晴徨雨読

晴れた日は自転車で彷徨い、雨の日は本を読む。こんな旅をしたときに始めたブログです。

硫黄島村(1) 8/15

2014-08-15 | 日記・エッセイ・コラム

2014.8.15(金)雨

 現在は東京都小笠原村硫黄島であり、自衛隊の航空基地はあるが住民はいない。八月十五日が近づくと各メディアは先の戦争関連の記事を発するが、讀賣新聞は「忘れられた島民」のタイトルで硫黄島から強制疎開させられた元島民の声を特集している。
P1030573
 

 硫黄島での戦闘は1944年に始まり1945年3月に終結する。日本軍の死者は二万人以上、生存者は1,000人のみ、米軍の死者も28,000人という激戦である。同時期に戦われた沖縄戦も熾烈であったが、硫黄島は小さな一つの島だけの戦いである。
 記事の内容は本土に強制疎開された島民1,000人と島に残された男子十五歳以上の100人以上のその後の問題である。島に残った島民は軍の後方支援にまわされ、多くが戦死し、生存者は十数人とされている。疎開した人びとは慣れない生活に苦労を重ねたが、終戦になっても島は米軍の占領地となり帰島は出来ない。1968年に返還され、父島母島など帰島が可能となったが、硫黄島だけは許されなかった。強制疎開された島民は帰島促進の運動を始めるが、国は1985年「今後の定住は困難」として結論づけ、現在も民間人の上陸を拒否している。その理由は不発弾や遺骨がまだ多く残っており、産業が成立しないというものである。
 しかし国は返還された68年から85年の間、いやそれ以後も不発弾の処理や遺骨の収集、生活基盤整備の策定を行ったのだろうか。そのことは記事には書かれていない。遺骨はまだ1万体以上が残されているという。島に帰りたいと願う疎開一世は高齢化が進み、亡くなる方も増加する。二世三世にいたっては、本土に生活基盤が出来上がっており帰島の意志はより減じていると思われる。国はそんな時間の経過を利用しているとしか思えない。
 今日読売テレビで「硫黄島からの手紙」を放映している。既に映画館で見ており、戦闘の悲惨さを伝えてはいるものの、栗林中将の美化とまでは言わないがそのストーリー性に嫌悪感をおぼえたので二度と見ることはなかった。というよりその時間にBSで放映していた「遠い祖国」(前編)のほうが終戦を考えるのに意味があった。(後編は明日22:00~)つづく

【今日のじょん】じょんの体重が、やっと目標にしていた18Kg台になった。夏になってほんの少し食欲が落ちたかなと思うが、運動量は減ってそうだし、こないだからの水分の減少が原因かなとか色々思ってしまう。まあ、とにかく減ったんだからいいか。P1030572



ぽんぽこぽんも途中で固まってしまうノダ。

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上林の両墓制(18) 両墓制と他界観-10 8/14

2014-08-14 | 歴史・民俗

2014.8.14(木)曇り、雨

 類型Ⅲは、死体埋葬地点と石塔がすぐ側にあり、石塔が家を単位に並んでいると、その前にその家の埋葬地があるのが一般的である。墓域の配列は埋葬地、石塔、埋葬地、石塔といった風に並列上に並ぶケースが多い。この類型は石塔の位置が死体埋葬地点から少しずれただけという観点から単墓制に入っている。
 類型Ⅳは墓域そのものが、石塔建立区域と死体埋葬区域が二分されており、石塔は家毎あるいは株毎に並んでいる。埋葬区域は家毎に区分されているケースもあるようだが、一般的には場所は限定されておらず、埋葬がある毎に空いたところから埋めていくのが普通である。これは両墓隣接型とも言われ、両墓制の範疇になる。
 前者はわたしの生家の墓であり、後者は志古田の墓である。P1030535
P1030274

上川合スゲの墓地(左)は石塔のすぐ前に埋葬される。志古田の墓地(右)は石塔の位置から離れた位置に埋葬される。埋葬地に参るのは49日であったり、石塔建立までであり、その後は埋葬地には参らずもっぱら石塔に参る。やがて埋葬地は元の平地に戻る。

