都内近郊の美術館や博物館を巡り歩く週末。展覧会の感想などを書いています。
はろるど
「テート美術館所蔵 コンスタブル展」 三菱一号館美術館
三菱一号館美術館
「テート美術館所蔵 コンスタブル展」
2021/2/20~5/30
三菱一号館美術館で開催中の「テート美術館所蔵 コンスタブル展」のプレス内覧会に参加してきました。
1776年に生まれたイギリスの画家、ジョン・コンスタブルは、生涯にわたって故郷のイングランド東部の風景を描き続け、同時代のJ.M.W.ターナーと並び称されるほど高く評価されてきました。
そのコンスタブルの絵画がロンドンのテート美術館よりまとめてやって来ました。出品数は約65点で、初期から晩年までの油彩画や水彩画の40点に加え、同時代の画家による約20点の作品が公開されていました。
コンスタブルが生まれたのはストゥーア川流域、サフォーク州のイースト・バーゴルトの地で、平坦な地形が広がる農村地帯でした。そして画家を志したコンスタブルは1799年からロンドンのロイヤル・アカデミー美術学校で学びながら、故郷に愛着があったゆえか、毎夏にサフォークに戻っては地元の風景を描きました。
左:ジョン・コンスタブル「アン・コンスタブル」 1800〜05年頃か1815年頃 テート美術館
右:ジョン・コンスタブル「ゴールディング・コンスタブル」 1815年 テート美術館
当時は歴史画や肖像画が優位に置かれていたため、地位の低い風景画のみでは生計を立てるのは困難でした。よってコンスアタブルの地元の地主階級などの肖像画を手がけ、時には両親といった家族の肖像も描きました。
左:ジョン・コンスタブル「外套を着たボンネット姿の少女の習作」 1810年 テート美術館
右:ジョン・コンスタブル「教会の入口、イースト・バーゴルト」 1810年発表 テート美術館
そうした中、初期の風景画として目を引くのが「教会の入口、イースト・バーゴルト」でした。コンスタブル一家が礼拝に出かけていた教会をモチーフとした一枚で、手前の墓には若い女性が老人の話に耳を傾ける様子が描かれていました。そして風景画家としてのキャリアを築くためにロイヤル・アカデミーへ出品したものの、美術評論家の目に留まることはありませんでした。
左:ジョン・コンスタブル「麦畑」 1817年? テート美術館
右:デイヴィッド・ルーカス(ジョン・コンスタブル原画)「麦畑」 1834年出版 テート美術館
自然を「あらゆる創造力がそこから湧き出る源泉」と捉えたコンスタブルは、1802年に初めて戸外で油彩画の制作をはじめ、1814年からは大胆にも展覧会出品用の絵画も屋外で描こうと試みました。
左:ジョン・コンスタブル「モルヴァーン・ホール、ウォリックシャー」 1809年 テート美術館
「モルヴァーン・ホール、ウォリックシャー」は、肖像画制作ために訪ねた邸宅を舞台としていて、カラスの群れが飛ぶ木立の中の建物を遠くから俯瞰するように表していました。そしてこの作品はおそらく戸外で描いた最初の例とされていて、8月の僅か1日余りで完成させました。
ジョン・コンスタブル「フラットフォードの製粉所(航行可能な川の情景)」 1816〜17年 テート美術館
父が経営していたコンスタブル家の製粉所を眺めた「フラットフォードの製粉所(航行可能な川の情景)」が魅惑的ではないでしょうか。ちょうどストゥーア川を上がってくる荷船が水門を通過し、牽引用の馬から綱を外す作業が行われる光景を描いていて、透き通った空気と瑞々しいまでの樹木の緑がうるわしく見えました。
左:ジョン・コンスタブル「デダムの水門と製粉所」 1817年? テート美術館
右:ジョン・コンスタブル「ランガムのガンヒル近くから望むデダム」1815年頃 テート美術館
1816年にマライアと結婚したコンスタブルは、ロンドンに移ってアトリエを構えて、個人からの肖像画の依頼を受け続けました。とはいえ風景画を重視していたコンスタブルは、より注目を集めようと大型のカンヴァスを用いるようになりました。そして1819年、40歳を過ぎてロイヤル・アカデミーの准会員に選出されました。それは1歳年上のターナーが20代の半ばで早くも准会員になったことに比べると、かなり遅咲きとも言えました。
コンスタブルが絵画の制作において重要視していたのは空の存在でした。ロンドン中心部から数キロ北に位置するハムステッドへ夏の間過ごすようになると、小道や人目につかない一角だけでなく、視界に広がる荒野や空を積極的に描くようになりました。
