張 三丰
しかし、諸事の根拠を明示して論証する学問的態度である考証学の祖である黄宗羲が記した『王征南墓誌名』に張三丰のことを記録しており、その中で内家拳の祖であるなどを記していることから、伝説は多いが内家拳の祖として確かに実在したとする説もある。
ある時(宋の時代であるとも、元の時代であるとも、明の時代であるともいわれています)、武当山で修行をし、陰陽太極の理を究めた張三峯が、カササギと蛇(または孔雀と蛇、あるいは鶴と蛇)が争っているのを目撃し、インスピレーションを得、太極拳をあみ出したというものです。
伝説では、少林寺で修行した後、武当山(湖北省十堰市で)武当派をつくり、太極拳を創設したとされる。
登場する歴史資料は『明 志』『三丰全集』『広陽雑記』『諸真宗派総簿』『三迤随筆』『淮城夜語・張玄素入点蒼』等。幼少の頃より、才知が抜群で経典・歴史に精通しており、一度目に通したものはすぐ暗唱できた。体や耳が大きく、ひげが矛のようだった。最初に碧落宮白雲長老に師事し、人格を磨き修養を積んでから、全真教の道士、長春子(丘 処機)の教えを学んだ。丘 処機は後に成吉思汗より招聘されて不老長寿の道を問われたが「養生」こそ肝要と問われてその道のない事を説いた。
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1314年(延祐元年)、67歳になったとき、火龍真人に道教を学び不老長寿の術を得ます。(長春子が不老長寿の道は無いといっているのに之は変だね。)
それから、宝鶏金台観で道教を研究し「三丰道人」と称します。
1324年(泰定元年)77歳になった張三丰は武当山に到達。玉虚台で太極剣を研究し、さらに剛と柔の「両儀四象」で太極拳の三功(内丹太極剣三百八十四招、両儀太極拳三百八十四拳、陰陽拳)を創造した。この成功により仙人となる。仙人になった張三丰は、130歳のときに一度息を引き取るが、埋葬される段階でまた生き返る。
張三丰の名声は朝廷に伝わり、1384年(洪武17年)、明の洪武帝(朱元璋)は137歳になった張三丰を招聘するも辞退される。さらに1416年(永楽14年)に、永楽帝が169歳の張三丰を招聘するがまたも辞退された。
そんなに生きられたのかよ!?。