野寺町野寺地区は、安城市役所の南約7km、安城市役所桜井支所の南約2kmのところ
安城市役所桜井支所から県道44号線を南へ、約600mの小川町金政信号を左(南東)へ県道292号線です
約300mで桜井小学校北信号を右(南)へ県道294号線です
約1kmで右手に本證寺が東向き参道入口の山門(大門)があります
すぐ南側を右(西)に入ると
仮設駐車場がありますので利用させて頂きました
本證寺は三河一向一揆の拠点の一つです、2月19日放送のNHK大河ドラマ「どうする家康」でも家康が本證寺に忍び込む姿が描かれ、一揆の原因?も描かれていました
*三河一向一揆は、戦国時代に三河国の西三河全域で永禄6年(1563年)~永禄7年まで半年ほど行われた一向一揆です。
現在の安城市野寺の本證寺第十代・空誓(蓮如の曾孫)が中心となって浄土真宗の本願寺門徒に檄を飛ばし、領主の家康と戦いました。
三方ヶ原の戦い、伊賀越えと並び、家康の三大危機とされる。 家臣団の多くが門徒方に与するなど、家康に宗教の恐ろしさをまざまざと見せつける事となりました。
三河における分国支配の確立を目指した家康に対して、その動きを阻もうと試みた一向宗勢力が、一族や家臣団を巻き込んで引き起こしたもので、その意味では、松平宗家(徳川家)が戦国大名として領国の一円支配を達成する際に、必ず乗り越えなければならない一つの関門であったと考えられます。(ウィキペディア一部抜粋)
本證寺入口の大門です
雲龍山 本證寺です
南側の堀です
北側の堀です、脇には櫓が建っています、平城の様な造りになっています
大門を入ると正面に大きな本堂です
左手に手水屋です
境内南東端に鐘楼です
経蔵です
参道北側に指定史跡 本證寺の石碑です
説明版です
国指定史跡 本證寺境内 平成27年3月10日指定
本證寺境内は、戦国時代から江戸時代に築かれた二重の堀と土塁の残る史跡です。
三河一向一揆に関わる寺院境内地であるとともに、浄土真宗寺院の伽藍や仏教信仰のありかたを知るうえでも重要です。
現在私たちが目にすることのできる主要な建物群と堀からなる景観は、江戸時代の姿を今なお留めています。
本證寺の歴史
本證寺は、鎌倉時代後期の創建とされ、室町時代には、岡崎市の上宮寺・勝鬘寺とともに、三河三か寺と呼ばれる浄土真宗本願寺派(当時)の有力寺院になっていました。
永禄6年(1563)松平(徳川)家康の家臣が、本願寺領の不入権を侵したことが発端となり、三河一向一揆が起こりました。
本願寺派の門徒であった家康の家臣たちの中には、その配下から離脱して一揆方に加勢する者もいました。
本證寺は、一揆方の拠点として家康と対立しましたが、戦火に見舞われたという記録は確認されていません。
一揆は翌年2月に終結し、三河三か寺を始めとした坊主らは、家康領土から追放されました。
天正13年(1585)赦免された本證寺は、江戸時代に入ると本山・領主と末寺を仲介する中本山・触頭として再興を果たし、幕末には200余寺の末寺を抱える大寺院となりました。
外堀と内堀
史跡地内には、本堂など江戸時代に建立された建造物と、それらが立ち並ぶ境内を囲む内堀、寺領のうち「寺内」と呼ばれた東西約320m、南北約310mの範囲を囲む外堀、そして境内の北側に土塁が残存しています。外堀の大部分は、地中に埋まった状態で保存されています。
境内や寺内を囲む内堀・外堀は、一部を除いて、戦国時代と江戸時代とで同じ位置にあります。戦国時代には有事に備えて急角度で深い堀が設けられましたが、江戸時代には、大寺院の風格を漂わせる幅の広い堀が本堂周辺に設けられました。
庫裏と本堂側境内を分ける東側の堀です
西側の堀です
目的としていたイブキは庫裏の中庭に立って居るので、樹冠部のみ見えました、樹高 23m、胸高囲 2.8mです
*本證寺の中庭に生育し、枝張りは東西8.5メートル、南北9メートルに達する巨樹?である。葉は杉葉状で、樹皮は 褐色かっしょく、縦の裂目さけめ が幾重にもねじれ曲がり、彫刻のような造形美を形づくっている。樹齢については通称800年とされている。
伝説では親鸞当寺を訪ねたとき、仏花の立てがらを地面にさしたものが根を張り育ったという。(安城市文化財図録から抜粋)
裏門側へ移動してきました
裏門北側の土塁と堀跡です
土塁の庫裏側(内側)を北へ進みます
西に延びる土塁です
土塁と空堀です
東側にも堀跡が残ります
土塁を廻らせて曲輪の様な場所です、この外側に外堀が有ったようです
本堂南側へ戻って来ました
本堂裏側の堀跡です、今でも夏場は水が溜まっているようです
本堂南西側から広い境内を観ました
境内西側の内堀です
南側の内堀を西側から見ました
県道側(東側)から
では、次へ行きましょう