ジョン・コンスタブル「雲の習作」 1822年 テート美術館
「雲の習作」は、1821年から翌年にかけて100点近く制作された空の習作のうちの1枚で、コンスタブルは雲の習作の多くに制作日時や天候状態を記しました。ちょうど湧き上がり、空を満たすように広がる雲を量感あふれるタッチで描いていて、天気の移ろいの一瞬を捉えているかのようでした。
ジョン・コンスタブル「チェーン桟橋、ブライトン」 1826〜27年 テート美術館
海岸を描いた作品の中で唯一の大型の油彩画とされる「チェーン桟橋、ブライトン」も目立っていました。イングランド南岸に位置する温暖なブライトンはリゾート地として知られ、コンスタブルは結核に罹っていたマライアの療養のために何度も足を運びました。雲がたなびく広い空の下、打ち寄せる白波とともに、漁師や観光客の姿を描きこんでいて、あたかも実際に海岸線に立っているかのような臨場感も得られるのではないでしょうか。
左:ジョン・コンスタブル「草地から望むソールズベリー大聖堂のスケッチ」 1829年? テート美術館
右:ジョン・コンスタブル「ハーナムの屋根。ソールズベリー」 1820年、あるいは1829年 テート美術館
しかし療養の甲斐なく1828年にマライアを亡くすと、コンスタブルは続けてロンドンより西のソールズベリーを訪ねては聖職者と交流し、主教の甥の家であるレドゥンホールと呼ばれる家に滞在しました。そして妻を失った悲しみから抜け出すべく友人のフィッシャー大執事に励まされ、「草地から望むソールズベリー大聖堂」などを描きました。
マライアの死から数ヶ月後の1829年2月、コンスタブルはロイヤル・アカデミーの正会員に選出されました。そして風景画を描くだけでなく、自身の絵を原画した版画集「イングランドの風景」の制作に着手したり、1830年代には風景画と歴史についての講義を引き受けるなどして活動しました。
今回の展覧会のハイライトを飾るのが、約190年前のロイヤル・アカデミーの夏季展を再現したコーナーでした。
左:J.M.W.ターナー「ヘレヴーツリュイスから出航するユトレヒトシティ64号」 1832年 東京富士美術館
右:ジョン・コンスタブル「ウォータールー橋の開通式(ホワイトホールの階段、1817年6月18日)」 1832年発表 テート美術館
ここには1983年に同アカデミーにて公開されたターナーの「ヘレヴーツリュイスから出航するユトレヒトシティ64号」とコンスタブルの「ウォータールー橋の開通式(ホワイトホールの階段、1817年6月18日)」が並んでいて、両作品を見比べることができました。
ジョン・コンスタブル「ウォータールー橋の開通式(ホワイトホールの階段、1817年6月18日)」 1832年発表 テート美術館
発表当時、ターナーは自らの「ヘレヴーツリュイスから出航するユトレヒトシティ64号」の隣に「ウォータールー橋の開通式」が並ぶことを知ると、コンスタブルの絵画の方が目立つことを懸念し、最後の手直しとして赤いブイを描き加えたと言われています。それを見たコンスタブルは「ターナーがここにやって来て、銃を撃ち放っていった。」と話しました。
コンスタブルはターナーに対して敬意を払っていたとされますが、半ばライバルでもあった両者の関係を伝える面白いエピソードではないでしょうか。なお2つの作品が公開時以来に揃うのは3度目で、ロンドン以外では初めてのことになります。
左:ジョン・コンスタブル「教会の農場」 1830年頃 テート美術館
右:ジョン・コンスタブル「教会の農場」 1830年頃 テート美術館
晩年に至るにつれてコンスタブルは、過去の風景を再び取り上げたり、モチーフを配置し直すなど、想像力に働かせたピクチャレスクな絵画へと作風を変化させました。
ジョン・コンスタブル「虹が立つハムステッド・ヒース」 1836年 テート美術館
ラストの「虹が立つハムステッド・ヒース」もピクチャレスク的な作品で、ブランチ・ヒルの池を見下ろすパノラマの中へ実際に存在しない風車を描きこんでいました。また虹も後期を特徴付けるモチーフとされていて、以前の自然主義的な作品と比べるとダイナミックに映るかもしれません。
