2009.9.12(土)雨
月に一度の土曜定休なんだが久々の雨で福知山東ゴルフの例会は順延となる。この際溜まりに溜まっている仕事をやっつけてしまおうかと思うが、雨は本格的でままならない。
河牟奈備神社の続編がなかなか書けないのはあまりに滑稽というか妄想と言うべき説なのでということと、調べれば調べるほど様々な要素が現れて少しもまとまらないという理由による。しかしここでは恥も外聞も度外視して今思っていることを書き留めておこう。今後勉強を進めたら、馬鹿なことを考えていたなあと言う結果になるのだろうが、瓢箪から駒ということもあるし、実は私もそう考えていたなんてことを後から言うのもシャクだから書いておこう。
加美郷というのは奥上林村誌では場所不明となっている。現在では確定されているのかも知れないが、読んでいる資料が余りにも少ないので不明としておこう。地名辞典などを見ると加美というのは那珂、志茂と一緒に使われ位置を示すいわゆる上中下である場合が多い。拝師郷が上林を指すというのは解っているようだが、その根拠は私は知らない。何鹿郡十六郷のうち現在地不明となっているのは加美郷、高殿郷、井文郷、余戸郷の四郷である。(奥上林村誌)何鹿郡の地図を出して現在地の解っている郷を埋めていけば、不明地はある程度予測できそうに思うのだが。もしそういう地域が出てこなかったら、それは確定されている郷の中に不明郷が有るとしか考えられない。私は加美郷は上林の中にあるのではと思う。
河牟奈備神社(2)で室町時代の上林上村、下村のことを書いたが、この上村が加美郷だとすると一応らしい感じはする。ところが加美は上村の”上”ではなくて上林の”上”ではないかと思うのだ。加美・拝師が上林であるとしたらそうなるわけだ。では加美が上なら下はどこにあるのだ。それらしい地域は見あたらない。少なくとも今のところ見あたらない。加美は上ではなくて神なのではないか。河牟奈備の河牟は神を表す。多くのカンナビ神社は神奈備神社である。河牟はアイヌ語でカムイと言うところの神であることは間違いないだろう。河牟奈備神社の氏子圏がかつては口上林の総てと念道村であるという、そうすれば河牟奈備神社を氏神とする河牟奈備郷があり、二字佳名の令に従って河牟郷→加美郷となったのではないか。
河牟奈備神社鳥居
これは志賀郷の阿須々伎神社が吾雀(あすすぎ)郷の核となっていたことがヒントになったこともある。
阿須々伎神社茗荷神事(2009.2.3)
また、氏子圏が一つの郷であったとしたら「念道のこと」でたてている仮説、念道=子ント(北の領地、北の地、北の門)説もなにか本物らしくなってくるのである。
【作業日誌 9/12】
洋芝播種準備
人参播種
自然薯残り収穫
今日のじょん:久々に雨が降ってレインコートを着せられたが、嫌がってはいるものの以前ほどでは無いようだ。固まり具合もやわらいで、ききわけがよくなった。
今日はじょんも上林の新米を御相伴にあずかった。ご飯の好きなじょんとはいえ贅沢なことである。