 この二つの類型を見る時、文化としてどれだけの差異があるのだろうかと思う。墓制としては単墓制と両墓制に分けられているのだが、埋葬死体の扱い、墓参の形態など何も変わらないのである。違うのは埋葬地の位置が違うだけなのである。
 位置が違うことによって変わることといえば、単墓制の埋葬地はその家の個人的な責任となるが両墓制の場合は埋葬地については村落共同体的な責任となることである。また土地の使用効率としては、両墓制が単墓制に比べ有利であることに気付いた。
 これらは両墓制の概念に対するわたしの個人的なアプローチなのであるが、その概念を確定された新谷氏と同様の視点ではなかったかと思っている。つづく

【今日のじょん】おねしょしーだったわたしはおねしょした翌日、その布団が干してあるのがとても辛かった。誰かに見られたらどうしようと思うと同時に悔恨の念がわいてくるのである。
P1030560

じょんの名誉のために言っておこう。昨晩はステロイドを服用させたので、その作用としておねしょした訳である。

 

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上林の両墓制(17) 両墓制と他界観-9 8/13

2014-08-13 | 歴史・民俗

2014.8.13(水)曇り

 そのお墓での埋葬を二度見たことがある。昭和44年の父の葬儀と50年代前半の親戚の葬儀だった。葬送儀礼というのは一般的なものでそう変わりがない。埋葬場所は家ごとに分けられた石塔の並んでいる段の下の平地で、その家の範囲は決まっているようだ。ただし、ごく狭い範囲の埋葬地なので墓堀りの際には、遺骨や六文銭の古銭などが出土したということだ。墓堀りは私はやったことがないのだけど、兄は何度か経験している。
 棺は座棺でいわゆる棺桶であった。埋葬が済むと土を盛って土饅頭とし、自然石を乗せ、位牌、卒塔婆、花立てなどがあり、枕飯を盛った膳が供えられていたように思う。イガキは無かったようだが、灯りをともす灯籠はあったかも知れない。埋葬地にいつまでどのように詣るのかはまるで記憶が無いので、解らない。しかし何時の日か石塔が出来、埋葬地の土饅頭や飾り物は跡形もなく消えて元の平地に戻り、彼岸や盆の墓参りは石塔に詣ることとなる。
Img_3484


 
お盆前の日曜日には各家揃って掃除をする。墓そろえという。お盆には毎日墓参りをし、灯籠に灯をともしていたが、最近では防火のためかやっていない。参るのは石塔の方だが、新仏の土饅頭が残っている時はそちらにも参っていたようだ。

 石塔が出来た時に埋葬地から土や石を持っていくことは聞いたことがない、ましてや遺骨を改葬するということは無い。墓参りをする時は、遺骨のあったところを足下にして、石塔に手を合わせている状態である。
 最も一般的であろうこの状態は果たして単墓制なのか、両墓制なのか、概念的にいえばどちらでもない状態である。
 新谷氏の分類では、類型Ⅲとなり単墓制となる。つまり五つの類型は以下の通りである。
 類型Ⅰ 死体埋葬地点に一連の墓上装置を施すだけで、石塔は建てない。
 類型Ⅱ 死体埋葬地点の真上に石塔を建てる。
 類型Ⅲ 死体埋葬地点のそばに少しずらして石塔を建てる。
 類型Ⅳ 死体埋葬地点からまったく離れて石塔を建て、墓域が死体埋葬の区画と石塔建立の区画との両区画に二分されている。
 類型Ⅴ 死体埋葬地点とはまったく離れて石塔を建て、死体埋葬の墓地と石塔建立の墓地とが完全に隔絶してて別々になっている。
 Ⅰは無墓制、ⅡⅢは単墓制、ⅣⅤが両墓制ということになる。
 従ってわたしの生家の墓地は類型Ⅲの単墓制ということになるのだが、今までの記事の中で当初は単墓制とし、後に両墓隣接型の両墓制とも書いている。両墓隣接型とは類型Ⅳの範疇である。
 類型ⅡⅢが単墓制、類型ⅣⅤが両墓制ということになるのだが、ⅢとⅣの違いは何なのか、一般的には理解しにくいことと思われる。つづく

【今日のじょん】
涼しい夏で朝の運動もいつも通りなんだが、ぽんぽこぽんは元気にこなすのだが、ラストんはこうやって固まってしまう。もっと遊びたいという意思表示なのか、ほんとに切れてるのか解らない。P1030558  

 


 