妻マライアに先立たれ、親友のフィッシャー大執事も亡くしたコンスタブルの晩年は、喪失感にかられていたと言われています。そして7人の子どもを世話しつつも、自身も病気に苦しむ時期を経験しました。晩年のコンスタブルの絵画には回顧的な主題が目立ちますが、それはともすれば妻や友が生きていた過去を懐かしむ意味もあったのかもしれません。
会期も中盤を過ぎました。現在のところ目立った混雑は起きていませんが、各時間の入場人数を制限していることもあり、最終盤に向かって行列になることも予想されます。
チケットは美術館の窓口にて当日でも購入可能ですが、混雑時に優先的に入場できる日時指定券をWebket(WEB)で発売中です。これからお出かけの方はあらかじめチケットを購入されることをおすすめします。
これまでにターナーこそ回顧展などで何度か目にする機会があったものの、私自身、コンスタブルについては一度もまとめて鑑賞したことがありませんでした。実に国内では1986年に当時の伊勢丹美術館などで開かれた展示以来、約35年ぶりの回顧展でもあります。
巡回はありません。5月30日まで開催されています。おすすめします。
「テート美術館所蔵 コンスタブル展」 三菱一号館美術館(@ichigokan_PR)
会期:2021年2月20日(土)~5月30日(日)
休館:月曜日。
*但し祝日・振替休日の場合、会期最終週と2月22日、3月29日、4月26日は開館。
時間:10:00~18:00。
*祝日を除く金曜、第2水曜は20時まで開館。
*入館は閉館の30分前まで。
料金:大人1900円、高校・大学生1000円、中学生以下無料。
*マジックアワーチケット:毎月第2水曜日17時以降に限り1200円。(Webketのみで販売。)
住所:千代田区丸の内2-6-2
交通:東京メトロ千代田線二重橋前駅1番出口から徒歩3分。JR東京駅丸の内南口・JR有楽町駅国際フォーラム口から徒歩5分。
注)写真はプレス内覧会の際に主催者の許可を得て撮影しました。
「テート美術館所蔵 コンスタブル展」
2021/2/20~5/30
三菱一号館美術館で開催中の「テート美術館所蔵 コンスタブル展」のプレス内覧会に参加してきました。
1776年に生まれたイギリスの画家、ジョン・コンスタブルは、生涯にわたって故郷のイングランド東部の風景を描き続け、同時代のJ.M.W.ターナーと並び称されるほど高く評価されてきました。
そのコンスタブルの絵画がロンドンのテート美術館よりまとめてやって来ました。出品数は約65点で、初期から晩年までの油彩画や水彩画の40点に加え、同時代の画家による約20点の作品が公開されていました。
コンスタブルが生まれたのはストゥーア川流域、サフォーク州のイースト・バーゴルトの地で、平坦な地形が広がる農村地帯でした。そして画家を志したコンスタブルは1799年からロンドンのロイヤル・アカデミー美術学校で学びながら、故郷に愛着があったゆえか、毎夏にサフォークに戻っては地元の風景を描きました。
左:ジョン・コンスタブル「アン・コンスタブル」 1800〜05年頃か1815年頃 テート美術館
右:ジョン・コンスタブル「ゴールディング・コンスタブル」 1815年 テート美術館
当時は歴史画や肖像画が優位に置かれていたため、地位の低い風景画のみでは生計を立てるのは困難でした。よってコンスアタブルの地元の地主階級などの肖像画を手がけ、時には両親といった家族の肖像も描きました。
左:ジョン・コンスタブル「外套を着たボンネット姿の少女の習作」 1810年 テート美術館
右:ジョン・コンスタブル「教会の入口、イースト・バーゴルト」 1810年発表 テート美術館
そうした中、初期の風景画として目を引くのが「教会の入口、イースト・バーゴルト」でした。コンスタブル一家が礼拝に出かけていた教会をモチーフとした一枚で、手前の墓には若い女性が老人の話に耳を傾ける様子が描かれていました。そして風景画家としてのキャリアを築くためにロイヤル・アカデミーへ出品したものの、美術評論家の目に留まることはありませんでした。
左:ジョン・コンスタブル「麦畑」 1817年? テート美術館
右:デイヴィッド・ルーカス(ジョン・コンスタブル原画)「麦畑」 1834年出版 テート美術館
自然を「あらゆる創造力がそこから湧き出る源泉」と捉えたコンスタブルは、1802年に初めて戸外で油彩画の制作をはじめ、1814年からは大胆にも展覧会出品用の絵画も屋外で描こうと試みました。
左:ジョン・コンスタブル「モルヴァーン・ホール、ウォリックシャー」 1809年 テート美術館
