晴徨雨読

晴れた日は自転車で彷徨い、雨の日は本を読む。こんな旅をしたときに始めたブログです。

上林探訪 志古田 4/14

2011-04-16 | 日記・エッセイ・コラム

2011.4.14(木)快晴

 4月12日、有安の帰りに志古田による。なにしろ我が家の野菜はサーキさんのハウスからの支給に頼っているような状態だから、素通りするわけにいかない。そのハウスの野菜はすっかり片づけられて、主役の万願寺唐辛子に代わっている。野菜作りも本業となると大変だなあと感じる。ハウスも今でこそ暖かくて心地よいが、夏になると暑そうだ。私も学校出てすぐはハウスの中でメロンの受粉などしていたがあの暑さには閉口した。今日はニラと紅苔菜を頂いた。紅苔菜は中国野菜でおひたしにすると大変美味しい。
 さて志古田といえば繞谷丘陵(じょうこくきゅうりょう)である。環流丘陵ともいい、そのほうが解りやすいかと思うが、河川の蛇行によって取り残された丘陵のことをいう。上林川にはいくつかのこの地形が見られるが、志古田、弓削、古城山のものは規模も大きく形もはっきりしていて上林の特徴的な風景となっている。浸食されずに取り残された丘陵だから硬い地質なのかと思いがちだが、近づいて見ると赤い粘土質の土で柔らかそうである。古城山も赤土の崩れているところがあったりして同じような地質らしい。ということは硬い地質だから残ったのではなく、流路の加減で残ったということかもしれない。Img_4177
 

志古田の繞谷丘陵、上林川はかつては志古田の集落のところを蛇行していたのだ。

 志古田の繞谷丘陵は林になっており、上林川側に小さな祠がある。これについては聞き漏らしてしまったが、村の側には共同墓地がある。この地は両墓制じゃ無いのかなと思ったが、聞くとかつてばらばらにあったお墓を一箇所にまとめたということだった。かなり古そうな石碑もあり、もともと墓地であったような気もする。その墓地の入口の処に「大乗院」と書かれた大きな石碑がある。年号等も書いてあるようだが、よく読めない。いろんな説があるそうだが、やはりかつて寺院があったとみるのが妥当だと思われる。志古田には薬師というところや、寺庭という地名があるそうだがはたして関連があるや否や。Img_2691 Img_2692
 この丘から村の方を望むとなだらかに開けた集落とそのむこうに和知との境をなす山々が見える。里には桜、山にはこぶしが咲き誇り、なんとものどかで開放感のある風景である。府道から志古田を見ると、繞谷丘陵が立ちふさがって威圧感と閉塞感を覚えるのだが実は志古田に入ってしまうとまったく逆の感じで、別世界に来たように思えるのだ。Img_2694





【作業日誌 4/14】
薪割り
道具収納棚作り

今日のじょん:居間で過ごすことが多くなって、床が傷ついていけない。ジョイントマットをひいてやるとそこでくつろいでいる。Img_2707

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大唐内のこと(45) 鬼伝説 4/13

2011-04-14 | 歴史・民俗

2011.4.13(水)快晴

  藤元家には先祖のものといわれる鏃が保管されている。是非拝見したいと言っていたので、用意していただいていた。Img_2685
「藤元株の株元はこのうちに当たるのですか」
「そうです、藤元家七家の株元です」
「お墓は二基のみだったのですが」
「後の五軒は古井にありますが一軒はもう出ておられてありません」
「藤元善右衛門さんは弓の名人ということですが、武士の出やったんですかねえ」
「それはわかりません、平家の落人かもしれんねえ」
「善右衛門さんのお話はなにか書いたものがあるのですか」
「いえ、なにもありません」
「そうすると口伝えで伝えられてきたんですねえ。」
「甘酒講には今でも呼ばれて行かれるんでしょう」
「十月の講には藤元家から二軒ずつよばれるんやけど、結構大変なんやで」
「上林のお墓はよく家毎にあるんですが、ここはまとまってありますねえ。昔は家毎やったんですかねえ」
「家毎には無かったですよ」
「お墓の下の所に椿の木なんかが植わってますが、杜ということは言いませんでしたか」
「いやー、聞かないねえ」
などと聞きたいことは聞いたと思うが、後で井戸堀のことを聞くのを忘れたことに気づく。
 鏃は普通のものと鏑矢のものがあり、もし善右衛門さんの持ち物であったら、善右衛門さんは武士であろう。猟師が鏑矢などを使うはずもないからだ。ただ神事に使うという可能性は否定できない。金属の年代測定などできれば、時代が特定できるのだが、そんなことも出来ないし、むしろお墓の方はその形状などから時代が特定できるかもしれない。
 遠く離れた大唐内の地との古い交流、大唐内の神社に祀られるということを考えても、大唐内大蜘蛛退治伝説の裏には歴史的なおおきな事件があるものと感じさせられた有安訪問だった。Img_2686


府道から有安を望む。

【作業日誌 4/13】
薪割り
草刈り1回目

今日のじょん:今月のじょんカレ。桜と犬はアングルがとりにくくいい写真が出来ない。上林の風景には防獣の柵が必ず入り絵にならない。Img_2710

 

