晴徨雨読

晴れた日は自転車で彷徨い、雨の日は本を読む。こんな旅をしたときに始めたブログです。

大栗峠考(16) 12/1

2011-12-01 | 山・峠

2011.12.1(木) 雨

 鳥垣(とりがき)という地名は簡単に解明できそうで実は難解な地名です。
 航空写真でこの地域を見ると丁度鳥の頭に見えます。また、柏屋さんというおいしいかしわを扱うお店もあります。しかしこれ等のことは偶然で鳥垣の地名の所以とは無関係だと思います。一般に鳥(とり)はタワ、タオ、タオリつまり峠の転と、通りつまり街道、道、人の往来というような意味があります。Img_3548 Img_3394




志古田集落、右の尾根は452mピークから弓削道に繋がっています。このルートなら谷のように荒れることは無かったと思うのですが。

 今日のじょん:じょんカレンダーも最終月とあいなった。お気に入りの一枚なので是非見に来て頂きたい。P1000473

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大栗峠考(15) 11/30

2011-12-01 | 山・峠

2011.11.30(水)曇

 大栗峠をめぐる最大の謎は、なぜ志古田道が出来たのかということです。志古田道が間違いなく存在し、京街道として利用されたのは、峠の地蔵さまの道標に「右志古田 わかさ」とあったり、大栗峠の峠名が志古田の小字大栗に由来するだろうということからもはっきりしています。
 それにしても志古田の谷道は街道としてはあまりにも不適というか維持管理の大変な道です。現在であれば国道は国が、府道は府が維持管理をするわけですが、往時の街道筋というのはどうしたのでしょう。確かなことは解らないのですが、おそらく峠を挟む両側の村でまかなったのではないでしょうか。そうだとすると志古田と長野にいくら財力があったとしても志古田道を維持していくのは困難ではないかと思います。それだからこそ京街道の座を弓削道に譲ることになったのでは、また大量の輸送、荷車での輸送が必要になったとき志古田道では無理があるということを述べてきました。P1000397
 



 志古田道最大の難所、大岩から崩壊部分に至る箇所、大岩までは道があるのだが、この先はどこが道だか解らない脆くて急な崖となっている。

 わたしはこれ等の考え方はおそらく妥当なものと思っていますが、それならなぜ最初から安定した地形の弓削道を唯一の京街道としておかなかったかというのが謎なのです。
 毎日2万五千の地形図を眺めその理由を考えているのですが、やはり若狭から来た場合大栗峠に至る最短のルートには違いありません。ただし徒歩に限ります、牛馬荷車となるととても無理な道でしょう。以前にこのあたりについて検討しましたが(大栗峠考(9)2011.10.25)、宿や茶店というのは無関係だと思います。つまりそれら街道の付帯設備は道があって出来るもので、それらがあって道が出来るわけではないからです。P1000405
 
志古田道の特徴は下部が平坦で長いことです。


 川の渡しの問題は大きなファクターになると思いますが、現在のように整備された川からは往時の流域を想像することはできません。あえて想像するなら、鳥垣に行くあたりから上流、草壁に行くあたりの間が流れが緩やかそうではあります。特に草壁川出合いより上流だと草壁川の水量分少ないので楽かなあなどと勝手な想像をしております。Img_2686

市場の上、府道から有安を望む辺り。この辺が徒渉には適していそうです。


実は寛政十一年丹波国大絵図では、街道は長野から上林川、草壁川を徒渉して弓削に至っているのであります。大変矛盾したルートなのですが、ひょっとしたら太古若狭からの道は庄~鳥垣~志古田~弓削という風に繋がっていたかも知れません。そうすると鳥垣から志古田へのルートはどうなるのかという問題が出てきます。この間の上林川沿いは狭い隘路になっているからです。一度この部分を探ってみたいとも思っております。
 以前「や神さま」を探して有安を何度か訪ねました。古井~有安~庄~鳥垣の道はなんとなく古代の道ではなかろうかという雰囲気なのです。それは鳥垣の地名からもうかがえることです。つづく

【作業日誌 11/30】
チエンソー収納箱つくり

今日のじょん:先日の白菜に続き大根が初の収穫となった。夜はほうとう鍋でほうとうや大根、人参、白菜などじょん君も楽しんだのだが、「大根を一番に食べたで」とのこと、なんとなく嬉しくなるじゃないですか。P1000472  
 
 

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