晴徨雨読

晴れた日は自転車で彷徨い、雨の日は本を読む。こんな旅をしたときに始めたブログです。

上林たんけん隊 蒼島(2) 7/16

2014-07-16 | 上林たんけん隊

2014.7.16(水)曇り

 この夏の探検は伊根町の青島と小浜市加斗の蒼島に渡ることを目標にしていた。それは谷川健一氏の「常世論」を読んだ時に見開きにつづく白黒の古めかしい写真を見つけたからだ。その時は図書館で借りて読んだのだが、内容が奥深いので改めて購入した。そして手元でぱらぱらとページを繰っているが、なぜこの二つの島の写真が載せてあるのか不可解な気持ちになっている。特に蒼島については「越の海」の中で、ありきたりのことを数行書かれているだけなのだ。
 
蒼島は江戸時代には青島と書いた。そこにはシイなどが茂っているが、ナタオレノ木という硬い材質の熱帯樹が茂っている。
 
江戸時代の地誌には、島腹に洞窟があって小舟が出入りするとあるが、その中に何があるか調査の必要は残されている。
 とまあこれだけの文なんだが、なんとなく氏の言わんとしたいことが解るような気もする。それには「常世論」を再度熟読することも必要だが、まずその地を踏んでみることが肝要かと考えた。
 どちらの島も無人島で通う船もない。青島にはプーさんの釣り船で、蒼島にはキョー子ちゃんのシーカヤックで連れて行ってもらう段取りをつけた。
 ところが青島は上陸すると叱られることがあるようなので断念、伊根湾めぐりの観光船で眺めることとした。
 蒼島は29日に決行する予定で、4日に下見に行った。P1030329
P1030332P1030330  


蒼島と出艇予定地、全体でこんな感じ。(7月4日)

 島までは2Kmも無いくらい、島の南側に赤い鳥居が見えて、そのあたりに小さな砂浜が見える。上陸できるのはその辺りだけみたいだ。問題は出艇場所だ、現在は島のとい面の浜で問題ないが、シャワーやトイレが常設されて海水浴場になっていそうだ。29日といえば最盛期でかなりひんしゅくをかいそうだ。キョーコちゃんにその旨伝えると、9月のウィークデイにしましょうと快く変更してくれた。つづく

【作業日誌 7/16】
ノウゼンカズラの杭立て、矢筈ススキ植え付け、草引き

 【今日のじょん】あんまり夜中に吠えるので、窓を全部閉めてみた。そしたら吠えないのよね。どーやら音や気配に反応しているようだ。夜中に吠えないと昼間の行動が活発、眠ソーにしていないのだ。
P1030372   

 夜起きててると眠いのだわおん。

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上林たんけん隊 蒼島(1) 7/15

2014-07-16 | 上林たんけん隊

2014.7.15(火)晴

  芳しくなかった天気予報がだんだん良くなってきて、今朝は霧の出る好天の兆しだ。
 「どうぞお詣りしてください。9時にマリーナの桟橋の所から船が出ます」
 簡単にOKが出たが、果たしてどのようなものなのか、どんな人が来られるのか何となく不安なものだ。桟橋のところで待っていると礼服にネクタイの宮役さんや神主さんが集まってくる、簡単に挨拶して漁船に乗り込む。
 泳いでも渡れそうなつい目先のこの蒼島に今こうして渡ろうとしていることがこれほどまでに感動することなのだろうか。
P1030386
 

 
松原の海岸に車を置きマリーナの桟橋に急ぐ、蒼島の幻想的な姿
 青島の地を踏んでみたい、蒼島の森の中を見てみたいという願望があったにもかかわらず、なかなか実現できそうにもなかった。それがひょんな事で実現してしまった。
 今自分が蒼島に向かう船の中にいることが不思議な感がする。これは現実だろうかとまで思うのだが、あこがれの蒼島は現実にだんだん近づいてくる。
P1030388 P1030389
 


 鳥居のところの簡単な桟橋に着くのかと思いきや、船は船首を右に向けて島の外周を左廻りに進んでいく。これが参拝者へのサービスなのか、祭礼の儀式の一つなのか解らないが、東側の洞窟や北側の岸壁などいずれまた自分自身で見に来なければいけないなと思っていたのでこれは幸いである。
P1030390 P1030391
P1030392


蒼島東側

 蒼島は南側の小さな砂浜を除き岸壁となっている。加斗の海岸から見ると円い島のように見えるが、実は縦長で北に行くほど低くなっている。北の岬の付け根部分に同門が開いており、西側に突き抜けている。これは谷川健一氏が江戸時代の地誌にある洞窟としたもので、調査の必要があると書いておられるが、調査の必要はなさそうである。いずれにしても谷川氏は蒼島を訪れることなく、他界された。
P1030398 P1030400
P1030401


島の北を廻り、西側を見て一周する。
 やがて船は島を一周して南側の桟橋の所に帰ってきた。いよいよ上陸である。ここに来るまで紆余曲折があった。つづく


【今日のじょん】ジローがだいぶん弱ってきたという知らせで、今生の別れとなるかも知れないので見舞いに行く。思えば6年前、最初に友達になってくれたのは、まりいとジローである。まりいはすでに高齢ですぐに亡くなったが、ジローは行ったり来たりよく遊んでもらった。
P1030447 P1030450

 