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大唐内のこと(44) 鬼伝説 4/12

2011-04-13 | 歴史・民俗

2011.4.12(火)快晴

 鬼伝説を一旦締めくくる前に有安のや神さまと藤元善右衛門氏のお墓を見てみたいと思っていた。行こうかなという度に雪が降って4月になってしまった。今日はいつもどおり木の切り出しに行ったのだが、あまりにも良い天気なので愛車初恋号を出してきて有安に行くことにした。途中上林禅寺の桜を見たりして有安に向かう。Img_2670

上林禅寺の見事な桜、明日明後日が見頃かな。


 3時には到着し、有安の道を辿る。や神様っていったってどこにあるか解らない、道端で畑仕事をしておられるご婦人に尋ねる。
「や神さまってどこですか?」
「そこやで」
「いやあ、思ったより小さいですねえ」
「いっとき盗まれそうになったんやで」
「それでコンクリートで固めてるんですか、それにしても罰当たりな話ですねえ。ところで善右衛門さんの子孫の家というのはどこですか?」
「うちやで」
Img_2674 これがや神さまだ。



 てな調子で運良く善右衛門さんの子孫というお家の方に出合うことができた。や神さまは道の脇の畑の側にそれとなく鎮座されている。ちょっと変わった形の石の神さまである。大唐内の甘酒講のことや、善右衛門さんは弓の名人で山の上から悪人を弓で射た話など既に見聞きした話をひとしきり聞いて、お墓に行く。
 お墓の位置は藤元さんに聞いたとおり、有安地域の集合墓の奥の小高い丘の上にあった。伝説ではこのお墓の位置からや神さまの位置にいる悪人を弓で射たと言うことだ。物理的にはかなり無理があろうかと思われるが、あり得ないことはないという微妙な距離だ。お墓は二基分のスペースがあり、藤元さんによると一基は奥さまのものだということだ。石塔は一基のみがあり、かなり古い時代のもののようだ。Img_2679 Img_2678
 
藤元善右衛門氏のお墓、隣は奥様のお墓だとか。


 今はこの小高い丘も植林に覆われて薄暗く気味悪いところだが、植林がなされていない時分には一帯を見おろす随分気持ちの良い所だったであろうと思う。帰りに墓地を通過すると、藤元家のお墓は二箇所である。既になくなっている墓地も二箇所ほど見受けられるが、藤元七家には足らない。
 こんなことを考えているともう少し聞きたいことがあるので再度藤元家に寄る。
つづく(大唐内のこと(43)は2011.3.27)

【作業日誌 4/12】
木樵八回目

今日のじょん:これだーれだ?藤元さんちのコロちゃんやったけ、13才の老犬である。お年寄り好きのじょんは仲良しになれるかも、、、。Img_2682 Img_2683

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コメント感謝 4/11

2011-04-13 | 日記・エッセイ・コラム

2011.4.11(月)曇

 当ブログに対して真摯なコメントを頂いている。実は歴史、民俗に関するものについてはもっともっと批判や反論を頂きたいと願っている。というのは古代の歴史や地名に関することなどは思いをめぐらせて一定の仮説は立てることが出来ても、それを検証するということは困難であるばかりか、事実を立証することはタイムマシンでも発明されない限り無理なことだろう。そうなると重要なのは他の人の意見ではないだろうか。一般的に認められる説がそれが事実であるか否かは別として正論なのだろうと思うのだ。そういう意味では私の誠に頼りない説についてご意見ご批判を頂くのはこの上なくありがたいことだと思っている。従っていただいたご意見については誠実にお応えすべきだと考えている。
 「異端の書」(2011.2.4参照)についてのビヨリさんのコメントについて
丹後風土記残欠についてここまで書いたら、なんらかの反応はあるだろうなあと予想していたら、しっかりと長文でコメント頂いて感謝している。神学の例まで書いていただいて、かつては解らなかったが歴史の進歩により偽書であることが解ってきたということを解りやすく説明していただいたものと思う。ただ私が書いた意図というのは、加藤氏が論文に書かれているように二つの根拠のみを持って偽書とみなして史料的価値がまるでないものとしていいものなのかということであって、偽書というなら個々の記事についてその矛盾を示していただきたいということだ。でないと”
「田造」「高橋」の偽造がある以上、「残欠」全文が疑惑のベールで覆われている。”というのは理解しがたい。
 歴史的な文書というのは古代の事柄についてはそれが記述されるのは、時代が下がってのことであるのは当然だし、それまで口伝であったものが文章化されるということだろう。古事記をみてもそのとおりである。そこで偽書というのはどういうものなのか。例えば神社の由来や故事を書いたとして、取材先がまるっきりインチキなことをしゃっべっていたらどうなのだろう。筆者が取材も何もせず、ある種の意図をもって空想やでっち上げで書いたとしたらどうなんだろう。
 例えば今日ではフィクションとノンフィクションがある。歴史小説でもドラマ化されるとますます史実とは遠くなる。こういうジャンルが過去ににもあったとしたらどうだろう。基本的に歴史的文書は正しくて、婉曲であっても史実に基づいているものではないかという考えが私たちの根底にあるからこそ、この書は偽物だとかあの書はインチキだという事象がでてくるのかもしれない。
 東日流外三郡誌(つがるそとさんぐんし)なんてフィクションとして読んだら、その辺の下手な小説よりよほどおもしろいぜ。

