基意真上人は蓮如上人の弟子となって剃髪得度し、1461年に中島郷に浄光寺を創建した。その後1563年の永禄一揆によって創建以来98年で焼失した。そこで5世教快は相州愛甲郡縁故をたよって難を避けた。
1583年家康によって宗門赦免の後、1587年中島へ帰り板倉勝重の母妙円尼より中島の板倉屋敷の提供を受けて浄光寺の仮御堂とした。
6世教尊は1601年(慶長6年)に家康より4石8斗の朱印地を受けて本格的な寺院の再建を果たした。1613年頃であろう。
この後も板倉勝重の兄忠重(木工)は木佛本尊を奉納し、勝重や長子の重昌は土地を寄進し母妙円尼は親鸞聖人の御影を寄進するなど板倉家は浄光寺の復興に大変な協力をしている。これは浄光寺の再興の始まりは妙円尼の屋敷であったから「お母さんのお寺」あるいは「おばあさんのお寺」という感じであったのだろう。
その後1688年(元禄元年)に9世教誡によって7間4面三方椽の本堂が再建された。そして143年たって江戸時代末期の1831年(天保2年)より6ヶ年の年月をかけて14世正観によって現在の本堂・庫裡・玄関が再建された。
なお1671年上棟の鐘楼は伊勢湾台風によって倒壊したので1967年に再建した。また1741年上棟の藥医門は老朽化がひどいので、水屋と共に1996年に再建した。
境内のいちょうとはまぼうは岡崎市の天然記念物に指定されている。また浄光寺で80年の俳句の生涯を終えた、今良寛とも言われた俳僧伊澤三太楼の句碑がある。
2002年7月9日
18世現住 完之誌
山門を入ると正面に本堂です
境内左手に目的のイチョウです
南東側から
本堂前から
説明版です
岡崎市指定文化財
天然記念物 浄光寺のイチョウ 1本
胸高囲4.05m、根囲6.60mに達するイチョウの巨樹である。上部が台風のために伐採されてしまっているものの、樹勢は極めて良好であり、病虫害による被害の跡はない。
昭和50年3月26日指定
天然記念物 浄光寺のハマボウ 1本
本株は、愛知県の植物研究の先覚者である、西尾市貝吹町の故名倉・一郎氏が、昭和5年春、渥美半島から幼苗を取り寄せて植えられたものである。
寒さに弱く、一般にこの地方では移植栽培が困難なこの植物が、胸高囲1.04m、根囲1.61m、樹高6.0mになり得たのは極めて珍しい。
7月下旬には、黄花が見事である。
昭和60年3月6日指定
岡崎市教育委員会
境内西端に鐘楼です
本堂前に「ハマボウ」です
北西側から
境内の梅が咲き始めていました
では、次へ行きましょう