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上林の両墓制(16) 両墓制と他界観-8 8/12

2014-08-13 | 歴史・民俗

2014.8.12(火)曇り

 次に本題となるであろう両墓制の概念ということになるのだが、先に新谷氏が提唱した土葬墓制における死体埋葬地点と石塔建立地点をめぐる5つの類型について紹介しよう。その方がより理解しやすいと思うからだ。
 わたしの生家のお墓については幾度も紹介しているところだが、果たしてそれは単墓制なのか両墓制なのか、どの類型に当てはまるのか、実ははっきりしたのは今回の「両墓制と他界観」を読んだ時点なのだ。
 わたしの生家は京都府天田郡三和町上川合スゲであり、現在は福知山市、かつては川合村である。磯貝勇氏の「丹波の話」(東書房 昭和31年)にたびたび登場するのは、磯貝氏が小原四郎先生と懇意であったためだろう。さてそのスゲのお墓は川合川の左岸の山手にあり、そのお墓の東隣に生家があった。墓は小原株からなるいわゆる株墓で現在居住されている家は6軒、そして我が家のように他に転出している家が数軒あり、もうお詣りされなくなっている家も何軒かあるようだ。
Img_5886
 


スゲ遠望、正面の竹藪のところが生家、お墓はその右側にある。(2007.5)

 お墓は北西を向いており、カイチを見下ろせる位置にある。詣る道は真下からあがってくる道と、我が家の前を通って行く道とあったのだが、我が家の一帯が荒れてしまったので、今では下からの道一本となっている。
 幅は20mぐらいか3段になっており、石の階段で繋がっている。最下段は入口に六地蔵が祀ってあり、他は何も無い。かつて葬式の祭、龕をおいて僧による儀式が行われたところではなかったか。
P1050064



 
スゲのお墓(2013.8)

 2段目、3段目は各家毎に仕切られたスペースがあり、個人又は夫婦で石塔がたっており、先祖代々というのも出てきたように思う。その石塔の前に一段低く土の段がある。現在は火葬単墓制となっているので、その部分をコンクリートで固めたり、玉砂利を引いたりされている。その部分こそ埋葬の部分であった。つづく

【作業日誌 8/12】ドッグランど清掃(台風の落ち葉等)
【今日のじょん】一昨日から又しても指間の炎症を起こしている。一時はぽこっと赤くなっていたが、抗菌剤のリレキシペットを半錠やって様子を見ているが、少しずつ改善しているみたいだが、、、。
P1030559

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上林の両墓制(15) 両墓制と他界観-7 8/11

2014-08-11 | 歴史・民俗

2014.8.11(月)曇り

 有馬シンポジウム以降の両墓制の研究史としては、竹田聴州氏の両墓制の成立時期について一定の見通しがついた後、両墓制そのものより両墓制周辺の諸問題についての研究に拡大していった。昭和50年代以降になると、葬送儀礼から墓制へ、祖先祭祀から霊魂観という一連の研究が活発になり両墓制そのものの研究は沈滞していたようである。そんな中で両墓制に関して未解決の問題を新谷氏が提起されている。
1、両墓制とは何か、両墓制の概念規定が厳密ではない。
2、両墓制とは古代以来の死穢忌避、霊肉別留の観念にもとづく習俗であるという説と、石塔建立の一般化とともに中世末から近世初頭にかけて成立したという説が並立したままである。
3、両墓制は霊肉別留の観念にもとづく習俗だとしている通説に対して、遺骨改葬の習俗こそが本来の形式とする説があり、議論されていない。
4、近畿地方に濃密で東北、西南地方に希薄、若しくは皆無という両墓制の分布について、その理由が解明されていない。という点である。
 逆を返せば、これらを解決することが両墓制の決着ということだろうか。
 長々と両墓制の研究史について書いてきたが、実は「両墓制と他界観」のプロローグなのである。
 なぜこんなに長いプロローグが必要かというと、両墓制の決着とは自然科学による物質や定理の発見とは違い、先に大間知篤三氏によって造られた術語「両墓制」の概念を多くの学者、研究者が寄って決めようということだからである。そこで得られた結論はより多くの人びとが納得するものでなければならない。納得するためには多くの調査データを見ることも必要だが、今日までの研究史を紐解くことも重要だと思うのである。
 そして研究史を読んでいて気がつくことは、両墓制を見てきて思いついたこと、考えたことが歴代の研究者の考えたことと一致することである。例えば埋墓は遺棄葬が源流ではないかとか、洗骨習俗が伝搬して両墓制のなったのではとかである。それはちょうど胎児が人類の進化の全てをたどるいわゆる小進化のようなものである。つづく