【作業日誌 4/11】
薪割り

今日のじょん:おとーの石探しに辟易している。それでも今日はなんか新しいものを発見したみたいだ。Img_2654

 
 

 

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遅れてきた春 4/10

2011-04-10 | 日記・エッセイ・コラム

2011.4.10(日)快晴

 昨日からストーブを炊いていない、室内温度は朝から20℃あるからだ。といってもつい最近まで氷が張っている状態で、冬の大雪ののことを思うと本当に春は来るのかというような感じであった。五日前に京都に行った際に桜が咲いているのに驚いたんだが、遂に上林でも開花した。昨年は上林さくら情報として流したが、上林さくらってえのがモデルだか女優だかいるみたいで、凄くヒットしているのだ。上林さくらで検索したら水着の女の子と一緒にじょんのび村のしけた椅子や情けないじょん桜が映像で出てくるので笑ってしまう。
 というわけで、今年は上林さくら情報は中止し、別名でおしらせしたい。
念道で一番早い桜はお向かいの桜である。ところがこの桜、道の下の畑の中にあるのでロケーションがすこぶる悪い。カメラを向けるとお墓と防獣ネットが入るのだ。上林らしいといえば上林らしいが、一般受けしないところがちとつらい。Img_2656
 じょんのび村のしだれ桜が3年ぶりに咲いたのもニュースである。越してきたときしまだ屋さんにほんの小さな苗を戴き、大切に育てていたら、みるみる大きくなってあっという間に2mを超えてしまった。枝振りもすこぶる豪快で立派な木になったのだが、一向に花が咲かない。花の咲かない品種もあるんかなあ、それやったら意味無いなあといぶかしく思っていた矢先なので感激ものである。まだ数輪なので迫力はないが、蕾は沢山着いているので満開が楽しみである。Img_2661
 じょんの2才の誕生記念に買ったじょん桜も、昨夏は無数の毛虫に丸裸にされ、一時は枯れてしまわないか心配もしたが、蕾を着けているので来週あたりは咲くだろう。じょんカレ4月号に登場する上林川堤防の桜はまだ蕾というところらしい。
 園芸部長が復帰できないでいるじょんのびガーデンだが、確実に春が来て、様々な色が楽しめる季節となった。Img_2662 Img_2663
Img_2665Img_2666





ボケ、ムスカリ、レンギョウ、ユキヤナギ

   【作業日誌 4/10】
ガーデンシェッド、用具の搬入
薪割り

今日のじょん:本文に登場済み。
 

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雨読 聖徳太子と鉄の王朝 4/9

2011-04-09 | 雨読

2011.4.9(土)曇

 上林の古代を探るとき、日本の歴史だけを紐解いても探り得ない。半島、大陸とのかかわりが大きく影響している。それは大陸や半島への出港地は九州になるようだが、日本への到着地は丹後であり若狭であることだ。海外からの交通が海路のみで動力のない時代には潮の流れ、風の方向が唯一の頼りである。それらの寄港地は北九州から若狭までの日本海沿岸が考えられるが、その目的地が飛鳥であり奈良であったなら丹後、若狭というのは最も濃厚な可能性のある寄港地である。そういった意味で古代の日本と朝鮮の係わりを理解しない限り丹後、若狭、ひいては上林の古代も理解できないのではないかと思う。
 「聖徳太子と鉄の王朝」上垣外健一著、角川選書、平成7年初版、定価1,300円、購入価504円
 外国の歴史を学ぶためにその国の歴史書を読んでも退屈なばかりで身に付かない。この本のタイトルや副題の「高句麗からよみとく飛鳥」なんてのは半島の古代を知るに恰好の教材である。日本の建国、その後の政権の確立にとって最も重要な物は鉄であったろうと確信する。その鉄、原料としての鉄をめぐってのやりとりで半島各国の消長、歴史をみると大変解りやすい。ただ各国の歴史的事件だけを追っても知識とはなっても理解はできないのだ。そういった意味で大変参考になった書であるが、後半、特に聖徳太子の登場する場面では鉄の話は出てこなくて、仏教の事ばかりとなる。「鉄の王朝」というよりは「仏教の王朝」となっている。
 聖徳太子の創建と言われる君尾山光明寺が上林の地にあることについて、なにかヒントになることは出てこないかと思いつつ読んでいたが、高句麗からの使節の飛鳥へのルートに鍵があるかも知れない。本ルートは敦賀から琵琶湖の塩津に抜ける塩津街道、あるいは小浜から熊川、高島に抜けるルートをとり、琵琶湖を航路で大津に渡り、宇治、木津を経て飛鳥に向かったものだろう。そしてもう一つ、丹後半島から丹波、山城と陸路で繋ぐルートも考えられるとある。
 上林がそのルート上にあったとしたら、使節団を迎える施設として光明寺が考えられないかなあと想像する次第だ。Img_2650
本書における半島の歴史については、日本書紀などを元にしたいわゆる日本から見た半島であるので、次に韓国文化院監修の写真の二冊を読むことにした。

