晴徨雨読

晴れた日は自転車で彷徨い、雨の日は本を読む。こんな旅をしたときに始めたブログです。

大唐内のこと(52) 鬼伝説 4/27

2011-04-28 | 歴史・民俗

2011.4.27(水)曇、雨

 伝説中に現れる、というよりは主人公の藤元善右衛門といわれる人物について、今のところこの人物について書かれた文書なるものは確認できない。確認できたものは氏の墓なるもの、氏が残したと言われる鏃、氏が射たという悪人の遺跡と言われるや神さま、そして弓の名人と言われる口伝である。
 大蜘蛛伝説が麻呂子親王や聖徳太子の時代の出来事を反映しているとしたら、善右衛門氏はその事件とは無関係だと思われる。墓の形式について詳しくは無いのだが、善右衛門氏の墓というのはもう少し時代が下がると思えるし、鏃も鏑矢があるのはもっと後の時代だと思うわけである。善右衛門という名前にしたって飛鳥や天平の時代らしくはないだろう。この辺の処は調査研究すれば明らかに出来ることだが、今のところは想像の域を出ることはない。
 ただ、善右衛門氏は藤元株の先祖として実在はしただろうと思うし、武士の出で、弓の名人であっただろうことは想像に難くない。弓の名人として著名であっただけに説話としての大蜘蛛退治の主人公として採用され、聖神社の祭神として祀られたのではあるまいか。
 ただ、大唐内と藤元善右衛門氏を結ぶ大きな理由があるはずである。それは日下部の部民が有安から出陣し、大唐内の産鉄の原住民を追放し大唐内に居住することとなったのではないだろうか。大唐内の入口に有安谷という地名が残っていること、大唐内の氏神ともいえる聖神社に有安の祖先である善右衛門氏が祀られていること、甘酒講といって毎年藤元七家を招いて祭礼を行っていることは、大唐内の住民の本貫の地が有安なのではないかと思わせるのである。 Img_1729
Img_2686 
大唐内(左)と有安(右)を結ぶものは、伝説のストーリーだけでは無いような気がする。


 そう解釈すると、大唐内の住民は有安の藤元善右衛門氏の大蜘蛛退治の恩を忘れないで毎年講を開いているということが素直に理解できるのである。つづく

今日のじょん:今日はかみさんが一日留守でおとーと二人で店番をしていた。夕方になり暗くなってきたら、心なしかしょぼんとしているようで、時々おかーを探しているように見えて不憫になる。こちらも心配になるころに車の音がして、帰ってきた。もう脱兎のごとく玄関に飛び出し、ちぎれんばかりに尾を振る様子には思わず嫉妬してしまう。Img_2809

 

 

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大唐内のこと(51) 鬼伝説 4/26

2011-04-28 | 歴史・民俗

2011.4.26(火)曇

 各地の鬼伝説について鬼とは鉱山師のことだろうという説はかなり一般的である。旧来の採鉱、製鉄をしていた民族が新しい勢力にその地、その権利を奪われる事象を説話として鬼伝説として残したものである。もちろん説話の鬼は痘瘡神であったり、修験者であったり、山賊であったりするわけだが、鉱脈のある地、産鉄の地に残る鬼伝説は鉱山の掠奪と見て良いだろう。
 そこまでの考え方は全国各地の鬼伝説にあるのだが、それではいつ頃の時期に、どのような民族がどのような民族に攻められたか、掠奪されたかという考証はあまりお目にかかったことはない。学問としての歴史や民俗にはそぐわない行為なのだろうか。説話の歴史的背景なんて所詮立証のしようのない想像の延長になるというふうに思われているのだろうか。
 私はあえて大唐内の大蜘蛛伝説の背景を探究してみたい。恥を忍んで私の仮説ならぬ想像を公表しよう。
 時代といえば弥生時代になるだろう、海の民が丹後や若狭に稲作や製鉄の技術を持ってやってきた。日置、青鄕、横津海なんて処は当時は海岸沿いであろう。彼らの主要な居住地であったと思う。肥沃な土地と豊富な海産物は居住するに充分であっただろうし、鉄資源も大島などに見つかっていただろう。新たな鉄資源や森林資源を求めた民は黒部谷や関屋川を遡行しただろう。特に航行の目印としていたイモリヶ岳の安山岩の節理には注目したに違いない。Img_2724

この安山岩には磁鉄鉱が含まれている。


 彼らはそこに鉄の原料、磁鉄鉱が含まれていることを知っていたのだろう。そして胡麻峠や猪鼻峠を越えた海の民にとって大唐内の地は桃源郷に見えたかもしれない。Img_2722

猪鼻峠から杉木立越しに関屋、青郷を望む。


 田畑を開墾し粗末ながらも野たたらで鉄器を製作しただろう。それから数百年、新しい民族が上林川を遡って入ってきた。それはもともと丹後や若狭に居住した海人族が由良川を遡ってきたものかもしれないし、新たに渡来してきた朝鮮半島の民かもしれない。彼らは農耕にしても、採鉱製鉄にしても新しい技術を持っていたし、ヤマト政権という国家権力がバックにあっただろう。日下部、弓削部、日置部などの部民は上林川上流、畑口川流域の鉄資源を目的に置かれたものだと推測する。それは朝鮮半島からの鉄鉱石の輸入が困難になり、自前で鉄資源を開発しなければならなくなるという政治的な背景があったようだ。Img_2697

上林川、畑口川の中間にある光明寺。


 草壁、日置殿町、弓削の地が上林川、畑口川合流附近にあるのはその拠点として重要な位置だからではないだろうか。またその地を見渡す位置に聖徳太子創建と言われる君尾山光明寺があるのは単なる偶然とは思えない。つづく

【作業日誌 4/26】
薪割り

今日のじょん:おとーの石探しを手伝っているのか解らないけど、堤防のところではクンクンが激しい。ここ掘れワンワンじゃないけれど、一応じょんのクンクンの処は見てみることにしている。鉄滓や石器など出てこないかなあ。Img_2795

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