北海道の先住民には明確な四季を表す言葉がないと言うアイヌがいます。(辞典には春夏秋冬に当たる言葉も出ているので地域差があるのかもしれませんが・・)、夏と冬しかなくて、秋は「夏の終わり冬の始まり」春は「冬の終わり夏のはじまり」となります。私たちは実際に12月中旬から5月上旬までほぼ半年は雪で遊べるフィールドで活動をしているので、その言葉の実感が持てます。雪の多い年は、当自然学校(旧小学校)の平屋校舎は屋根からの落雪で建物全体がロールケーキのように雪に包まれてしまいます。
コロナという疫病が流行り、収束が期待されて来ましたが、ただでさえ家に閉じこもりになるのに、もう2回目の冬がやってきています。にもかかわらずに、田舎だからか、私たちの活動は遠方からの参加者はいなくなりましたが、幸いにも表面上はいつもと変わらぬ冬を過ごしています。
冬だからこそ、積極的に野外に出たいものです。曇りがちな雪国であっても、私たちは雪にまみれて野外活動をしています。ましてや、陽光輝く日にはカラダを使って大いに幸せを満喫し楽しんでいます。冷たい、寒いからこそ、仲間とともにする身体活動でカラダを活性し身も心も温め合うことができます。
雪は、冷たいだけでなく、いろいろな性質があります。 滑る、溶ける、固まる、白い、塑像造形性等など・・、それらを使うといろいろなアクティビィティを工夫展開することができます。雪合戦は単純明快な活動的なアクティビティですが、ゲームのやり方次第でいろいろな展開ができます。私たちは陣地の宝争奪のチーム戦を好んでしますが、ハンディをつければ幼い子から高学年まで一緒に闘えるのも面白いです。
また新雪は雪は柔らかいのでクッション性があります。なので、けっこう身体を張った乱暴(運動量が多い)な活動ができます。 体と体で取っ組み合うということがなくなっている現代の子ども達には雪の中での大人との急な斜面での格闘遊びは男の子ばかりではなく女の子も夢中になって落とし合いをします。誰かが滑ると巻き込まれて団子になって大勢が落ちて行きます。落とされると這い上がるのに大変ですが、みな組んずほぐれつに真剣勝負です。屋根からの雪の中への飛び込みも冬のメインイベントです。
ひととき仕掛けた遊びをすると、徐々に子ども達は自分で遊べるようになってゆきます。彼らの様子は個性様々です。ひたすらソリ遊びをする子、容器で作った雪の塊を積み上げ続ける子、穴を掘り続ける子と、じょうずに遊び続けます。
零下20度の中でも雪中キャンプもお決まりプログラムです。雪洞や簡易イグルーの中でも夏用寝袋と毛布があれば意外と過ごせるものです。慣れた子になると、竪穴だけでブルーシートをかけて過ごす子もいるくらいです。冬に野外でひと晩過ごした、冬の雪中で遊んだという経験だけでも子にとって大きな達成感があり自己肯定感が育まれると私は信じてやみません。
また、冬の活動だからこその寒暖をつけたプログラムフローが大切だと思います。雪まみれになったあとの焚き火、暖かい飲み物、食べ物の提供、息が凍るほどの雪洞の中で膝を寄せ合い、小さなストーブの火を囲んで、雪を溶かして作り飲むココアはお互いの気持ちも自然と寄り合わせますね。身体だけではなく、その場も温め人と人とが触れ合い仲間としての一体感を演出できます。
しかし一方で、冬場の街中では、子どもが外で遊んでいる姿はさっぱりと見かけません。街中では、夏に水場へ行かないようにとの学校指導と同じように、「路肩の除雪の雪山に登ってはいけない」「雪玉を投げてはいけない」という禁止事項が実はたくさんあります。だから子どもに大人が働きかけ、最低限の安全を確保しつつ冬の外活動のにキッカケをつくってあげる必要が夏以上にあります。
(日本環境教育フォーラム機関紙 地球のこども 投稿原稿転載)
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