 【作業日誌 4/9】
Img_2646 
Img_2647Img_2648






ガーデンシェッド、内装完成、物品搬入
芝生草引き
薪割り

今日のじょん:夜中の吠えについては今まで理由が確定できず、「何が来てるんやろ」と不可解であったが、ここに来てようやく確定してきた。近所の工場で女性のかん高い声がするときと隣のチコが鳴いているときである。イノシシなど動物が来ているときは吠えないで唸る。解ってみれば単純なものだ。

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なぜ盛り上がらない原発論議 4/8

2011-04-08 | 日記・エッセイ・コラム

2011.4.8(金)雨

 今日の新聞に福島県の佐藤副知事が、「国と東電に裏切られた」というコメントをしておられる記事があった。裏切られたというよりだまされたという感じだ。しかし原発の危機を当初から訴えている者は居たはずで、副知事はその人の言うことは聞かなかったのだろうか。それは副知事ならずとも、知事も住民も国民総てがそうである。
 遠くの国でもその指導者が、「もう原発は中止」なんてことを発言する事態になっているのに、当の事故発生国では原発はこりごりと言ってるのは被災当該者だけで、他の地域ではよそ事のように考えてはいまいか。そのくせ、水や食品にはおそろしく敏感で、何の意味もない買い控えも起きている。逆にヨードが売り切れて市場から消えるなんて奇妙な事象も起きている。本当に考えなければならないことを無視して、どうでも良いようなことにひた走る、付和雷同そのものである。Img_2604
 
この正面の山の向こうに大飯原発があり、左手山の向こうに高浜原発がある。


 折しも統一地方選の時期である。もっともっと原発に対する論議がなされても良いのではないだろうか。私の家は高浜原発から丁度20Kmのあたりである。大飯の原発からは35Kmぐらいだろうか、その先には美浜、敦賀と目白押しである。その原発銀座の近隣の選挙で、この時期に原発問題を争点にしないでどうするのだろう。原発に反対せよと言っているのではない。原発の危険性についてもっと真実を明らかにし、その対策をすべき論議をせよと言っているのだ。
 綾部選挙区では四名の府議候補者がいる。我が家は府道沿いであり、一日家にいるので総ての街頭宣伝を聴くことが出来る。 「パイプパイプ」と言ってるので、原発事故のことを言ってるのかと思えば、予算のパイプだって。「ワカサワカサ」と言ってるので若狭原発のこと言ってるのかと思えば、若さだって。つらいなあ。
 原発について発言しておられるのは今まで聞いた中ではただ一人だけである。原発の危険性を訴えるために奥上林に居住され、一昨年亡くなられた阪大の久米先生やその信奉者であったであろう土井さんが草葉の陰で「おまえらしっかりせいよ」と言っておられるようだ。

【作業日誌 4/8】
薪集め、桜を倒す。Img_2643
道具収納庫作り

これみんな桜、なめ茸でも植えようかな。


 今日のじょん:被災地では救助犬というか探索犬というか、訓練された犬が活躍している。瓦礫の中で足など怪我しないのかなあと老婆心ながら心配してしまう。じょんのび村では運び込んだ木材が山積みで、ボールを探索するのが一苦労となっている。でもちゃんと探して持ってこれるので、一応ボール探索犬ということにしておこう。Img_2634

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じょんのびアラカルト ’11.4続編

2011-04-08 | 日記・エッセイ・コラム

2011.4.7(木)曇

 どーする獣害。
 昨秋の畑やじょんのび谷への侵入について、今年は対策をしなければと思っている。近隣の田んぼや畑も従前に増してワイヤメッシュの柵や電柵などで防備を始めている。農地については補助金も出るので大々的な防備が出来るのだろうが、じょんのび村についてはそういうわけにもいかない。じょんと散歩をしていると、柵がひん曲がって、電線は垂れ下がり動物が侵入している箇所があった。見ると柵の先に白い獣毛が付着している。硬い毛なので多分イノシシだろう。要するにここまで対策しても何の役にも立っていないと言うことだ。じょんのび村の獣害対策、頭の痛いところである。Img_2635 Img_2636

 



 まーくんとさっちゃん。
 いくみちゃんとこにいるニャーの名前。ねこには馴染みがないのでどんなもんかなと思って見に行くが、果たして怖がられて大騒ぎとなった。さっちゃんはまだ友好的なんだがまーくんは逃げてしまって、写真を撮ったらキャッツアイになってしまった。ジョンが行ったらもっと大変だろうな。Img_2623 Img_2624

さっちゃんとまーくん。 



椎茸三昧。
 先日新たに15本に植菌したが、三年前に植えたものが順調に生えている。冬の間は鍋物に入れて賞味したが暖かくなるとそう食べる機会がないので、乾燥椎茸とする。ホダ木の椎茸は美味いぞ。Img_2629 Img_2641