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穴虫考(94) 香芝市穴虫ー16 7/14

2014-07-15 | 地名・山名考

2014.7.14(月)曇り

 威奈大村蔵骨器が埋葬されたのは慶雲4年、707年で、発見されたのは明和年間(1770年以前)のことである。出土地は「穴虫山」とされており、発見時には穴虫の地名が存在する。この穴虫山というのは僧義端(1732-1803)らの考証により、当時の狛井山であり、狛井山は村人も知るところがなくて、道場山だと推測した。道場山とは現在のゴボ山(御坊山)のことなので、ここが発見地とされる説が有力である。
 墓誌銘には、大倭国木下群山君里狛井山崗に帰葬されたとある。つまり発見時には穴虫地名があるのだが、埋葬時には穴虫地名は無かったと言える。
 この火葬墓こそが穴虫地名の由来であると考え、香芝市の穴虫を訪ねたのだが、この時代の火葬墓が穴虫地名とは関連しないことが解った。
 では穴虫という地名はいつの時点に発生したのだろう。8世紀以降17世紀以前ということになる。資料を探ればある程度近づけるかも知れないが、発生の時期を見つけるより、なぜ穴虫という地名がついたかを考える事が重要である。
P1030206
 

大坂山口神社の参道鳥居の右(東)が穴虫東、左が穴虫西のようだ。
 そして本来の穴虫の位置を探すことも必要だ。現在の穴虫の範囲は広すぎる。大和国条理復元図には小字が網羅されているが、大字穴虫の中に小字穴虫を見つける事は出来なかった。しかし時間の都合で大字穴虫のすべてをチェックし切れていないのが悔やまれる。複写も制限されているのですべてを見ることは出来なかった。次回訪問時の課題としておこう。
 やむなく本来の穴虫の位置を想像するのだが、すでに述べたように穴虫東、穴虫西のあたりと考えている。東西を付ける地名は昨今の流行だが、地名辞典の近世穴虫村の項に「枝郷の馬場は穴虫東と通称」とある。昨日今日についた東西ではないようだ。
 東西の穴虫は別所ヶ谷あるいはゴボ山で東西に分かれているようで、安遊寺、真善寺とそれぞれ寺院もあり、共同墓地もそれぞれにあるようだ。墓山と言うのが穴虫東にあり、八日山というのが穴虫西にある。八日山とはハカヤマと読めるではないか。穴虫山が現在のゴボ山であろうという考証と東西穴虫の存在から、東西の穴虫こそ本来の穴虫ではないだろうか。つづく

【作業日誌 7/14】草刈り(畑、東側南側ガーデン)

 【今日のじょん】夕べも思い切り吠えまくった。2時頃はじょんのび谷でミシミシバキバキと何者かがのし歩く音がする。ライトを当てると音は止まり、消すとまた動き出す。鹿は強引な歩きはしない、猪は今年は出現が少ない。となると、、、、、てなことで必死で姿を追うが木々が茂っているため姿を現さない。本の一瞬ライトの光に目が光り、影が映る。う~む形は鹿なんだが、、、。
 次は4時頃、ベランダのセンサーライトが点灯する。何も姿は見えない。朝じょんと確認に廻るが、トマトが2個食い荒らされていた。防鳥ネット張ってるノニだぜ。P1030379 P1030382



じょんの朝は獣確認で始まる、右の写真は散歩中にイタチだかテンだかがいて大騒ぎ。

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穴虫考(93) 香芝市穴虫-15 7/13

2014-07-13 | 地名・山名考

2014.7.13(日)雨

 角川日本地名大辞典には穴虫<香芝町>、〔近世〕穴虫村、〔近代〕穴虫、穴虫峠<香芝町>四項目の記述がある。しかしそのどこにも古代に穴虫という地名があったとは書かれていない。
 穴虫は古くは大坂と呼ばれていたとあり、穴虫越も大坂道、大坂越と呼ばれていたようだ。穴虫の初見は「寛文郷帳」で穴蒸村と見える。寛文年間は1661~1673年だから近世のことだが、地名はそれ以前からあったのだろう。
 「大和志」に「穴蒸越石川郡界至狐井云々」とあるが、亨保年間に完成したものだからこれもやはり近世のことである。穴蒸越の地名由来についても、三方を山に囲まれた形状からきたものか、と書いており穴虫の由来と同様に書いている。
 わたしは穴虫は古代地名だと思い込んでいた。そして古代地名であることを前提に考察を重ねてきた。
 穴虫はここ香芝市を始め各地とも古代の歴史上重要な位置にある。国府や国分寺の近く、古代製鉄遺跡の近く、由緒ある神社の近く、古代主要街道の近くに存在し、古代葬送の地あるいは古代の葬地とおぼしき位置にある様に思えるのだ。こういったことが古代地名と決め付けた理由だが、少なくとも香芝市穴虫は古代に存在したという証拠は見当たらない。
P1030203
 

二上山の麓に歴代の天皇や官人が葬られた頃、穴虫という地名は無かった。穴虫越は大坂越と呼ばれていた。

 穴虫研究の発端となった「大和の原像」(小川光三)には穴虫地名の由来を万葉集の歌から提起していたのを思い出す。万葉集にアナムシが詠まれていたら、それは古代地名と言えるからだ。
 
大穴道(おおなむち) 少御神(すくなみかみ)作らしし
  妹勢の山を みらくもよしも  
柿本人麿

 妹勢の山を二上山としているが、その理由は、「二つ並んだ山の形を仲の良い夫婦の姿と見立てて妹背の山と愛されてきた二上山云々」という小川氏の書かれた前文のようだ。
 妹背の山とはどこかという論文は数多くあり、圧倒的に多いのは紀ノ川、吉野の妹山、背山のことである。二上山としている例を見つける事が出来なくて、特に大己貴(おおなむち)、少彦名(すくなひこな)両神の関連からいっても上記の歌が二上山を指しているとは思えないのである。従ってこの大穴道が回り回って穴虫に変化するという氏の説は破綻していると考える。
 
大坂を わが越え来れば 二上に
  もみじ葉流る しぐれ降りつつ
(万葉集 巻十)
 並記されているこの歌こそ、穴虫(大坂)の古代のよみをあらわにしていると思われるのである。つづく
【今日のじょん】
P1030378


 昨日撮った写真だが、見て欲しいのはポストの台に開いた虫穴である。表だけでも20個はあろうか、すべてタマムシの巣立った跡である。次の写真は巣立ったタマムシが産卵をしているところ、お尻から針を出して産卵している。
P1030351


