2011.4.21(木)曇
海人族が稲作と製鉄技術をそなえて、海を渡ってあるいは海岸伝いに丹後や若狭の地に渡ってきた。もちろん原住民、といっても所詮彼らも海を渡ってあるいは陸伝いに日本に渡ってきたものであるが、がそこには居て確執があったかも知れない。ただ、狩猟採集と農耕という異なった文化の民であるから、利害が衝突することも少なかったかもしれないし、人口密度だって今日とは比べものにならないくらいだからさほど問題もなく定着したかもしれない。しかし稲作技術を持つ彼らは以前に比して、高い生産性と高度な文化を維持したことだろう。
当初は農耕と金属生産、木材伐採、土器生産、衣類生産、木器生産などを誰もが担いいわゆる自給自足の村であったと思われるが、やがて技術的な分野は徐々に専門化していき、そういう集団も出てくるだろう。
人口の増加に伴い、新しい農耕地を求めて移動するとしたら、やはり肥沃な大河沿いに遡るのが順当だろう。由良川沿いに海人族の文化が遡行しているのはその査証である。しかし金属生産や木材伐採などの民はそれ以上に早く原料、資源の枯渇に襲われる。そういう人たちは大河沿いに遡るよりむしろ山地を目指すだろう。その場合道なき道を探索するのだから、当然沢筋を遡ることだろう。金属鉱床を探す場合などは特にそうである。まず彼らは沢筋の砂や岩石から鉱床のありかをかぎ出すのだろう。そして彼らは沢のツメから峠に至る、そこからの眺めは今までと違った桃源郷のような景色が広がっていただろう。手つかずの樹木は無尽蔵にあり、峠の附近には鉱脈もありそうだ。峠を下った処は適度に開けて、自分たちだけの食料なら作ることも出来る。
老富には若狭から直接文化が入ってきた。
胡麻峠と猪鼻峠。
こうして胡麻峠や猪鼻峠のコルから農耕プラス幾多の技術を持った文化が大唐内、小唐内、市茅野の谷に入ってきたのだと思う。
稲作を主体とした本体の文化は由良川、上林川を遡って来ただろうが、そこには相当の時間的ずれがあったと思う。稲作農耕は肥沃な土地に沿って田畑を切り開きながら開拓と定着を繰り返すのだから、資源の枯渇による早急な探索開拓の必要がある金属、木材などの文化とはスピードが違うわけだ。その由良川を遡る本体の農耕文化集団からも支流を遡り、峠を越える集団が派生するだろう。
つづく( 峠越し文化論は2011.4.3)
【作業日誌 4/21】
薪割り
道具収納棚作製
今日のじょん:朝のじょんの様子がおかしい。究極のじょんのびファーム(基本的に世話をしない畑、獣害がないようにほとんどネギ類を栽培)のあたりをクンクン臭いでる。そして訴えるような目をして木小屋のあたりや隣の畑に連れて行く。
やられた、それも育ちの悪い九条ネギを何者かに荒らされた。夜のこととて猿ではない、イノシシ風の荒し方でもない、鹿の糞も落ちていない。何か小動物か、それにしてもネギを襲われたのは聞いたことがない。世も末だぜ。