村松甲地区は、五泉市役所の南約7km、五泉市役所村松支所の東約1kmの所に猿田彦神社が有ります
五泉市役所村松支所から大手通りを東へ、国道290線を左(北)へ、直ぐの下町信号を右(東)へ県道17号線です
約500mの学校町2信号を右(南東)へ、細い住宅地の中を進むと
猿田彦神社の赤い鳥居と目的のスギが見えました
鳥居前に車を止めさせて頂きました
猿田彦神社社殿です
説明版です
御堂入 愛宕山 庚申堂の由来
世に庚申をまつるもの、現世にては無量の災害をまぬがれ、亦願として成就せざるはなし。
柳々本朝の庚申を祭る由来は、摂津の国、難波の津に「上宮太子」四天王寺、御建立の砌、初めて天降りましませり。
それより普く諸国に祭る所なり、爰に村松東藩、新室町裏に、年経る庚申塚あり、いつの頃より安置せるや、知る人更になし。
正徳年中の頃に相墨氏ゆかりの仁なるよし、黄昏時湯灌の穢れたるものを、湿地の萱原へ捨てに行きし処。端正美麗の婦人位冠を正し一人佇み居て申するは、「汝此所へ不浄のものを捨てに来れり、然れども爰は清浄無垢の地にして後七・八十年も、越えぬ内に軒を連ねて繁華の地とならん、疾々他処へ持ち行くべし。是等の理義を知らしめん為め、爰に待っものなり」と云う。
其時、右の仁、目を怒らし「其方何奴なればあらぬ事をいうて、人を欺くや少しも苦しからず、邪魔をするな」と支るを構わず頓にうち捨てたりし後、其の夜眠る事能わず、独り不思議なさに大小を差し、再度場所へ来り見るに、以前の婦人一人依然として在りて申すに、「汝輩此の穢を早々他へ持ち行くべし」という時に、彼の仁、大きに怒り、「狐狸の分際として何ぞ人をたぶらかす」と、刀を抜いて肩先より脇腹へかけて切落とせり。然れども暗夜にて、黒白も分からぜればそのままただちに帰り、翌日未明に死骸を改めんと尋ね行きしに、女の死骸にあらずして、自然石の塔切られてあり、能々見れば「庚申塚」の文字あり、是はおもいば忽ち目暗みて、前後を知らず。
揶ありて正気となり、初めて庚申の霊験なる事を知り、頓て塚を築き奉りて現罪をまぬかれしめ賜ひと、誠心に侘び奉り、日ならずして塔を建立して其の身一代怠らず、信仰せしとなん。
是老人の口碑に伝ふる処なり、今其の切目全く癒て、面に筋あるのみ、其頃より信仰するもの少なからず、霊験も亦日々に新なり。其後信者の協力にて。天保年間に御堂を再建し并て「北信妙見大菩薩道祖神」を相殿として今に至りて百四十餘年の久しきに垂んとす、御堂も亦敗壊におよび、此度御堂を新築せんと欲す、依て信仰者を糾合して講中を結びて祭日毎に聊か金を醸し。それぞれ良法を設けて造営に着手せんとす。
冀くは四方の有志の諸君講中に御加入あらん事を願上奉り候。 以上
昭和55年8月10日
目的の愛宕庚申杉です
案内板です
愛宕 庚申杉
この杉は、学校町より愛宕山の遊歩道の登り口にある。
猿田彦神社(大正10年学校町より移転)の御神木として町民に親しまれて来ました
樹齢 約450年
もう一枚案内板です
愛宕神社の裏大門として大杉の下を参拝通路として使用していました。
大正10年に庚申杉として親しまれて来ました。
現在御神木として講中で奉って居ます。
西側から、目通り幹囲5.5mの巨木です
南西側から
南側から
愛宕神社への裏参道です
では、次へ行きましょう
五泉市役所村松支所から大手通りを東へ、国道290線を左(北)へ、直ぐの下町信号を右(東)へ県道17号線です
約500mの学校町2信号を右(南東)へ、細い住宅地の中を進むと
猿田彦神社の赤い鳥居と目的のスギが見えました
鳥居前に車を止めさせて頂きました
猿田彦神社社殿です
説明版です
御堂入 愛宕山 庚申堂の由来
世に庚申をまつるもの、現世にては無量の災害をまぬがれ、亦願として成就せざるはなし。
柳々本朝の庚申を祭る由来は、摂津の国、難波の津に「上宮太子」四天王寺、御建立の砌、初めて天降りましませり。
それより普く諸国に祭る所なり、爰に村松東藩、新室町裏に、年経る庚申塚あり、いつの頃より安置せるや、知る人更になし。
正徳年中の頃に相墨氏ゆかりの仁なるよし、黄昏時湯灌の穢れたるものを、湿地の萱原へ捨てに行きし処。端正美麗の婦人位冠を正し一人佇み居て申するは、「汝此所へ不浄のものを捨てに来れり、然れども爰は清浄無垢の地にして後七・八十年も、越えぬ内に軒を連ねて繁華の地とならん、疾々他処へ持ち行くべし。是等の理義を知らしめん為め、爰に待っものなり」と云う。
其時、右の仁、目を怒らし「其方何奴なればあらぬ事をいうて、人を欺くや少しも苦しからず、邪魔をするな」と支るを構わず頓にうち捨てたりし後、其の夜眠る事能わず、独り不思議なさに大小を差し、再度場所へ来り見るに、以前の婦人一人依然として在りて申すに、「汝輩此の穢を早々他へ持ち行くべし」という時に、彼の仁、大きに怒り、「狐狸の分際として何ぞ人をたぶらかす」と、刀を抜いて肩先より脇腹へかけて切落とせり。然れども暗夜にて、黒白も分からぜればそのままただちに帰り、翌日未明に死骸を改めんと尋ね行きしに、女の死骸にあらずして、自然石の塔切られてあり、能々見れば「庚申塚」の文字あり、是はおもいば忽ち目暗みて、前後を知らず。
揶ありて正気となり、初めて庚申の霊験なる事を知り、頓て塚を築き奉りて現罪をまぬかれしめ賜ひと、誠心に侘び奉り、日ならずして塔を建立して其の身一代怠らず、信仰せしとなん。
是老人の口碑に伝ふる処なり、今其の切目全く癒て、面に筋あるのみ、其頃より信仰するもの少なからず、霊験も亦日々に新なり。其後信者の協力にて。天保年間に御堂を再建し并て「北信妙見大菩薩道祖神」を相殿として今に至りて百四十餘年の久しきに垂んとす、御堂も亦敗壊におよび、此度御堂を新築せんと欲す、依て信仰者を糾合して講中を結びて祭日毎に聊か金を醸し。それぞれ良法を設けて造営に着手せんとす。
冀くは四方の有志の諸君講中に御加入あらん事を願上奉り候。 以上
昭和55年8月10日
目的の愛宕庚申杉です
案内板です
愛宕 庚申杉
この杉は、学校町より愛宕山の遊歩道の登り口にある。
猿田彦神社(大正10年学校町より移転)の御神木として町民に親しまれて来ました
樹齢 約450年
もう一枚案内板です
愛宕神社の裏大門として大杉の下を参拝通路として使用していました。
大正10年に庚申杉として親しまれて来ました。
現在御神木として講中で奉って居ます。
西側から、目通り幹囲5.5mの巨木です
南西側から
南側から
愛宕神社への裏参道です
では、次へ行きましょう