 孵った幼虫は3年間をこの木の中で過ごすそうだが、3年以内に燃料となるので、困ったものだ。ポストの台は提供するから、あそこに産み付けて欲しいのだが、、、、。

  

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穴虫考(92) 香芝市穴虫ー14 7/12

2014-07-13 | 地名・山名考

2014.7.12(土)晴れ 穴虫考(91)は2014.7.4

 今までに見てきた各地の穴虫はすべて小字地名、もしくは池などについた地名で角川日本地名大辞典にその内容が記されているのは大字である香芝市の穴虫だけである。
 そしてこの辞典の中に書かれている二点について考察してみよう。
 一つは、「穴虫<香芝町> 竹田川上流、二上山北方の渓谷に位置する。地名は穴に伏す低地という地形に由来すると思われる。」という一文である。
 権威のある辞書なのだが何とも軽薄な文章だろう。まず穴虫の位置なのだが、この文からすると穴虫は穴虫交差点から穴虫峠に至る竹田川の源流部分をのみ指すようだ。穴虫交差点から下流は決して渓谷とは言えないからだ。穴虫という大字はこの渓谷部分だけでなく、その東に相当広い地域である。
P1030205 


渓谷と言えるのは穴虫交差点から穴虫峠に至る部分のみである。写真は穴虫交差点、峠は山影の谷の部分。
 もう一点は、「穴に伏す低地」という地名の由来である。低地を表現するのに「穴に伏す」というだろうか。穴に伏す低地というのは一体どのような地形なのだろうか。両岸が切り立った穴の底に伏しているような感じというのは理解できないでもない。しかしそれが地形地名だとすると、数多くある穴虫の説明がつかない。確かに穴虫は山上や丘の上など高いところには存在していない。どちらかと言えば低いところに存在しているのだが、必ずしも穴の底のような地形ではない。最も多いのが狭い峡谷を降ってきて、平野に出るところの扇状地状のところであって、亀岡市河原林町や草津市馬場町のように川沿いの平野部に在るケースもある。
 従ってこの辞書の地名考証は、アナフシ→アナムシという転訛を想定した上でのこじつけとしか思えない。
 むしろ前回に「穴蒸し」を「穴の中の火葬」と無理矢理考えたが、「穴伏し」を「穴の中の土葬」と考えたらどうだろう。
 いずれも信憑性は薄いが、今後の調査によって浮上する可能性もなきにしもあらずというところか。
 実は穴伏、穴節という地名に憶えがある。日吉町の地名を探っていた時に、田原川沿いに穴伏が、木住川沿いに穴節がある。どちらも川沿いであり、穴淵の転訛ではないかと考えている。田原川には口虫谷、奥虫谷があり、海老坂峠には八百比丘尼伝説の残る玉岩地蔵があり、和田の地名からも若狭海人との繋がりも感じられる。
 しかしこれらの他に地名辞典で気付いた重大なことがもう一つある。
つづく
【作業日誌 7/12】
草刈り(ドッグランど、芝生広場)

【今日のじょん】昨晩はキツネの鳴き声がしていた。朝になると例の場所に足跡と掘った跡がある。しかしキツネが畑を掘って虫を食うもんだろうか。なんとか現場を押さえたいものだ。P1030376 P1030374

じょんは相変わらず知らん顔

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雨読 二上山-3 7/11

2014-07-11 | 雨読

2014.7.11(金)曇り

 「二上山」の本題は今まで書いてきたことでなく、古代の葬送儀礼である。第二章以下、「哭く(なく)」ということ、「誄(しのびごと)」という儀礼、葬送の歌「挽歌(ばんか)の流れというふうに時代をおった葬送儀礼が述べられる。実は古代の葬送儀礼については他の書物で幾度となく読んでいるのだが、それらはすべて退屈で記憶に残らない文章だった。
 ところが本書の場合は、飛鳥から二上山周辺のいわゆる竹内街道の村々、哭沢(なきさわ)、四分(よぶ)、笛吹、笛堂(ふえど)、柿本、當麻(たいま)、東条(ひがんじょう)や柿本人麿、當麻氏、笛吹氏、行基、恵心僧都などの人物と相呼応して書かれているので実に理解しやすい。ここのところが本書の優れた部分だと思う。研究書や論文といったものは筆者本人は理解していても読者にはちっとも解らないものが多い。本書のように理解し安く書かれたものは書物を手に入れた甲斐があったものと満足する。
 第7章「死者の伝記」は死者がこの世に残す墓誌銘、その中に「傳(でん)」と呼ばれる特殊な文章に付いて書かれている。本書のあらかたは、葬送の道竹内街道周辺を舞台として書かれているが、この章にはその北方にある穴虫越が主役である。現在の穴虫から発見された、国宝威奈大村蔵骨器について書かれているわけだが、この章こそがわたしを二上山へ向かわせるきっかけとなった。(訪問したのは穴虫周辺で詳しくは「穴虫考」の中に記載している)
P1030209 P1030219
 


香芝市穴虫のゴボ山、この辺りで発見されたという。写真はレプリカ

 そして第8章以降「當麻寺の謎」「當麻曼荼羅の語るもの」とつづくのだが、ただ名前だけは知っていた當麻寺について、葬送儀礼の歴史からみると重要で興味深い存在であることに気付く。
 このように読み終えて、多くのことを知ったというより、多くのことを理解したといえる貴重な一冊であった。おわり

 【今日のじょん】休みの日はちょい遠散歩に行くんだけど、念道橋周辺の畑を見るとさびしくなってくる。数年前までは近所のおばさん達が競うようにして野菜を育て、畑の世話をしておられた。こちらの野菜作りにも随分参考にさせていただいた。それが年齢のせいか知らないけどだんだん耕作されるのが少なくなってきた。立派な(?)防獣柵はできたんだけどねえ。P1030369
 
 