【作業日誌 8/11】草刈り(ドッグランど、薪小屋周辺)

【今日のじょん】台風一過、水はまだ濁っているが随分引いて穏やかになっている。いずれにしても昨年の状況とは大違いで、この地方は幸い大過なく過ぎた。
P1030557P1010202 

2014年12号台風の翌朝(左)と2013年18号台風の翌朝(9.17 右)昨年は井堰が決壊してもこの水位である。

 

 

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上林の両墓制(14) 両墓制と他界観-6 8/10

2014-08-10 | 歴史・民俗

2014.8.10(日)雨、台風11号

 森先生が異論を唱えたのは④その家は必ず庶民クラスの家である、というところだ。確かに①~③は概念を限定するという意味で理解できるが、④は意味が解らない。わたしの周囲にある両墓制の墓は確かに庶民クラスの墓である、だからといってそれを両墓制の条件に当てはめる理由は分からない。例えば封建領主の墓はそうでなくても、下級武士だが庶民とは言えない者が埋墓に埋葬され、寺院境内の詣墓に石塔が発見されたらどうするのだろう。
 最上氏が④を提案した理由が解らないので批判できる立場ではないのだが、森先生が反発された理由は知りたいものだ。亡くなられた今は確かめようがないのだが、「墓地」(森浩一編 社会思想社)の中に横田健一氏(日本古代史、文化人類学専攻)との対談があり、その中にヒントらしきものがあるので紹介しておこう。
 森先生は古墳の発掘に関する文献の中で、死骸のない古墳について多くのことを語っておられる。盗掘の形跡がないのに埋葬施設が見つからない奈良市の杉山古墳の例や神話上の日向三代、日本武尊の例なども挙げておられる。
 
「だから、日本の場合は両墓制ということを典型的な形で考えるけれども、それと共通した例を広い視野でさがしてみる必要がある。」と話しておられる。古墳を造ろうというのが庶民クラスでないのははっきりしているし、両墓制を近世の石塔に限定しようという方向にも反対だったのではないだろうか。
P1030552


「墓地」(森浩一編 社会思想社 1975年初版)

 このように両墓制をめぐる概念というのは混迷するわけだが、石塔を標識とするという規定は定着してきたのではないか。
 そしてより多くの調査が行われるようになり、竹田聴州氏が京北町比賀江の詣墓に永正五年(1508年)紀銘の宝篋印塔を最古として、中世末から近世初頭の石塔十数基を発見し、両墓制が中世にまで遡ることを推定した。この両墓制の始まった年代は通説になっているようである。つづく


 【今日のじょん】
 台風11号が去ったのかと思ったらまだ上陸していなかった。雨風のオシッコウンPは大変なのだ。やっと場所が決まったと思ったら、風で草木が揺れて又一から場所探しが始まる。結局ウンPが終わるまで10分程度、じっとにんにん。P1030554 P1030555 P1030553
P1030556

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上林の両墓制(13) 両墓制と他界観-5 8/9

2014-08-09 | 歴史・民俗

2014.8.9(土)雨、台風11号

 誤解が生じると思うので書いておくが、前述の「日本民俗学214号」が有馬シンポジウムの報告をしているわけではない。有馬シンポジウムは1967年のことで、日本民俗学214号の発行は1998年で実に30年のひらきがある。要するに214号では30年前に開かれた有馬シンポジウムの評価をしているということのようだが、要点は、「両墓制とは石塔を指標とする」という到達点と、「詣墓に代わるもの」についての論議のようだ。(浦池勢至氏の論文から)「詣墓に代わるもの」というのはこれまでに出てきたニソの杜などもそうだし、仏壇、位牌、菩提寺の本堂、仏堂、霊場などが挙げられているが、石塔を指標とするという原則に相矛盾するものであって、このことが混乱の原因ではないかとわたしは思っている。
 有馬シンポジウムでは両墓制の概念規定を明確化しようという目的もあったようだ。
①死体を埋葬する処(埋墓)と霊魂をまつる処(詣墓)とが地点を異にする。
②霊魂をまつる処は石塔を標識とする(詣墓は必ず石塔墓という形をとるのでなければならない)
③詣墓は家毎に設けられる。
④その家は必ず庶民クラスの家である。
 という最上孝敬氏の規定を仮の前提として討論を進めようとしたそうだ。
この4項目を全て満たしたものが両墓制であって、一つでも欠けたものは両墓制に代わるものとしたのである。
 この前提が物議をかもし、討論が進まなくなったという風に書かれている。「両墓制と他界観」の中には書かれていないのだが、考古学の森浩一氏がこの場に出席されていて、特に項目④について反論されたとある。森先生といえば考古学の第一人者なのだが、考古学のみならず民俗学、史学あらゆる分野が協働すべきという考えを持っておられて地名なども随分と参考にしておられる。有馬シンポジウムに参加されていること自体とても素晴らしいことだと思うし、おそらく考古学者の参加は森先生だけではないかと勘ぐっている。つづく
P1030535


