晴徨雨読

晴れた日は自転車で彷徨い、雨の日は本を読む。こんな旅をしたときに始めたブログです。

峠越し文化論 4/3

2011-04-05 | 歴史・民俗

2011.4.3(日)曇

 奥上林村誌に「上林のはじめ」という興味ある文がある。口上林、中上林の人びとは川沿いに下流から開けていったといい、奥上林の人は大唐内、古和木など山から開けていったという内容である。身びいき所びいきの感情から発するものといいながら、君尾山、古和木権現、大唐内の薬師さんなどを引き合いに出して、やれ山からだ、やれ川からだと論じている。最初に読んだときには面白い論争だなあというぐらいにしか思わなかったが、いまだにそのことを論じる方がおられることをみると、上林の知識人の間で過去にそういう論争があったのかも知れない。
 この件について中上林村誌には次のようにある。
「文化の伝導経路として普通丹後凾石附近に住んでいた古代人が由良川をさかのぼってきて文化を開いたものと考えられるが、舞鶴や福井方面から原始人が入り込んで来る事は全然なかったかどうか、これ等は現在の所では解明されていない。」
 丹後凾石(はこいし)とは京丹後市久美浜町にある箱石のことをさすのだろう。函石浜遺物包含地といって縄文から室町に至る遺物が出土している広大な遺跡がある。その箱石から古代人が文化を運んできたとか、原始人が云々とか随分乱暴な文面ではあるが、文化がどのようにして上林谷に入ってきたかという思いは誰にもあったようだ。
 どうでも良いようなそのことが、いま大変重要なことであることに気づいた。書いたものが残っていない古代の姿を探究するとき、文化の流入経路というのは大変大きな意味を持つ。大唐内の歴史や民俗を調べはじめて、そのルーツが若狭にあることがよくわかる。例えば言葉なども若狭訛であるし、南方海洋民族の流れを汲むだろう杜の文化などもそうだろう。薬師堂の土印の風習も同様のものがニソの杜で有名な大島にあるようだ。つまりこれ等の文化は由良川から上林川を遡って到達したというよりは若狭から直接、日置峠、猪鼻峠を経由して、あるいは黒部(くろぶ)与保呂(よほろ)から胡麻峠を経由して流入したものだろう。常々そう思っていたところ、「北山の峠」(中巻)で金久昌業氏が胡麻峠のところでまるっきり同じことを書いておられ、感激した次第である。つづくImg_1732

大唐内から胡麻峠方面


【作業日誌 4/3】
畑種蒔き準備

今日のじょん:ジロやんにダニが着いてたでという情報、いやはやこんなに寒くてもしっかりダニは出てくるんだ。2日前にフロントラインをしたので一応安心なんだが、なんとなくやだもんね。じょんのび村に遊びに来るワンちゃんは必ずフロントラインすること、そーでないとえらい目にあうことになるぞ。Img_2565


そろそろ草のびてきたぞい。

コメント
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