木陰のベッドで眠る新しいホダ木。最近のは乾燥椎茸に。



 じょんのびファーム続編。
 ジャガイモに続いて隣の畝にスナックエンドウの種を蒔く。その他の畝についても荒起こしをして、準備をする。昨年は桐の葉の落ち葉で腐葉土を作って肥料としたが、面倒なので今年はやってない。じょんのうんPに糠やおが屑を混ぜて発酵させ、じょん糞を作っている。それとコーヒーかすとストーブから出る灰ぐらいで良かろうかと思ってるのだが、やはり腐葉土は真剣に作らないといけないかなあ。
 荒起こしをしていたら、昨年実験的に土中に埋めた生姜が出てきた。一昨年のものは冬の間に腐ってしまったのだが、余計寒かった今冬に完全な姿で生き残ってるのは不思議である。常に積雪があったのでかえって土中は暖かかったのだろうか。鍬で切ってしまったので、ジャガイモの畝に植えておく。夏になって芽が出れば儲けものだ。Img_2626

じょん糞の埋め込み。



【作業日誌 4/7】
玉切り、薪割り
ガーデンシェッド、樋取り付け、ドア上の隙間にアクリル板取り付け。

今日のじょん:本文中に登場。

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じょんのびアラカルト ’11.4

2011-04-08 | 日記・エッセイ・コラム

2011.4.6(水)快晴

 歴史・民俗関係の記事が続いていたのでじょんのび村の様子をお知らせする機会が無かった。ここにまとめて最近の様子をお知らせしたい。
 
 畑仕事始まる。
 雪解けとともにどこの家でも田んぼや畑仕事が始まる。じょんのび村でも荒れ放題の畑の手入れにとりかかる。基本的にサーキさん、ナーオさん、ヤーダさんに戴く種や苗で賄っているので、常に戴いたときに即植え付けられるよう準備しておかねばならない。
 そうこうしているときにナーオさんからシンシア(メークインの仲間らしい)とダンシャクの種芋を戴く。イノシシの襲来を怖れて躊躇したが、網でも張って防御することとして一畝だけ植えつけることにした。実はこの畝には昨秋サーキさんから戴いたヤーコンとキクイモが植わっているのだ。イノシシに掘られたらいけないと思って深く埋めたので、一体どこに植わってるのか解らない。ままよとばかりにその上にジャガイモを植えつける。いろんなものが出てくる可能性があり、結構楽しみだ。(4月6日)Img_2628

この畝にジャガイモとヤーコンとキクイモが植わっている。 


 木彫展にゆく。
 上林が生んだ彫刻家渋谷銑一氏の木彫展にゆく。渋谷氏は専門の仏師ではなく、山仕事の傍ら自我流で木彫をやってこられ、京仏師にも認められて寺院からの仏像の製作依頼もあるそうだ。仕事柄木を知り尽くしておられることと、刃物を研ぐ技術が優れていることが素晴らしい作品の源泉なのではと思う。
 開花にはまだ早い上林禅寺(じょうりんぜんじ)で開催されたのだが、多くの参加者があり、本人にお話を聞く機会が無かった。私は仏像というのはあまり好きでないのだが、貧乏神、元三大師、寒山拾得や蛙の木彫りなども彫っておられ、充分楽しませて貰った。(4月4日)Img_2588_2 Img_2590_2 Img_2585 Img_2632

4月1日と一週間後の写真。



 今日のじょん:最近草食べて吐くことが多くなった。胃腸の調子が悪いのか、猫みたいに毛玉を吐くのか解らないけど、いけないことでは無さそうなので自由に食べさせて吐かせている。草食べた日にはうんPにも混じっているので、腸の掃除にでもなっているんだろうか。

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続・遂に発見 鉄滓

2011-04-07 | 歴史・民俗

2011.4.5(火)快晴

 能書きが多くて肝心なことを書くことが出来なかったので、引き続いて鉄滓について紹介したい。
発見したのは4月4日朝、発見場所は上林川右岸堤防念道橋西20m北側斜面溝附近である。昨年末よりイノシシによる掘り起こし被害があり、掘り起こされた岩石などを観察していたのだが、従来の斜面で発見、土や苔に覆われていた。
 この堤防は昭和28年水害(28水と呼ぶ)後に造られたものだが、表面の土砂岩石は上林川河原と同様のものである。28水までは今のような高い堤防はなく、水害時には水面は府道まで届いたということである。水が引いた後には田畑には土砂、砂利が堆積し、堤防が完成した際その土砂が使われたものと思われる。田畑にはいまだにその時の砂利、小石が多く、耕作されている所は堤防沿いに多くの小石が集めて捨てられている。こういった情況から、この鉄滓は元々この地にあったとは考えられず、28水の際に上流から流されてきたものと考えるべきだろう。Img_2611
 
発見はこの左下斜面。


 さてこの鉄滓と思われる小石について考察してみたい。大きさは縦横5cm程度の板状で色は灰褐色、表面に大小の気泡の跡と思われる小穴や溝状の穴がある。比重は測っていないが、軽石のように軽くはなく、鉱石のように特に重くは感じられない。磁性は弱く、フェライト磁石ではほとんど反応しない、ネオジム磁石でようやく付着する程度だ。一部鉄の結晶と思われるものが付着している箇所があり、茶色の錆が生じている。この部分の磁性は強力だ。Img_2614
 