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雨読 二上山-2 7/10

2014-07-10 | 雨読

2014.7.10(木)雨

 「二上山」(田中比左夫)昭和47年重刷(昭和42年初版)学生社刊 古書P1030368

 


 著者の田中氏は立命館大学院で日本史を専攻され、発刊当時は大学講師など勤めながら歴史の研究をされている。
 二上山の西方に飛鳥時代の天皇の陵墓が列んでいることに驚きを感じられ、本書を書かれた。葬送儀礼の変遷、葬送の道そして當麻寺(たいまでら)に関する考察が本書の内容である。そして二上山はいつの世も人の生死を見つめてきたのだと思う。二上山の最大の事件はその山頂に大津皇子の墓が造られたことだろう。大津皇子の事件も山上の墓所も衝撃的ではあるが、それが二上山の本質ではない。二上山の本質は第一章のタイトルである「山越えの墓どころ」だと思う。生の世界である飛鳥の地を真西に向かい、二上山を越えた地が死の世界、黄泉の国であるということだ。
 なぜこういう構図になるのか、本書の中にも随所にヒントは出てくるのだが、もちろん真相は分からない。
 わたしはその時代時代の他界観が根底にあるのでは無いかと思う。沖縄におけるニライカナイは生まれ来るのも死に行くのも海の彼方である。内陸である大和では西方の山の向こうと考えるのは自然なのではないだろうか。二上山は飛鳥の真西にあり、その特徴的な山容に夕日が沈む光景を見たら、そのむこうにあの世があると考えるのもまた自然だと思う。
P1030187
 

檜原神社から見ると、春分秋分の落日はこの穴虫峠に落ち、磯城瑞籬宮からは二上山雄岳雌岳の間のコルに落ちるという。(大和の原像)
 二上山をめぐる穴虫越、竹内越は大和川をめぐる竜田越などとともに河内から大和に文化の波が流入してくる道でもあるのだ。ニライカナイに似た古代人の他界観が感じられる。ただこれらの墳墓が造られた時代は仏教が入ってきて定着する時代でもある。西方浄土などの仏教的な考え方も影響があったかも知れない。墳墓の地は二上山西方だけでなく、泊瀬の山、檜隅の地、佐保の地など時代より変遷する。そこにはその時代の他界観が根底にあるのだろうが、墓陵を造営する政権に最も近い豪族の動向など現実的な要因も多分にあるのではないかと思うのである。
 ちなみに二上山の西にある著名な陵は推古天皇陵、孝徳天皇陵、敏達天皇陵、用明天皇陵などであり、聖徳太子墓、小野妹子墓の他に蘇我馬子の墓と伝えられるものもある。つづく

【作業日誌 7/10】薪割り
【今日のじょん】蒸し暑いが続いているので、窓はあけがちだ。ところが外の物音や臭いが入ってくるのでじょんが吠えまくり。本当に出てくる猪や鹿ならいいのだけど、虫でも鳥でも近所の物音でも何でもありだから困る。
 先におとーが気がついて懐中電灯を照らしてみたら、ネットのむこうに鹿の親子連れが三頭こちらを窺っている。なんとか追い返したが、その時はじょんはずっと寝ている。ここ一番にヒットの出ないF留みたいなやつだ。 まあそれでも本人、いや本犬は一所懸命頑張っているのだろう。忍々。
P1030367   
ここに三頭居たんだぜ。
 

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雨読 二上山-1 7/9

2014-07-09 | 雨読

2014.7.9(水)曇り

 二上山はもともとは「ふたがみやま」とよんだのだろうが、山名や地名は「にじょうさん」となっている。わたしはなぜか「ふたがみやま」と呼びたい。二上山は「大和の原像」(小川光三)「知られざる古代」(水谷慶一)などですっかりおなじみの山であり、古代の葬送という意味では最も著名な山である。雄岳、雌岳のなす特徴的ならくだの瘤のような容姿は大和側からも河内側からも望めるようだ。実は大和側近鉄沿線には1年半通勤したし、河内側だってあらゆる機会に行ったことがある。しかし二上山のあの特異な曲線は記憶に残っていないのだ。網膜には必ず映っているはずなんだけど、大脳のセンサーは感知していないし、メモリーに残ることもない。人間の感知機能なんてそういうものなのだろう。
 それが30余年ぶりに乗った近鉄特急の窓から、西の山稜に見つけたあのラクダ瘤のカーブは初恋の人に巡り会ったような、懐かしくも嬉しい景色に映るのだ。一番いいアングルで写真に収めたいと思いつつ、麓まで来てしまうとあのカーブは消えて普通の山に変わってしまう。
P1030188


大和高田バイパス穴虫交差点近くで二上山方面を撮ったのだが、一体なんだか解らない。
 帰りの電車に乗ってから写真のことを思い出す。走る電車の中でいいアングルが得られるはずもない。大和高田の辺りだろうか、車窓の中から街並みの合間に少し顔を出した二上山をとらえる。

P1030227 P1030228



いい形が見えたと思ってもシャッターを切った時には片方だけになっていた。結局二上山のシルエットが映っているのは右の写真だけである。
 何とも情けない映像だが、二上山のシルエットにこだわるのは、飛鳥の地で権勢をふるった人びとがあの山を眺めながら感慨にふけっていただろうと思うからである。つづく

【作業日誌 7/9】草刈り(ドッグランど、薪置き場付近)
 薪割り

【今日のじょん】台風の影響でやたら蒸し暑い。じょんにとって温度が高いのは応えるだろうけど湿度が高いってのはどうなんだろう。やっぱりしんどそうで、ぽんぽこぽんも動作が緩慢である。P1030348