これはわたしの家の墓地。現在では火葬単墓制となっているが、かつては土葬で石塔の前に穴を掘って埋められていた。

【今日のじょん】ゴーヤのカーテンはじょんの居場所の日射しを避けるために作っているのだが、今年はどういうわけか出来が悪い。5年間種を採っては育ててきたが、たまには更改すべしと苗を買ってきたのだが、、、。P1030504 P1030551



左は7月末の状態、そのうち茂るだろうと思っていたが右の有様。連作障害か?

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上林の両墓制(12) 両墓制と他界観-4 8/8

2014-08-09 | 歴史・民俗

2014.8.8(金)曇り、雨

 両墓制の分布の問題や詣墓が村中の寺の境内に多く存在すること等から、埋墓は死穢の場所として放棄されていたものが、近世以降死者供養などの仏教的信仰が広まり、礼拝、供養のための石塔を寺の境内などに置くようになったのではないかという説を原田敏明氏が提唱された。これは従来の定説、「埋葬地は死穢の場所であり、それを忌避して霊魂祭祀のために清浄な場所を設けた」というものを否定している。詣墓というのは死者に対する供養のための石塔墓とともに発生したということだろうか。
 ただわたしがこの説を単純に考えると、全ての墓が両墓制となるべきで、より多く存在する単墓制の墓はどう説明されるのだろう。単墓制墓は死穢意識と礼拝供養が共存することになっているではないか。
 また国分直一氏が南島の洗骨改葬習俗は両墓制と同様の系譜をひくものだという説を出されている。実はわたしも両墓制を初めて目にした時、沖縄の洗骨改葬習俗は両墓制の原点ではないかと思った。(2009.8.11参照)両墓制が若狭、上林、南丹方面に分布していることもふまえて、海人族に由来する習俗かとも思ったわけだ。同様に考えた民俗学者は相当いたと思う。前に紹介した民俗学辞典にも紹介済みの7項目の他に8項目目として沖縄の洗骨改葬習俗を一種の両墓制というとらえ方をしている。これは大間知篤三氏の影響大と思われる。
P1030030
 

念道では屋敷毎に墓がある。不思議に思って調べたら両墓制ということだったのだが、屋敷毎にあることが両墓制ということではない。

 とまあこのように、両墓制についての議論は混迷を極めるわけであるが、その主な原因は、両墓制の分布の問題と両墓制そのものの概念が確定されていないこととだろう。近畿を中心とした濃厚な分布があることは、当時の民俗周圏論的な考え、つまり古い民俗は列島の周辺部にこそ残存するという考えと矛盾するということである。
 そんな中で、両墓制の概念規定を明確にしようというのがいわゆる有馬シンポジウムであったようだ。一番最初に紹介した有馬シンポジウムに立ち返るわけだが、このシンポジウムの混迷は「日本民俗学214号」に詳しい。ただここまでの経過に詳しい者にとってはシンポジウムでの混乱が解るけれど、いきなりこの記事を見たって、それは民俗学会への不信としかなり得ない。P1030550
つづく


有馬シンポジウムはなんともすさまじい議論だったようだ。

【作業日誌 8/8】
墓掃除
P1030534


お墓掃除ったってお墓の周囲より、墓参道の両脇が我が家の土地で、その草刈り、薮刈りが大変なわけ
【今日のじょん】台風の影響で気温が低く、じょんにとっては過ごしやすいみたい。世間では被害がでて大変なことになっているのだが、、、
P1030371