昨日の写真の反対側、右下に鉄の結晶がある。


 鉄滓であるか否かはインターネットで画像を検索して比較したわけだが、色合い、形状、気泡跡の様子など考慮して、本物だろうと判断したわけである。このグーグル検索画面で島根県邑南町で採取されたものなどはうり二つである。
 ただしこの検索画面は要注意である。3月24日に紹介した鉄滓もどきの石について同様の写真が掲載されていたので、「やはりあれも鉄滓だったのか」とドキドキしながら詳細を見ると、「晴徨雨読」につながった。なーんだこのブログが紹介されていたのか。鉄滓の文字と画像があれば自動的に紹介されるようだ。つまり「鉄滓でない」と書いても紹介されるので要注意である。
 今回のものは間違いないと思うのだが、これが古代のものかどうかは別問題である。畑口川流域清水の鋳物遺跡から流れてきたものである可能性もある。そうなるとそう古い時代のものとはならない。このことについては後日記すことにして、念道以奥にたたらがあったということは証明される事だし、近世のものであったとしても古代にたたら製鉄が存在したという可能性は考えられるものだろう。

今日のじょん:今日はじょん君一日お留守番していたので様子がわからない。結構気が張って疲れたみたい。おとーとおかーは京都行ってやした。もう桜咲いてんだぜ、驚き。Img_2618

 

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遂に発見、鉄滓 4/4

2011-04-06 | 歴史・民俗

2011.4.4(月)晴

 上林谷が古代の産鉄の谷であることを地名や神社、民俗習慣や伝説などから模索し続けている。しかし常に不安に思っていることは、いくら状況証拠を集めても産鉄がなされていたという証明にはならないということだ。最終的には物的証拠を見つけないことには徒労に帰すのではという不安である。
 では物的証拠とはなんだろう。最も決定的なものはたたら跡であろう。これは動かしがたい証拠であり、その場所も確定できるし、年代も科学的な方法で測定可能だろう。次が鉄滓や羽口などのたたらに付属する遺物である。鉄滓というのはカナクソと呼ばれるもので、文字通りたたら製鉄の際にできる滓である。羽口というのはふいごから空気を送るところの吹き出し口のことである。
 こういうものを発見するということはやみくもに探しても見つかるものではない。いろんな状況証拠からおおまかな地域を特定し、たたらの位置を予想しなければならない。自然の風を使ういわゆる野たたらならそれなりの風の吹くところ、また一般に南東向きの斜面などと条件がある。そして砂鉄八里に炭三里といって、近くに豊富な
山林資源を必要としている。大炭の材料は松、栗、槇が良質と言われているのでそれらが見あたらないところが、たたら場の候補とも言えよう。
 それにしても発見は困難だろう、ひょっとしたら一生かかっても無理かもしれない。そこで一昨年から河原で鉱石探しをすることにした。磁石を片手にやみくもに石にあてて反応するものを探すのだ。そうするとあるはあるは、種類は五種類ぐらいだけど、数は無数にある。これ等が砕かれて砂鉄になるのかなあ、あるいはそのままたたらに使えるのかもしれない。中には鉄と同じぐらい磁石に反応するものもある。これ等を集めて実際にたたら製鉄をしてみたら、ひとつの証拠になるかもしれない。
 もう一つは各地の砂を採取して、砂鉄の割合を出してみることである。この作業は進んでいないが、各谷の割合を出してみれば有力候補が出てくるかもしれない。
 そんな観察を毎朝していたところ、意外にも念道の堤防で鉄滓を発見したのだ。Img_2613 つづく

【作業日誌 4/4】
じゃがいも植え付け準備

今日のじょん:おとーが河原や堤防で鉱石探ししている間じーっと待っている。発見した鉄滓はじょんと念道橋の間、堤防の左斜面である。Img_2607
 

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峠越し文化論 4/3

2011-04-05 | 歴史・民俗

2011.4.3(日)曇

 奥上林村誌に「上林のはじめ」という興味ある文がある。口上林、中上林の人びとは川沿いに下流から開けていったといい、奥上林の人は大唐内、古和木など山から開けていったという内容である。身びいき所びいきの感情から発するものといいながら、君尾山、古和木権現、大唐内の薬師さんなどを引き合いに出して、やれ山からだ、やれ川からだと論じている。最初に読んだときには面白い論争だなあというぐらいにしか思わなかったが、いまだにそのことを論じる方がおられることをみると、上林の知識人の間で過去にそういう論争があったのかも知れない。
 この件について中上林村誌には次のようにある。
「文化の伝導経路として普通丹後凾石附近に住んでいた古代人が由良川をさかのぼってきて文化を開いたものと考えられるが、舞鶴や福井方面から原始人が入り込んで来る事は全然なかったかどうか、これ等は現在の所では解明されていない。」
 丹後凾石(はこいし)とは京丹後市久美浜町にある箱石のことをさすのだろう。函石浜遺物包含地といって縄文から室町に至る遺物が出土している広大な遺跡がある。その箱石から古代人が文化を運んできたとか、原始人が云々とか随分乱暴な文面ではあるが、文化がどのようにして上林谷に入ってきたかという思いは誰にもあったようだ。
 どうでも良いようなそのことが、いま大変重要なことであることに気づいた。書いたものが残っていない古代の姿を探究するとき、文化の流入経路というのは大変大きな意味を持つ。大唐内の歴史や民俗を調べはじめて、そのルーツが若狭にあることがよくわかる。例えば言葉なども若狭訛であるし、南方海洋民族の流れを汲むだろう杜の文化などもそうだろう。薬師堂の土印の風習も同様のものがニソの杜で有名な大島にあるようだ。つまりこれ等の文化は由良川から上林川を遡って到達したというよりは若狭から直接、日置峠、猪鼻峠を経由して、あるいは黒部(くろぶ)与保呂(よほろ)から胡麻峠を経由して流入したものだろう。常々そう思っていたところ、「北山の峠」(中巻)で金久昌業氏が胡麻峠のところでまるっきり同じことを書いておられ、感激した次第である。つづくImg_1732

大唐内から胡麻峠方面


【作業日誌 4/3】
畑種蒔き準備

今日のじょん:ジロやんにダニが着いてたでという情報、いやはやこんなに寒くてもしっかりダニは出てくるんだ。2日前にフロントラインをしたので一応安心なんだが、なんとなくやだもんね。じょんのび村に遊びに来るワンちゃんは必ずフロントラインすること、そーでないとえらい目にあうことになるぞ。Img_2565


そろそろ草のびてきたぞい。

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続・大野 4/2

2011-04-04 | 歴史・民俗

2011.4.2(土)曇

 手元に「日本地名ルーツ辞典」という辞典がある。福井県、岐阜県、大分県の大野について掲載されているが、いずれも文字通り大きい野であるという説明だ。大小は相対的なものだから一概に言えないが、それだけに大きい野原だから大野だというのは納得いかない。柳田国男も「地名の研究」の中で、上記三つの大野について、「そうして今風の大きな野はないのであって、これを平地に接した山の側面、麓つづきぐらいに解しなければ意味がとれないのみか云々」と書いている。
また、山間の狭隘な地に大野がいくらでもあることをどのように説明するのか、私はこのことを常々考えてきた。
 前回紹介したオオ氏に由来する地名もいくつかあるようだ。於部郷、多、意宇郡、飫富郷、於保などなどの地名があるが極一部の地名であり、無数にある大野には直接繋がらないようだ。
 そんな時先日読んだ「京都北山を歩く(3)」(雨読2011,2,26参照)のなかで著者澤潔氏は美山町の大野について、「もともと大野といわれるほどのさして大きな野ではないのだが」と書いておられ、次の文章を書いておられる。私はこの文をうまく理解できないので、原文のまま紹介しよう。
 大野という地名は各地にあるが、出雲族との係わりのある処があって要注意の地名である。大字樫原にある大原神社の境内社川上社にスサノオ命を祀っているのが気にかかる。拙著『丹後半島の旅』(上)の大野(いま丹後大宮町)のところでも述べたが、スサノオに係わる出雲族の源流を規定するのはむずかしい。しかしその主流をなすものを、新羅系や高句麗系の北方渡来人と南方海人族との混血による氏族と考えるのは、そう突飛なことではあるまい。」
 そしてこの出雲族の主流がオウ族であり、出雲東部の意宇川(おうがわ)の流域を拠点として熊野大神を奉斎した、というのだ。
 さてここでいうオオ族が産鉄族オオ氏と同じものなのか、今一度「東国の古代・産鉄族オオ氏の軌跡」を読み直さなければならないが、このなかにはあまり出雲というのは出てこなかったように憶えている。Img_0272
 
大野ダム。ダムが出来て道路など整備されたことと思うが、それ以前の湖底の地域は谷の深い、山里であったろうと想像している。


 いずれにしても大野、大原が単純に大きな野原とは言えないようだ。
 大原と樫原、大野の関係は大原に由良川から直接文化が導入されたことを思わせる。大原神社が樫原から大原に移った理由は何だろう。古代の氏族、あるいはその末裔が移動し同時にまたは後日祭神が移動したと考えることはできないだろうか。そうなると澤氏が「西丹波秘境の旅」で言われているように、大原の文化が由良川から土師川、川合川を遡って大原に到着したとは言えない。由良川から大簾川を遡り、直接大原に導入されたのではないだろうか。峠越し文化論である。

【作業日誌 3/2】
ガーデンシェッド、フラワーポット掛け、ドア飾り物取り付け
薪整理Img_2587

ミスターウーノがダンプで雑木を持ってきてくれた。


今日のじょん:東北の地震から日がたつにつれて動物ネタのニュースが流れるようになってきた。がれきの中から救出されたり、漂流していたところを救出されたり、保護先で飼い主と再会したり、涙を誘うものばかりである。ペットショップの方が100匹以上の被災犬を預かっているニュースがあったが、食料などはどうしているのかなと心配になる。人に対する義援金はあってもペットに対する義援金はないもんなあ。普段大儲けしているペット関連会社も食料の支援しろよなあ。