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雨読 日本史の謎・石宝殿-2 7/8

2014-07-09 | 雨読

2014.7.8(火)曇り

 石宝殿とは刳り貫いて制作中の石造物と言ってよいのだろうか。岩盤の上から周囲を掘って彫りだしたという表現が良いのだろうか、巨大な家形を横倒しにしたような形である。巨大な上に周囲が狭い空間なので全体像がわかりにくいといわれる。実測値は最も長い背面下辺で649cmというから大体の大きさが想像できよう。
 そしてこの石造物が未完成のまま残されているということが余計謎を呼んでいる。なぜ未完成かというと、大地に接する部分が小さな一点で取り残されているからである。
 この謎の石造物が文献に出てくるのは、播磨国風土記である。

 「原の南に作石あり。形、屋の如し。長さ二丈。広さ一丈五尺、高さもかくの如し、名号を大石といふ。伝えていえらく、聖徳の王の御世、弓削の大連の造れる石なり。」
 弓削の大連(ゆげのおおむらじ)は物部守屋(もののべもりや)のことで、聖徳太子とは時代も異なるわけだが、いわゆる伝承として石宝殿のことを書いていることには違いない。
 これほどまでに古くから書物に現れ絵画に現れ、あらゆる学者達が謎解きをしてきたようだが、近現代には誰も語らなくなった。それは謎が解明されたからでなく、謎が解けなくなったからではないだろうか。それよりも対象にする多くの遺跡や遺物が次から次へと発掘されて、石宝殿などかまってられないという状況になったのだろう。間壁氏がここに目をつけられたのはとてもユニークな事だと思うが、この石造物を眺めていても永久に謎は解けないものを、竜山石という古墳の石棺に用いられた石材を研究することによって石宝殿の真実に近づこうとされたことは素晴らしい着想だと思う。
 石宝殿のすぐ南にある播磨の竜山とは二上山と列んで古墳の石材の大産地なのである。大和や河内の古墳石材も時代によって二上山産、竜山産と変わっている。巨大な石造物を輸送するのには大変な労力と経費がかかるだろうに、すぐそこにあるものを使わないで遠くのものを使っているのには何か重大な理由がある。
 わたしは二上山博物館を訪れた時、その玄関先にある巨大な石棺の蓋が竜山石だと知って驚いた。
P1030226
二上山博物館前

 乙訓周辺の古墳にも竜山石が多く使われていると知り、娘に写真を撮ってきてもらった。これらの石造物が単に輸送の問題だけでなく、古墳を造営する豪族の力関係で左右するというのは納得のいく理論である。
Dsc_0482 Dsc_0483
 



長岡京市奥海印寺の寂照院境内にあったという石棺の蓋。現在は埋文調査センターに保存されている。竜山石である。

 こうして石宝殿はいつの時代に、何のために、誰によって造られようとしたものかの謎解きが始まる。結果を紹介するのは本記事の本意ではない。
 わたしは一刻も早く石宝殿を見たいと思う。そして不思議なことは別々に調べてきた穴虫、別所、飯盛山、盃状穴がこの地にはまとまって存在していることである。おわり

【今日のじょん】夕べもじょんが吠えまくった。ところが物音もしないしセンサライトも点かない。朝になって点検しても異常は無い。夕方野菜の収穫をしていて気がつく。トマト、カボチャが何者かに盗られていた。なぜセンサライトが点かないのか点検したらランプが切れていた。じょんの方が確かだということだ。P1030363 P1030364

 


トマトは皮が残っているので解ったが、カボチャは座布団をしいたところなので解った。

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雨読 日本史の謎・石宝殿-1 7/7

2014-07-08 | 雨読

2014.7.7(月)雨、曇り

 日本三奇というものがある。何か解らない奇妙なものの代表と言うところだろうか。宮城県塩竈神社の鉄製大塩釜、宮崎県高千穂霧島神社の銅製天の逆鉾、そして今回の主役兵庫県高砂市生石(おうしこ)神社の石の宝殿と呼ばれるものである。日本三景と違って誰もが知っているというものでは無く、わたし自身も本書を読むまで知らなかったことである。この内訪れたとこがあるのは霧島神社のみであるが、逆鉾の事は見聞きしなかった。(逆鉾は高千穂山頂にある)また、塩竈神社の塩釜についてはすでに雨読で紹介している「鉄の文化史」(新日本製鐵編)の中で科学的に解説されている論文「塩釜と鉄」(村上正祥)に登場していた。4基の鋳鉄製塩釜が祀られているが、一体何が奇なのか解らない。鉄のばかでかい製品(直径147.6など)の製法が奇なのか、それとも用途が奇なのか。
 石の宝殿が奇なのはすぐに理解できる。御神体である500トンにも及ぶ石造物が一体何なのかが解らないのである。その謎を解こうとするのが本書である。
「日本史の謎・石宝殿」(間壁忠彦、間壁葭子)六興出版 昭和58年四刷(53年初版) 古書P1030365
P1030366 

 

見開きにある謎の巨岩、石宝殿
著者の間壁ご夫妻(と思うのだが)は倉敷考古館の館長と学芸員という肩書きである。発刊当時のことだから現在は代わられているかも知れないが、実にユニークな博物館である。展示物は個人的にコツコツ集められたもののようで、そのすべてが手書きで解りやすく説明してある。海外のものも含めいろんな分野の遺物が展示してあり一日中居ても楽しい博物館である。公開されている論文もユニークな視点で書かれているものが多く、学術論文はどうもと思われる方も、気軽に考古の世界に入り込めそうである。
Img_5385 Img_5403
 



倉敷なら誰でも訪れる地にある倉敷考古館、橋向こうの蔵の建物。
手書きの説明がとても身近に感じる。


 JR山陽本線加古川の次が宝殿駅である。これが石宝殿に由来するとは知っている方は少ないだろう。宝殿駅から1,5Kmほど西に行くと石宝殿がある。(石乃宝殿、石の宝殿とも記されるが以下石宝殿と記す)
 石宝殿を知ったのは実は穴虫地名の調査からである。姫路市大塩に穴虫があることは知っていたが、以前は穴虫は西に夕日が沈むところというような意味合いで調べていた。つまり穴虫の東には歴史的に重要な集落や施設がある理屈になる。日岡神社、日岡御陵など太陽に関係ありそうな地名の施設もあるがどうもしっくりこない。ところがもっと手前にある石宝殿というのは一体何だろうという魅力があった。つづく

