晴徨雨読

晴れた日は自転車で彷徨い、雨の日は本を読む。こんな旅をしたときに始めたブログです。

無神論者 6/16

2008-06-17 | 日記・エッセイ・コラム

2008.6.16(日)曇り

 本ブログ読書欄に大地の母を書いているものだから、宗教心があるのかと誤解され、宗教関係のお誘いや雑誌、パンフを頂くことがままあるようになっている。残念ながら根っからの無神論者で絶対神は存在しないという信念は一生続くと思う。宗教は本来人々を精神的に救うものなんだろうが、組織となり政治と結託するようになり、結果人々を苦しめることとなっている。爆弾を抱いて罪もない市民を殺傷することが果たしてアラーの教えなんだろうか。航空機でビルを破壊した犯人が早く殉教したいと言っている。世界中で宗教を根にした戦争が後を絶たない。被害者はいつもか弱い庶民ではないか。
 大地の母は大本教の出口王仁三郎を中心とした大本教創生期の実録と言うことであるが、私が読み始めた理由は、明治時代の丹波や綾部の様子を知りたいことと国家による大弾圧の実態を知りたいことからである。前者は大変参考になった。特に登場人物、地名はそのまま使ってあるので、綾部のみならず福知山、和知、周山、亀岡、園部等々丹波の歴史、風土、社会など事細かに記録されてある。
 後者については天理教同様大弾圧を受けたのは事実だが、その実状についてはタブーとなっている様子でよく解らない。大本教については高橋和巳「邪宗門」の舞台となっていることは習知であり、弾圧の様子も細かに出てくるのだが、いかんせん小説であることが果たして事実なんだろうかという疑問となるのである。大地の母では弾圧に関する記載はほとんど無く、私の目的は達っせられなかった。
 大地の母前半部分は大変興味深く読み進んだが、後半には宗教的というか、神懸かり的というか、空中浮遊に代表されるようににわかに信じがたい事柄が際限なく出てきて、はっきり言って馬鹿馬鹿しくなってきた。Img_0742

大地の母全12巻、読みたい人にはお貸ししましょう。



 というわけで、現在最終巻12巻を読んでいるが,やっと読み終えたという感がしている。。ただ大本教が今綾部でどのような位置にあるのか、市民にとってはどうなのかを知りたい。弾圧を受けたからだろうか、分裂したからだろうか、市民からはタブー視されているような、無視されているような、浮いているように第三者的な私の目には映るのである。
 絶対的な神仏は信じないけれども、私の心の中には神仏が存在する。太陽を主とする自然には感謝するし、大地の恵みや衣食住すべてに感謝している。今日ある祖先を敬うことも、神社仏閣にお参りすることも私の心の中の神仏のなせる技である。  合掌

コメント
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