眠たいノダ 

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上林の両墓制(11) 両墓制と他界観-3 8/7

2014-08-07 | 歴史・民俗

2014.8.7(木)曇り、雨

 両墓制の現実の調査が活発になって、両墓制について初めての本格的な研究書が発行された。昭和31年に刊行された最上孝敬氏の「詣り墓」である。研究史としての両墓制を考えるなら、本書「両墓制と他界観」を読む前にこの本を読むべきだと思った。なぜ「両墓制と他界観」を先に読んだかといえば、「日本民俗」214号で日本民俗学会がこの論文を以て両墓制には決着がついていると判断しているからである。決着がついているという論文をまず読んでみたいというのは当然の事で、それで納得がいくのならそれでいいし、そうでなければ「詣り墓」も読む必要が出てくる。
 新谷氏は大間知氏や最上氏の作業の結果できてきた両墓制の通説ともいわれるべきものについて次のように書いておられる。

 埋葬地は死穢の場所であり、それを忌避して別に霊魂祭祀ののための清浄な場所を設けたのが両墓制である。そこには強い死穢忌避の観念とともに霊肉別留の観念がうかがえる、これは日本古来の固有信仰にもとづくものであり、祭地には古くは石塔はなかったが、中世末から近世にかけて石塔が建立されるようになり、現行の両墓制になった。

 
 
死穢忌避と霊魂祭祀という考え方は誰もが納得のいくもので、わたしも当初、両墓制について現実を見るだけの時はこの考えをもっていた。それはそれでいいことなのだが、この説は必要条件であっても、必要充分条件ではなかった。
 例えば両墓制の分布であるが、非常に偏った分布となっており、近畿地方に多く、東北地方や九州地方には殆ど見られない状況となっている。死穢忌避、霊魂別留の観念が日本古来の固有信仰にもとづくものならば、日本国中に分布してしかるべきと考えられる。つづく
P1030530



念道には家毎の墓がある。磯貝氏も梅原氏も両墓制と言っているが、埋墓については一般的なことばかりで具体的な場所を示していない。


【今日のじょん】先日ユーカリ、ハギ、ツゲを剪定した。剪定前の写真が在ったのでビフォアアフターを紹介しょう。おとーは大変気にいってるのだが、、、。P1030502
P1030529 7月29日と今朝の写真。 

 

 

 

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上林の両墓制(10) 両墓制と他界観-2 8/6

2014-08-06 | 歴史・民俗

2014.8.6(水)曇り

 両墓制については嫌気がさしていた矢先に、もう一度研究してみようという気になったのは、穴虫地名の研究がきっかけである。「穴虫考」として執筆中であるが、穴虫地名を調べていると穴虫地名ー穴地形ー葬地地名と連なるパターンが共通していることに気がついた。このパターンを穴虫パターンと名付けて研究中だが、穴虫と葬地の関係が詣墓と埋墓の関係と似てはいないかというのが再度両墓制について研究を始めるきっかけとなった。
 両墓制といったってその教材は周囲にいくらでもあるが、さて一体何なのかということになるとよく解らない。
 民俗学の世界では大正時代から研究が始まっているが、当初はやはり奇妙な風習としてのみとらえられていたようである。昭和に入って柳田国男氏が「葬地」「祭地」という概念を付与し、大間知篤三氏によって「両墓制」と名付けられることとなった。第一次墓地、第二次墓地という概念もこの辺りに出てきたようである。
 大間知氏が、「両墓制ないしはその母型と言うべきものが我が民族のかなり古い伝承に属しているのではないかと想像している」と言っておられるのは当初わたしが陥った思いと同じではないかと思うと同時に、両墓制という一見奇妙な風習について誰でもが持つ思いなのではないだろうか。そして大間知氏が石塔以前の第二次墓地として大島のニソの杜などを想定されていたというのは興味のある所である。
P1020581
大島(おおい町)にはニソの杜と呼ばれる杜が存在し、多くの調査報告書も出ている。


 この時代の研究を新谷尚紀氏は、「現実の形態の分析の前に概念付与が先回りしている」という風に書かれている。将にその通りで、その後大間知篤三氏によって名称、所在地、墓標、第一次墓地に参る期間、物的関連、現在の傾向、分布の7項目を設定して全国70ヶ所の両墓制分布図を作成された。その結果は「民俗学辞典」(民俗学研究所編 昭和26年)に掲載されている。
P1030528  60年以上前の辞典で学説などかなり変遷しているが、当時の民俗や通説など参考になるかと所持しているがあまり使ったことはない。つづく

