2011.12.13(火)曇、晴れ
志古田道の謎は、現在の道が果たして古来の道と同一なのかという点です。記録を見る限り昭和55年、府の事業として整備された和知、綾部山の家を結ぶハイキング道とそれ以前の志古田道は同一のようです。
その時点で既に荒れていた志古田道を選んだ経緯は目下調査中なのですが、隣に健全な弓削道が存在するのに、あえて困難な志古田道を選んだ理由は謎ではあります。当時の関係者はまだ多くいらっしゃるので調べることは難しくはないと思いますが、それを調べるのは余り重要なことでは無いような気がします。
つまり、それはハイキング道であって産業道ではないのでその道に対する真剣な選択もされないだろうし、府の事業で予算的にも潤沢で整備費に関する問題も出なかったのではないでしょうか。綾部山の家が奥上林の睦寄町に存在することから、同じ睦寄町の志古田道を選んだということではないでしょうか。弓削は中上林の五津合町なのです。少し強引な発想かも知れませんが、当たらずとも遠からじというところでは。
長野から大栗峠方面。手前が志古田。
わたしが問題とするのは、現在の道と古代からの道が果たして同じルートなのかと言うことです。
疑問を感じるひとつの理由は、志古田道に古道を思わせる遺跡、つまり道標や地蔵さまが無いことです。峠にも峠を越えた上粟野側の尾根にも施主志古田村中のお地蔵様があります。寛永十一年丹波国大絵図では弓削道が街道として記されているにもかかわらず、それ以降の時代の地蔵さまを志古田村、長野村が施主として祀っていることは志古田道が厳然として活躍していたと考えられます。そうすれば峠道に深く関わり合い、信仰厚い志古田の村人が峠から志古田の村までの間に何も残さないということは考えられないことです。
右 志古田 わかさ
もちろん一度歩いただけのわたしが見つけられなかったと言うことかも知れませんし、崩壊して埋もれたとか盗難にあったとかいうことがあるかもしれません。しかしいくつかの踏査の記録を見ても遺跡らしいものは何もないようです。
それではかつての街道が現在の道と違うものだったとしたらどうでしょう。違ったところに古い遺構や遺跡が見つかったとしたらこれは事件ですが、可能性としては低いものと思います。
峠の道標や地蔵さまを見る限り、降り口は現在のものに絞られます。跡は小尾根を降りるか本谷を降りるかですが、小尾根の道はしっかりしており、古道の雰囲気も感じられます。所在不明の「左京道・右弓削」の道標があるとしたらこの附近だと思いますが、見当たりません。次に機会があれば本谷を下ってみたいと思います。