児童期
思い起こすと、親、特に父親が自然の中に連れ出してくれていた。小学5,6年生、中1は大阪豊中市に住んでいました。ハイキングやら海やらにけっこう連れて行ってもらっていました。 冊子インタビューで思い出したのは京都の鞍馬山でした。けっこうきつい登りでうっそうとした森の登山道を歩きました。 なんだか恐ろしくて、天狗が出てくるんじゃないかと怖かった記憶があります。(鞍馬=天狗の時代、 鞍馬天狗は正義の味方でしたがね・・)が、大きな木に登りました。
小学6年だっただろうか、林間合宿(という学校行事が当時ありました)。たぶん能勢だったのだと思うのですが、生まれて始めてキャンプを経験しました。 それがおもしろかったんでしょうね、(女の子と手をつないでペアになって歩いた肝試しの手の感覚しか覚えていないんですがね・・・)
キャンプの面白さに目覚めて、中学1年になり、(これは)男友達と夏休みにキャンプに行きたいと思ったのですが、親たちはもちろん子どもだけでは許してくれませんでした。 しかし、どこでどうつながりがあったのか、たんと記憶がないし、親はもう死んじゃっているので確かめようがないのですが、西村さん(この名前は覚えている)という大学生が友達三人をやはり能勢だか箕面のキャンプ場に一泊で連れて行ってくれたのです。 この時は自分たちで食事を作り、始めて川で泳ぎました。 堰堤の手前の大きな堰堤池で足が立たない深さ、足に水草が触れて引きずり込まれるのかと恐怖で、必死に西村さんの後を追いました。 原体験というのでしょうか、その思い出は五感で鮮明に記憶しています。
そんな強烈な自然体験を提供してくれたあの西村さんは誰だったんだろうか・・? やはりアタシのそばには、自然にいざなってくれたイイ大人がいたのでした。
大阪の中学1年(豊中第二中学校)では、奥村先生という方が、私の自然体験をいざなってくださいました。これもまた課外で、近郊の低山にハイキングをしてくださいました。 それに味をしめてついには、友達同士で近くのハイキング道を子どもだけで辿りました。 その初めての冒険?は四人でゆくはずでしたが、友達のひとりが現れない・・公衆電話でその子の家に電話をかけたのですが、ツーツーとずっとお話中でつながらなかったので仕方なく三人ででかけました。道に迷いかけて半べそもんでしたが(たぶん迷っていない、ただ不安だったと思う)6,7kmの初心者コースを踏破しました。 翌日、学校で、来なかった子の家は火事で全焼したことを知ったという強烈なおまけつきの思い出です。
中2で、船橋に戻り、小学校時代の友人がたくさんいる海神中学校に再転入しました。この頃からひとりで高尾山方面にでかけるようになりました。以来、長男が生まれるまで元旦は山で過ごすことが通例になりました。 一度、陣馬山付近で帰路を間違えて本当に迷ったことがありました。 地図読みして歩いていませんから、これはどこにいるかもわからずに必死だったなあ。 ともかく下へ降りれば道路があるだろうと、藪こぎ状態でくだったな。なんとか相模湖に出て国鉄(JR)駅にたどり着き帰れました。
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