【今日のじょん】鹿ネットを張り巡らして、とりあえず谷からの侵入は無くなった。ところが隣家との間の獣道は連日連夜新しい足跡がついて、盛んに通行しているらしい。ここまではっきり通行の跡が残っているのだが、その実態が解らない。鹿の足跡は川側から山側にのみついている。よく見ると府道を渡ってきているようなのだが、府道に出るまでのルートが解らない。府道では例年何匹もの鹿が交通事故に遭っている。多分府道を渡ってきているのだろうが、府道までの痕跡が無い。不思議なことだ。
P1030346 P1030347




この部分は登りの足跡ばかり、歩道の縁石に爪痕あり、川から来ているのは確かなんだが、、、。 

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雨読 穴の考古学-2 7/6

2014-07-06 | 雨読

2014.7.6(日)曇り、雨

 赤星直忠氏は明治35年生まれで、大方を小学校の教職に就きながら”穴”一筋の研究を続けてこられた。穴とは「やぐら」、「横穴」、「洞穴」と呼ばれる穴であるが、基本的に墓地、葬地である。中学生の頃から近所で発見させる布目瓦や土師器、須恵器、銅環や小玉に興味を持ち、貝塚や横穴を歩き回る様子は、「僕は考古学に鍛えられた」の森浩一氏と重なって見える。特に開発のために消えゆく遺跡の調査は、今日のように発掘に対する理解と保証が無い時代なので困難を極めたことと思われる。
P1030345
 

 横穴とは丘の斜面などに横穴を掘り、埋葬した施設のことで5~8世紀に造られ、群をなしており横穴墓群と呼ばれる例が多い。また、鎌倉周辺に多く、鎌倉時代から室町時代頃のものをやぐらと呼ぶ。
 赤星氏は横穴と横穴式石室は基本的に同一のものであって、墳墓を造る財力であったり資材などの条件の差異によって墳丘墓になったり横穴墓になったりいたものと解いている。これはどうも一般的な学説とは異なるように思うのだが、薄葬令(646年)の後に横穴墓が増加しているなどと聞くと氏の説も納得出来る部分もある。例えば形状をみれば横穴も古いものは羨道や玄室があり、中には壁画のあるものも発見されている。出土物も鉄鏃、刀子、曲玉、土器など古墳と変わりないが、質的量的に劣る感はする。これはやはり墳丘墓を造る事の出来る豪族より下層の者達の墳墓なのだろう。また決定的に違う点は、横穴の場合時代を超えて墳墓として利用されているため各時代の遺骨や遺物が層をなしていることが多いことも特徴である。また盗掘されやすい環境なので、荒らされているのも多い。
 やぐらというのは前述の通り、中世の鎌倉に限っての納骨穴で、横穴と同様山の斜面などにきられた穴であるが、鎌倉の特長である凝灰岩や泥岩の岩穴である。殆どが火葬骨の安置場所となっていて、普通一坪くらいの方形の穴である。供養塔が盛んになっており、五輪塔、宝篋印塔、板碑などが数多く発掘されている。
 氏は三浦半島周辺の海蝕洞穴を初めとした自然洞穴も数多く発掘されている。もともと弥生期の生活空間であった洞穴に埋葬をするようになり、生活に使わなくなった後も葬穴として使用されていることが証明されている。横穴の発生もこれら自然洞穴に由来する可能性は高いと思う。おわり
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離水海蝕洞、縄文海進で海岸に出来た蝕洞が海退によって海岸から離れたところに残ったもの。(鳥取市)

【作業日誌 7/6】下仁田ネギ植え替え、歩留まり2/3
P1030352


植え替えをすることによって丈夫に育つんだって、手前の育ちの悪いのは北側の畑のもの。
【今日のじょん】今日は雨模様でワンちゃんの来じょんは無いものと思っていたら、西田さん家族とじょん、すもも、さすけが来じょん、かわいいこと。P1030360 P1030359



みんなとっても人なつっこくてよいこなのだ。ドッグランどが良い季節にまた来てよネ。

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雨読 穴の考古学-1 7/5

2014-07-05 | 雨読

2014.7.5(土)曇り

 穴というのはかくも魅力的なものなのか。大学に進んだ時、探検部に入ってケイビングをするか、山岳部に入ってクライミングをするか随分迷った。ケイビングに憧れたのは、子供時分に鍾乳洞(質志鍾乳洞はまだ整備されていなかった)やマンガンの廃坑に潜り、探検気分を味わっていたからだ。結局クライミングを選んだので洞穴とは縁も無く数十年を過ごした。そんな冒険心が戻ってきたのが、自転車旅行である。最初に潜ったのは佐渡の金山で、著名な観光地である。探検とはほど遠い金山めぐりは何の感動も無かったけれど、周囲にある坑道跡は立ち入りは出来ないけれど、興味深いものがあった。
Img_0403
 

佐渡金山、道遊の割戸にも幾つかの採掘洞が見える。(2006.8.28)
 その後東北に行くと、沢山の観光鉱山がある。中には長大なものもあり、シーズンオフとて他に訪れる人は誰も居なかった。もちろん灯りは点いているものの、しずくが垂れる洞内を一人でめぐるのはなかなか迫力のある探検だった。鍾乳洞も幾つか行ったが、こちらは人が多くて興ざめである。
Img_0755

尾去沢鉱山内部(2006.9.20)