「モルヴァーン・ホール、ウォリックシャー」は、肖像画制作ために訪ねた邸宅を舞台としていて、カラスの群れが飛ぶ木立の中の建物を遠くから俯瞰するように表していました。そしてこの作品はおそらく戸外で描いた最初の例とされていて、8月の僅か1日余りで完成させました。
ジョン・コンスタブル「フラットフォードの製粉所(航行可能な川の情景)」 1816〜17年 テート美術館
父が経営していたコンスタブル家の製粉所を眺めた「フラットフォードの製粉所(航行可能な川の情景)」が魅惑的ではないでしょうか。ちょうどストゥーア川を上がってくる荷船が水門を通過し、牽引用の馬から綱を外す作業が行われる光景を描いていて、透き通った空気と瑞々しいまでの樹木の緑がうるわしく見えました。
左:ジョン・コンスタブル「デダムの水門と製粉所」 1817年? テート美術館
右:ジョン・コンスタブル「ランガムのガンヒル近くから望むデダム」1815年頃 テート美術館
1816年にマライアと結婚したコンスタブルは、ロンドンに移ってアトリエを構えて、個人からの肖像画の依頼を受け続けました。とはいえ風景画を重視していたコンスタブルは、より注目を集めようと大型のカンヴァスを用いるようになりました。そして1819年、40歳を過ぎてロイヤル・アカデミーの准会員に選出されました。それは1歳年上のターナーが20代の半ばで早くも准会員になったことに比べると、かなり遅咲きとも言えました。
コンスタブルが絵画の制作において重要視していたのは空の存在でした。ロンドン中心部から数キロ北に位置するハムステッドへ夏の間過ごすようになると、小道や人目につかない一角だけでなく、視界に広がる荒野や空を積極的に描くようになりました。
ジョン・コンスタブル「雲の習作」 1822年 テート美術館
「雲の習作」は、1821年から翌年にかけて100点近く制作された空の習作のうちの1枚で、コンスタブルは雲の習作の多くに制作日時や天候状態を記しました。ちょうど湧き上がり、空を満たすように広がる雲を量感あふれるタッチで描いていて、天気の移ろいの一瞬を捉えているかのようでした。
ジョン・コンスタブル「チェーン桟橋、ブライトン」 1826〜27年 テート美術館
海岸を描いた作品の中で唯一の大型の油彩画とされる「チェーン桟橋、ブライトン」も目立っていました。イングランド南岸に位置する温暖なブライトンはリゾート地として知られ、コンスタブルは結核に罹っていたマライアの療養のために何度も足を運びました。雲がたなびく広い空の下、打ち寄せる白波とともに、漁師や観光客の姿を描きこんでいて、あたかも実際に海岸線に立っているかのような臨場感も得られるのではないでしょうか。
左:ジョン・コンスタブル「草地から望むソールズベリー大聖堂のスケッチ」 1829年? テート美術館
右:ジョン・コンスタブル「ハーナムの屋根。ソールズベリー」 1820年、あるいは1829年 テート美術館
しかし療養の甲斐なく1828年にマライアを亡くすと、コンスタブルは続けてロンドンより西のソールズベリーを訪ねては聖職者と交流し、主教の甥の家であるレドゥンホールと呼ばれる家に滞在しました。そして妻を失った悲しみから抜け出すべく友人のフィッシャー大執事に励まされ、「草地から望むソールズベリー大聖堂」などを描きました。
マライアの死から数ヶ月後の1829年2月、コンスタブルはロイヤル・アカデミーの正会員に選出されました。そして風景画を描くだけでなく、自身の絵を原画した版画集「イングランドの風景」の制作に着手したり、1830年代には風景画と歴史についての講義を引き受けるなどして活動しました。
今回の展覧会のハイライトを飾るのが、約190年前のロイヤル・アカデミーの夏季展を再現したコーナーでした。
左:J.M.W.ターナー「ヘレヴーツリュイスから出航するユトレヒトシティ64号」 1832年 東京富士美術館
右:ジョン・コンスタブル「ウォータールー橋の開通式(ホワイトホールの階段、1817年6月18日)」 1832年発表 テート美術館
ここには1983年に同アカデミーにて公開されたターナーの「ヘレヴーツリュイスから出航するユトレヒトシティ64号」とコンスタブルの「ウォータールー橋の開通式(ホワイトホールの階段、1817年6月18日)」が並んでいて、両作品を見比べることができました。
