晴徨雨読

晴れた日は自転車で彷徨い、雨の日は本を読む。こんな旅をしたときに始めたブログです。

引地のこと(5) 9/24

2009-09-25 | 歴史・民俗

2009.9.24(木) 快晴

 引地(2)山形県酒田市引地
 2006年9月8日最上川沿いに下ってきた。国道47号線が最上川を離れると、川沿いの河川管理道路が酒田まで続いている。左に庄内平野の田園、右に最上川と遠く鳥海山を望み、一般車の通行もなく最高のサイクリングであった。酒田市に入り庄内橋を過ぎた当たりの対岸(右岸)に引地がある。いわゆる大字で、宅地や高田などの小字がある。最上川が西に向きを変える屈曲点の先にあり、規模は違うが上林の引地と同様の地形である。Img_0551

左の尾根の先あたりが引地


 神奈川県大和市に引地川という川があり、相模湾に注いでいる。大和市は大学時代に4年間住んでおり、自転車旅行では並行する境川を下ったので親しみ深い川である。この川の由来を調べていたら、「土地が川の流れによって押し出される」という意味があるということが書いてあった。この文面では意味がよく解らないのだが、川の水流によって河岸が削られている様なところをいうのだろうか。と言うことは川の屈曲点は将にそういう場所で、酒田市のこの地に当てはまる由来と言える。
 近隣には皇大神社が四社あり、熊野神社も一社ある。気になる地名、赤戸、猿田、金谷、宅地、千河原

 引地(3)徳島県三好郡東みよし町西庄字引地
 東みよし町は2007年5月9日に訪れている。吉野川に沿った何の変哲もない町なんだが、大楠の木があるというので訪れた。楠の木は大きく育つのだがここまでのは見たこともない。その年の秋この地で全国俳句大会が開催されるというので後日投句したが落選した。Img_5285 その後町立の郷土資料館を訪れている。
 

加茂の大楠、いやはやでかい。

 さて地図で見る引地は東みよし町役場から加茂谷川を遡り、西庄に至る。平というあたりで右に谷が分かれると引地となる。このあたりは祖谷渓に越える桟敷峠に至る山間部で今まで調べた引地のように低地ではない。災害があるとしたら洪水より山崩れが起きそうだ。ここで自転車旅行で訪れた資料館で木地師の証文の現物を見たことを思い出す。木地師の祖惟喬親王のいわれの書かれた証文は本では読んで知っていたが本物を見るのは初めてであった。何でもこの証文があれば各地の関所を通過できたと聞いているが、封建時代の文化の伝搬はこれら放浪の民によってなされたという思いがする。Img_5298 かつてMTBを駈って北山を駆けめぐっていた頃、雲ヶ畑から祖父谷峠を越えて京北町側へ下ったことがあった。その際に惟喬親王や桟敷岳のいわれが案内看板に書いてあったのを思い出す。この山に桟敷を作って都を懐かしんだという伝説はそのまま受け取れないが、東みよし町の木地師の里(西庄)の上流に桟敷峠があるのも因縁かなあと思う。ただこの桟敷は祭祀の場所という意味かも知れない。この資料館には弥生時代の祭祀に使われた磐座(いわくら)の写真などが展示されていた。Img_5297 Img_5290
たぶん向こうに見える山の奥に引地がある。

 桟敷峠から南東に稜線をたどると風呂塔という山がある。面白い名前だが、ふろは鞴(ふいご)ののことだそうだ。銅の精錬に鞴を使っていたそうである。
 いくら地図を眺めても場所が確定できないので、東みよし町の役場に電話する。ホームページの担当の方がいて親切に教えてくれた。三好鉱山は山口谷川を遡って風呂塔に至る斜面にあったそうだ。滝倉という地名はもう消えているがやはり三好鉱山の一つの坑道のようである。精錬所は風呂塔の麓ということだが、確定はされていないそうだ。いずれにしても引地のある加茂谷川流域ではないのかとがっくりしていると、「尾根を越えて西側の谷にも坑道が有ったんですよ」というお言葉。「西側の谷というと加茂谷川のことですか」「そうです」
やはり引地の周辺には鉱山があったのだ。そういえば風呂塔周辺の山間には山道が交錯しており、かつてあちこちに坑道があったためだろうか。
 加茂谷川を下ると鍛冶屋敷、井関という小字が続いている。井関一族についてはいずれご案内することになるが、鋳物に関係する集団でもある。何か関連があるのだろうか。

【作業日誌 9/24】
材木の切断と移動
芝生広場草引き

今日のじょん:彼岸を過ぎると、逆に夏がぶり返してきたが、陽は斜めになり、じょんが日向ぼっこするようになってきた。秋を感じるねえ。Img_3057

コメント
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