 沖縄は洞穴の宝庫である。石灰岩の洞穴はガマと呼ばれ、古代の生活跡や葬地などの遺跡も多いのだが、なんといっても沖縄戦時の防空壕や避難壕として知られることが多い。そのなかで伊平屋島のクマヤ洞窟は異色である。チャートの大岸壁の途中に開いた洞窟で、人っ子一人居ないところでこの穴に入っていくのはかなり勇気が要った。
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クマヤ洞窟の入口はこんなに狭い、天岩戸伝説も出てくるはずだ。(2007.2.21)
 伊江島のニャティア洞(千人ガマ)も誰も居ない時だったが、その前に気味の悪いところに行った後だったので平気だった。
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ニャティヤ洞は海に出る事も出来る。(2007.2.19)
その他石見銀山や吹屋などの鉱山跡など巡ったが、洞穴の魅力は何が出てくるだろうという期待感である。何があるか解っている洞穴ですらわくわくするのだから、何が出てくるか解らない未知の洞穴ならこれほど魅力的なものは無いだろう。
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石見銀山はいろんな所に間歩穴があいている。(2007.4.19)
「穴の考古学」(赤星直忠著)学生社昭和45年初刊 府立図書館借本
著者の赤星氏は遺跡としての横穴や洞穴の研究に一生をかけられた方であるが、その根底は穴の魅力だったのではないだろうか。つづく

【作業日誌 7/5】薪割り
【今日のじょん】例の何者かに掘られた畑だが、雨のためネズミ取りを取り除いたら、三度同じところを掘られた。さすがに野生動物は用心深い。しかしもし狐だったら、ネズミ取りを仕掛けるのはマズイかな。P1030342 P1030341

 

浄化槽の所も掘っている、ここは天ぷら油を撒いた所なんだが、、、。

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穴虫考(91) 香芝市穴虫-13 7/4

2014-07-04 | 地名・山名考

2014.7.4(金)曇り、雨

 穴蒸し火葬説の問題点の一つは、焼くということが蒸すと表されるかということである。国語辞典、漢和辞典、古語辞典、方言辞典、民俗学辞典、日本史辞典、語源辞典、古代地名辞典などあらゆる辞典を駆使して調べたが、焼くことが蒸すとは表現されない。
 穴虫研究を始める以前から気になっていた神社がある。丹後や越前にある大虫、小虫神社である。鉱山民俗学者を名乗る若尾五雄氏が、「焼いて蒸気化した水銀を碗で覆って滴るものをとる蒸留法であるが、その窯神のことではないか。則ち大蒸、小蒸のことだ。」(黄金と百足)と書いている。
 なんとも若尾氏らしい大胆な発想ではあるが、古代水銀の産地だけに可能性のある説かもしれない。火葬の場合も遺体を燃やしてしまうのではなく、骨を残し、その骨を大切に祀るのだから水銀の蒸留と同じように考えられまいか。
火葬を蒸すと表現するとしたら、この一点しかないだろうと思う。
 もう一つの問題点は、地方に数多く存在する穴虫についてである。八世紀に仏教の普及とともに天皇、僧、上流階級に火葬の習慣が広まったとしても、地方においてはやはり土葬が一般的であったと考えられる。国分寺や国衙の近隣では国策として火葬が行われたかも知れないが、地方の山間部に存在する穴虫が火葬場を意味するとは考えにくいのである。
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亀岡市千代川の穴虫(左)は国衙推定地、河原林の穴虫(右)は国分寺に隣接する。
 ただ、穴虫地名はそう多いものではない。何鹿郡には1ヶ所、天田郡にはまだ見つかっていない。そして桑田郡の2ヶ所は国分寺、国衙の近隣であるし、与謝郡も国分寺の近くに見つかっている。これらの近くの遺跡からカマド墳や火葬骨が出るようなら、穴蒸し火葬説も浮上してくることだろう。
 つづく

【今日のじょん】昨晩のことである、わたしが風呂に入っていると「お父さんキツネやで」とかみさんの声。センサライトが点いたので窓から外を見ると、じょんぐらいのキツネが通り過ぎたという。精悍な身体と大きな尻尾でキツネとわかったそうだ。どおりで夜な夜な現れる割には野菜畑が荒らされないわけだ。アライグマやアナグマなら胡瓜やトマトがやられるはずだから、、、。明るい時に何度も目撃されているのでキツネが生存していることも承知済みだ。ネットの画像情報で先日の糞を調べるとやはりキツネのようである。鶏など飼っていない我が家では、直接の害は起こらないがエキノコックスなどの感染が犬、人間とも不安要素になる。


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堤防の道で未熟の大きなトマトの食いさしを見つける。アライグマかアナグマかヌートリアってとこか。水嶋さんの畑は立派なネットを張られたが、しっかり破られている。畝にも足跡がこのとおり。


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穴虫考(90) 香芝市穴虫-12 7/3

2014-07-03 | 地名・山名考

2014.7.3(木)雨

 穴の中で遺体を焼くというようなことがあったのだろうか。僧道昭、持統天皇など文献に現れる初期の火葬はいわゆる荼毘(だび)であったと言われている。荼毘というのは仏教に由来する言葉で単に火葬のことを示すらしい。従って荼毘という特別な火葬方法があるわけではない。
 かつて山岳遭難の記事や書物を読んだ時には多くの遭難者が荼毘に付される場面が出てくるのだが、それは現場もしくは搬出先の山の麓で薪を集めて山積みにし、その上に遺体を置いて焼却するというものであった。現実に目にしたことはないのだが、それが荼毘であると思っていた。
 ところが現在では単に火葬という意味で、斎場で行う焼却の行為も荼毘と言うそうである。
 火葬が始まった頃の荼毘の方法として詳しい資料があるようには思えないのだが、一般的に薪を積んで遺体を乗せて燃やしていたと思われる。特段穴の中で燃やしたという文献などは無いので、穴蒸し説は成り立たないかと思った。
 ところが「穴の考古学」(赤星直忠著)を読んでいると、横穴内で発見される人骨は多くがその場での埋葬、他所での火葬、風葬、土葬による再葬であるのだが、中には穴の中で火葬に付されたものも発見されている事実があった。
 また、穴の中で火葬されているものとして、窯墳(かまふん)というものも発見されているそうである。この場合穴と言っても木材で築いた室の周囲を土で固めたものである。
 これは堺市の陶器千塚古墳群の中に発見された、窯形木心粘土槨というものでカマド塚と命名された。6世紀末から7世紀初頭のものと言われているので、僧道昭の火葬よりも以前から火葬習慣はあったということである。
 なおこの種の火葬墳墓を最初に発見されたのは森浩一氏で、その類例の分布が須恵器の生産地帯にあたるところから、この種の火葬墓を朝鮮半島渡来の須恵器工人達と結びつけて理解している、とある。(「考古学より見た日本の墓地」(白石太一郎))
 穴虫の北東、香芝市志都美周辺が須恵器の生産地であることを考えるとカマド塚→穴の中の火葬→穴蒸し→穴虫という構図が考えられないこともないが、大きな問題が二点ある。つづく