ジョン・コンスタブル「ウォータールー橋の開通式(ホワイトホールの階段、1817年6月18日)」 1832年発表 テート美術館
発表当時、ターナーは自らの「ヘレヴーツリュイスから出航するユトレヒトシティ64号」の隣に「ウォータールー橋の開通式」が並ぶことを知ると、コンスタブルの絵画の方が目立つことを懸念し、最後の手直しとして赤いブイを描き加えたと言われています。それを見たコンスタブルは「ターナーがここにやって来て、銃を撃ち放っていった。」と話しました。
コンスタブルはターナーに対して敬意を払っていたとされますが、半ばライバルでもあった両者の関係を伝える面白いエピソードではないでしょうか。なお2つの作品が公開時以来に揃うのは3度目で、ロンドン以外では初めてのことになります。
左:ジョン・コンスタブル「教会の農場」 1830年頃 テート美術館
右:ジョン・コンスタブル「教会の農場」 1830年頃 テート美術館
晩年に至るにつれてコンスタブルは、過去の風景を再び取り上げたり、モチーフを配置し直すなど、想像力に働かせたピクチャレスクな絵画へと作風を変化させました。
ジョン・コンスタブル「虹が立つハムステッド・ヒース」 1836年 テート美術館
ラストの「虹が立つハムステッド・ヒース」もピクチャレスク的な作品で、ブランチ・ヒルの池を見下ろすパノラマの中へ実際に存在しない風車を描きこんでいました。また虹も後期を特徴付けるモチーフとされていて、以前の自然主義的な作品と比べるとダイナミックに映るかもしれません。
妻マライアに先立たれ、親友のフィッシャー大執事も亡くしたコンスタブルの晩年は、喪失感にかられていたと言われています。そして7人の子どもを世話しつつも、自身も病気に苦しむ時期を経験しました。晩年のコンスタブルの絵画には回顧的な主題が目立ちますが、それはともすれば妻や友が生きていた過去を懐かしむ意味もあったのかもしれません。
会期も中盤を過ぎました。現在のところ目立った混雑は起きていませんが、各時間の入場人数を制限していることもあり、最終盤に向かって行列になることも予想されます。
チケットは美術館の窓口にて当日でも購入可能ですが、混雑時に優先的に入場できる日時指定券をWebket(WEB)で発売中です。これからお出かけの方はあらかじめチケットを購入されることをおすすめします。
【コンスタブル展/掲載情報】雑誌PenのWEB版で本展をご紹介いただきました!本文とともに画像1点1点の解説が手厚いことで知られる、はろるどさんの記事です。『テート美術館所蔵 コンスタブル展』で知る、ターナーとコンスタブルのライバル関係。 https://t.co/yD9BzZefmb @Pen_magazineより
— 三菱一号館美術館 (@ichigokan_PR) April 16, 2021
これまでにターナーこそ回顧展などで何度か目にする機会があったものの、私自身、コンスタブルについては一度もまとめて鑑賞したことがありませんでした。実に国内では1986年に当時の伊勢丹美術館などで開かれた展示以来、約35年ぶりの回顧展でもあります。
巡回はありません。5月30日まで開催されています。おすすめします。
「テート美術館所蔵 コンスタブル展」 三菱一号館美術館(@ichigokan_PR)
会期:2021年2月20日(土)~5月30日(日)
休館:月曜日。
*但し祝日・振替休日の場合、会期最終週と2月22日、3月29日、4月26日は開館。
時間:10:00~18:00。
*祝日を除く金曜、第2水曜は20時まで開館。
*入館は閉館の30分前まで。
料金:大人1900円、高校・大学生1000円、中学生以下無料。
*マジックアワーチケット:毎月第2水曜日17時以降に限り1200円。(Webketのみで販売。)
住所:千代田区丸の内2-6-2
交通:東京メトロ千代田線二重橋前駅1番出口から徒歩3分。JR東京駅丸の内南口・JR有楽町駅国際フォーラム口から徒歩5分。
注)写真はプレス内覧会の際に主催者の許可を得て撮影しました。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
« 「大・タイガ... | 「与謝蕪村 ... » |
コメント |
コメントはありません。 |
コメントを投稿する |
ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません |