高木晴光の 『田舎と都市との ・ 日々こうかい記』

「新田舎づくり」を個人ミッションとし、田舎と都市とを行き来する人生・仕事のこうかい(公開・後悔・航海)日記

なぜに自然体験を仕事にしたのか その3

2023-01-07 12:53:26 | コラム風味
(今回も長い文章です・・・)
高校受験は必死こいて千葉県立千葉高校へ入学。田舎の中学では成績もトップであったが、ここへ来て、世の中にはなんて頭がいい(頭の回転が速い)連中がいるんだと井の中の蛙は驚いたのでした。そして、勉学よりも山登りに関心が高まったのでした。しかし、当時は学園紛争が激化するちょっと前でした。中学の恩師からは「山岳部は活動家がいるらしいから入部なんかするんじゃあないよ」と忠告されていた。入部してみると、本当に活動家がいて、最初の文化祭の山岳部の展示は「三里塚闘争(千葉成田空港拡張のために反対する農民に対して国が土地の強制代執行をするのを阻止しようとした闘争)」であった。現地の闘争拠点に張った拠点テントやら闘争の様子を写した8mm映像を流したりしていて。。???。実際にそのために高校留年した4年目3年生がいました。が、3年生が卒業してからは私の高校生活は山岳部が中心でした。

ここでも、私を自然に誘うオトナがいました。 顧問の桜井先生。千葉校山岳部は、当時高校山岳部はどこも夏合宿は北アルプス縦走、ちょっと力のある高校は南アルプスを目指すのが一般的でしたが、我部は群馬と越後の県境の大学ワンダーホーゲル部が目指すような道なき藪尾根をたどるという冒険的な1週間合宿をしていました。今日のサイトから目の前のひと山越えるのに一日ががりで反対側の鞍部にたどり着くというような藪こぎがあり、水汲みに谷まで降りるというような山行でした。 そんな場所にやんちゃな高校生に付きそう桜井先生は今思うとすごい人だったなあと感心します。 その留年先輩も同行して私に多大な影響を私に与えてくれました。(彼は卒業後、当時先鋭的なクライマー集団の山岳同士会に所属しネパールのジャヌー北壁遠征に参加し亡くなりました・・合掌)
 
大学は一浪して北海道大学へ。高校山岳部の部長副部長の関係だった同期のMTS君も合格。翌年その翌年にも高校山岳部の後輩が入学してきて、一時は同部同窓生が5人にもなったときがありました。私は山スキー部に入部したのですが、そのGW合宿を終え下山した時に、郷里からオフクロが倒れたとの連絡があり急遽帰郷。彼女はくも膜下出血で意識なく植物人間状態となり、その付き添い看護を親父とするためにすぐさま大学休学をしました。 そして、8ヶ月のちの翌年正月に他界をしました。 もう復学もしたくないほどの虚無感に襲われて、人生が終わったくらいに落ち込んだのでした。
 
もう就職するかなあともかんがえたのですが、父親や親戚の叔父貴に説得されてなんとか復学しましたが、山スキー部には戻らずに、札幌山岳会という社会人団体に所属しました。ここでも、自然愛好の登山家の多くのオトナに出会いましたが退廃的虚無感はぬけだせませんでした。そして、先輩から聞いたネパール話に大いに関心がわき、この状況を変えたいとも考え、高校山岳部の同期MTY君(彼も北大生で同じ山岳会に所属)とネパールトレッキングを計画して実行に移しました。
 河口慧海(かわぐちえかい・僧侶、仏教学者、探検家)が明治時代にチベットに探検旅行をしたカリダンダキ川にそった街道(エベレスト街道でもある)をナムチェバザール・ジョムソンを経て、更に奥地のティリッツオ湖)を目指すという計画でした。往復1ヶ月半の旅でした。(おかげで学部移行の単位不足となり留年した・・・
 
この道中に見聞したことはアタシの人生に多大な影響を与えました。 人々の貧しくとも豊かに見える生活、やっとた(中学生くらいの)ふたりのポーターの献身さなどなど・・・、そして何より、大きかったのが「世の中にはこんなにもデカイものがあるのだ!!」という山々の様相でした。 5000mラインでテント2泊したことがありました。遠くチベット高原も見渡せるような高台で、ふと気づきました。「俺はなんと小さいんだ、そんな小さいやつが何を小さいことに悩んでいるのだ!!」と、ネパール旅で癒されすべてが吹っ切れたのでした。
 
このネパールの旅がなければ、それからのアタシ、今のアタシはなかったなあ。
二十歳、1974年のことでありました。
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