余談P1030321
 福井の農民詩人山田清吉さんの詩集「だんだんたんぼ」の中に「藁葬」(こうそう)という誌がある。字のとおり藁の着物を着せて、藁の棺、棺藁に入れ、化粧藁で包んで、藁で焼く。何ともすさまじい火葬だが、「薪はないが稲藁なら年中いっぱいある」と貧しい村の葬法を表している。火葬というのは浄土真宗の信者の多い北陸ならではのことだろう。
 ところが福岡県朝倉市の朝倉御陵山には斉明天皇御殯葬地があり、「斉明帝藁葬地」石碑があるという。藁葬というのが単に薪がないというだけなのだろうか?

【今日のじょん】P1030317
P1030318 


ネズミ取りを仕掛けたのは畝の左端、じょんは相変わらず知らん顔。
 二日続けて何者かが畑に来ているので夕べはその個所にネズミ取りシートを仕掛けた。捕獲は出来ないが、あれがくっついたら二度とは来ないだろうという思惑である。じょんは一晩中吠え続けたので楽しみにして見に行ったら、なんとシートの隣1m程のところに足跡発見。さすがに野生動物、用心深いと感心していたら、遂に正体が分かることとなった。つづく

 

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穴虫考(89) 香芝市穴虫-11 7/2

2014-07-02 | 地名・山名考

2014.7.2(水)快晴

 日本で初めての火葬は700年僧道昭、初めての天皇の火葬は702年持統天皇ということである。もちろん記録に表れない火葬というのはそれ以前からもあったようだが、歴史の表舞台ではこのようになっている。
 威奈大村が穴虫に埋葬されたのは707年なので、火葬というのがまだ一般的でない頃と思われる。
 火葬というのが仏教の影響を受けていると言われているが、仏教そのものも天皇を頂点とした国の施策として普及されたものである。同様に火葬も天皇、僧、官僚、豪族貴族といった風に国家の頂点から順次普及されたものだろう。二上山麓に古代官人の火葬墓が公に設置されたとしたら、それは国家の仏教普及施策の一環と見られる。威奈大村が本拠地の「為奈郷」でなく穴虫に埋葬されたのはそういう伏線があるのではないかと考える。
 二上山博物館で係の方に穴虫の地名由来について尋ねてみた。
「穴虫とはどういう由来でついた地名なんでしょうねえ」
「穴虫は古くは穴蒸と書かれていました。穴の中で蒸してたのでしょう」
「一体何を蒸してたのですか」
「それは食べ物とか、、、、」
確かに寛文郷帳、元禄郷帳、天保郷帳では穴蒸村と記載されているが、上記地名由来は文字にこだわった単なるこじつけにしか思えない。
 穴居生活というのは縄文時代はもちろんのこと中世にも及んでいる。穴で煮炊きをすることはどこにでも見られることで、それは地名に残るほど特徴的なことではない。ということで穴蒸し説はあり得ないと思っていた。
 ところが威奈大村の火葬墓のことを調べていると、大きな疑問が湧いてきた。一つは707年の4月24日越後城で病没、同年11月21日穴虫に帰葬とあるのだが、彼はいったいどこで火葬されたのだろうかということである。
 墓誌銘には帰葬と書かれている。帰葬というのは国語辞典で調べると、異境の地で死んだ人を故郷に戻して葬ること、異境の地で死んだ人を火葬または仮埋めして骨化したものを故郷に持ち帰って葬ることという風にある。この言葉からは遺体のまま運ばれたのか、骨化したものを運んだのか解らない。大和では普及していた火葬が越後では未知のものであったかも知れない。そう考えると威奈大村は遺体のまま穴虫に運ばれ、穴虫で火葬されたと想像できる。
 では遺体はどこで火葬されたのだろうということになる。穴虫周辺には数多くの火葬墓があったと想定されており、現在でも威奈大村骨蔵器(ゴボ山か?)穴虫古墓(穴虫シロヤマか?)高山火葬墓(高山台)などが発見されており、集中した一ヶ所の火葬場があるとしたら、大坂山口神社の辺りが中心的位置関係にあり可能性が大であると想像を膨らませているところである。P1030204
 


 
穴虫交差点の北東、向こうに見える丘陵地帯に穴虫古墓が有り、その下方が大坂関の推定地の一つである。

 それというのも二上山博物館で聞いた穴蒸由来説の蒸す対象が食物でなく、遺体であったらどうなのだろうと大胆な想像をしてみたのである。
つづく

【作業日誌 7/2】
南京ハゼ6本植え付け、府道側のり面
夏野菜の収穫が始まった。最後のジャガイモと三度豆が新規。写真はこれでもか胡瓜(これでもかというほどなる)とアストロトマト(明日採ろと思ったら採らないと、誰かに盗られてしまう)P1030312



完熟していないのでマズイ
【今日のじょん】
P1030315P1030316


 新たな何者かが夜な夜な侵入している。畑の同じところを掘り返されている。連れて行ってもじょんは知らん顔している。やつの遺留品はこれだ。 
P1030309
くそったれ 
 

 

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