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人間万事マキタのチエンソー 4/1

2011-04-02 | 日記・エッセイ・コラム

2011.4.1(金)快晴

 今日も木樵に出かける。今年6回目の山行き。使ってるチエンソーはマキタのME333なるもので、ホームセンターの展示品を破格値段で買ったものである。排気量33cc、バー長350mmというところで、およそ硬いクヌギの大木を倒したり挽いたりするものではないらしい。それをここ3年の間に数十本のクヌギの大木を倒し、玉切りも合わせると数百回切ってるわけだから無理もあろうかと思う。Img_2582
 そう先日からどうもエンジンの調子が悪い。かかりも吹き上がりも問題ないのだが、負荷を掛けるとブスブスと止まってしまう。バーの先端を下げているときはまだましだが、先端を上げると止まってしまう。燃料系統の故障かなと思い、農協に修理に出すことにする。本日使用する予備のチエンソーと2台持って家を出る。九時を回っているのだが農協のカーテンが降りたままだ。おかしいなあ休日でもないのに、、と思いつつ帰りにでもよればいいかと山に行く。
 山では予備のグリーンのチエンソーを使って作業する。倒した木を一回切って、周りの枝を処理していると、ガシャンと音を立ててチエンがはずれた。マキタの方は整備していたのだが、こちらは前回使ったままで持ってきてしまったのだ。それを小枝だけにねじって刃を入れたものだからはずれたようだ。別に損傷はないようだから、チエンをはめると問題ない。反省をしながらスパナを取りだしバーを外しにかかるが、スパナのサイズがまるで合わない。スパナはマキタの付属のもので、グリーンのチエンソーはかなり古いタイプらしい。参ったナーといいながらチエンソーを使わない作業を続ける。Img_2584_2
 ここで修理に出せなかったチエンソーがあるのに気付く。調子悪くてもだましだまし作業できるかなあと使い始めると、これがまた、俄然調子が良いのだ。結局普通どおりに作業して帰ったのだが、農協はやはり閉まっていた。といっても修理に出す必要は無くなっていたのだが、、、、。
 てなわけでたかがチエンソーで、一体ツキがあるのかついてないのかよく解らない
塞翁が馬のような不思議な一日だった。

【作業日誌 4/1】
木樵

今日のじょん:かみさんの腰の調子がよろしくないので、じょんのシャンプーをする。おとんぼパンの焼ける日なのでじょんを連れて行くと、サーキさんも来ていた。じょんも降ろしてやろうとするとちっとも降りない。押しても引いても降りないので、諦めて帰る。ところが家に帰っても降りないのだ。おかしいなあと思って反対側のドアから降ろすとすんなり降りる。そういえば乗せるときも運転席側からは乗らないので反対側から乗せたのだ。神経質というか律儀な犬だこと。Img_2581


こちらからは乗り降りできないのだワン。  

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雨読 京都北山を歩く(2) 3/31

2011-04-02 | 雨読

2011.3.31(木)快晴

 「京都北山を歩く(2)」澤潔著、ナカニシヤ出版、定価1,900円、1990年5月初版
同書の(3)号は2月26日に雨読コーナーでお知らせ済みである。ちなみに(3)は由良川水系と大堰川水系の一部の山と山里を紹介している。(2)は大堰川水系について紹介している。どちらも初版を購入して読了した後、20年近くたって再度読んでいるわけだ。Img_2586 前回にも書いたのだが、この本を読む目的は当初とは随分違っている。当初は山や村の地名や民俗歴史にはあまり興味がなかった。それでも山行記録や自分で発行していたMTBでの記録には、山名や峠名の由来などを書いていたようだ。そして例えば愛宕山や綿子池がはかない処ということや、衣懸坂が葬送の地ではないかというようなことも書いていたので、それは本書からの知識と言うことだったのだろう。
 特に周山街道から黒田、そして芹生峠、花脊峠、久多峠、左々里峠に抜ける道は京都の自転車好きの者にとっては恰好のトレーニングコースで、毎週毎週走ったものである。Img_0252

何がいいって信号が無くて、坂があること。


 著者の澤先生についても知らなかったのだが、1986年から京都民報に「北山の地名点描」という記事を連載されていたそうだ。そういったものが本書のベースになったのだろうが、実によく書かれた書である。というと以前に紹介した「西丹波秘境の旅」(2011.1.8参照)で随分辛辣なことを書いたので矛盾すると思われるかもしれないが、少なくとも「北山を歩く」は詳しく研究された内容とともに文学的な要素もあいまって素晴らしい書だと思う。学校の先生らしい展開というのが、「西丹波秘境の旅」では鼻についたが、本書では好きな先生の面白い授業を受けているような感じで読み進められる。
 私の執筆中の「大唐内のこと」にも参考になったこと柄が多くある。例えば弓削の甲賀三郎伝説や谷を「ダン、タン」というのは高句麗系かもしれないということなどである。
また、オウ地名についても私が最近書いていたら、とっくに「幽界と流人の島々を行く」という上下二巻の本を出しておられた。これはちと高価なので読んでいないが、いつか読んでみたいものだ。

【作業日誌 3/31】Img_2584
ソーチエン固定台作製 
ソーチエン研ぎ
薪割り
畑荒起こし

今日のじょん:ユキちゃんが遊びに来た。ジローも仲良いけどやっぱりユキちゃんが一番やな。Img_2577

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