【作業日誌 8/6】薪割り、剪定(玄関坂、ユーカリ他)
【今日のじょん】
 メーパパが蛇瓜を持ってきた。ずっと前なんだけど、あやべ市民新聞に掲載されるとのことで、掲載後に公開する。何とも気味の悪いもので処分してくれとかみさんに言われている。種の欲しい人は今のうちに取りに来てちょうだい。P1030523  

 

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上林の両墓制(9) 両墓制と他界観-1 8/5

2014-08-05 | 歴史・民俗

2014.8.5(火)曇り

 「両墓制と他界観」新谷尚紀著 吉川弘文館平成3年7月第一刷発行 京都府立図書館借本
 本来は雨読の中で紹介すべき読書なのだが、両墓制の研究、「上林の両墓制」を書き続けることについて大きな影響力を及ぼす重大な論文なのであえてこの項の中で紹介することにした。
 「両墓制」という記事を2009.8.11、13日、2011.2.20~24日まで6回にわたって書いている。実に稚拙な内容で、赤面のいたりと言うところなのだが、初めて両墓制の詣墓を見、なんの参考資料も無い者にとっては致し方のないところとご勘弁いただきたい。
 その後両墓制について、「墓と葬送の社会史」(森謙二 講談社)「墓地」(森浩一編 社会思想社)その他郷土史など読みあさるが、表面的なことは解っても本質的な意義というのが解らないまま数年が過ぎた。そんな中で見つけたのが、日本民俗学会の会報「日本民俗学」第14号、平成9年5月発行の冊子である。特集1としてシンポジウム「両墓制」という記事が載っており、喜び勇んで購入した訳である。これで「両墓制」のことは理解できると期待したからである。P1030525
 


いろんな本を読んでも両墓制の本質的な意味は理解できない。
 ところがその中身は、有馬シンポジウム(1967年8月、有馬で行われた両墓制研究のシンポジウム)におけるゴタゴタと、「両墓制は殆ど近世に終始した墓制で、埋葬地と石塔との関連で発生した墓制で、日本の墓制の根源に遡るものではない」という風な論調で実はこれで嫌気がさしてしまったのである。
 新谷氏はこのシンポジウムの中で、「民俗学は、両墓制に何でもかんでも期待してしまったのではないか。死穢忌避、霊魂祭祀、死体遺棄、複葬など大きな問題をみんな両墓制に託して何でも解決してくれるだろうと考えすぎたのではないか」と言っておられる。私自身も将にその状態であった、南島の複葬も、古代の遺棄葬も、イザナギ、イザナミに始まる死穢忌避なども両墓制に繋がるのではないかと考えた。それが単に石塔との位置関係で発生した近世のみの墓制の一形態と言われれば反発するのは当然である。反発してより深く研究すればいいものを、逆に放り投げてしまった。そのことが今日まで両墓制について語らなかった所以である。

【今日のじょん】ジローとこへいくと骨になって帰っていた。お花と前川さんの撮った
写真を供えて、合掌。捨てられていた犬が拾われて16年間大事に飼われてきた。そのうち6年間は私たちと知り合っていた。誰とでも仲良くしていたジローはきっと優しい性格だったんだろう。食いしん坊で、幸せに生きたと思うので、悲しむことなんかないぞ、大往生だぜ。P1030524

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上林の両墓制(8) 志古田-8 8/4 

2014-08-04 | 歴史・民俗

2014.8.4(月)曇り

 梅原論文によると、現在の墓地に移転する前は個人持ちの墓があちこちにあって、それらは埋めたところに石塔を立てたという風に聞き取りされている。つまり以前は単墓制であったと言うことである。
 以前は自分の土地に埋葬してその上に石塔を置いたので、死者が出る度に自由に墓地を拡げることが出来た。しかし共同墓地になると一定の区画に石塔を並べるのでその下あるいはその近隣に遺骸を埋めていくのは難しい。ということで、別の区画に埋葬専用の地を設けたということだろう。「両墓にしたのは埋める場所がないからだ」という古老の言はそのことを語っている。
 共同墓地の埋墓では、2,3年に一度草刈りをする程度、無くなった順に埋めていくこと、四十九日まで詣りそこで墓をヒク、かつては土を一握り詣墓(ヒキバカ)に持っていった。と梅原論文にあり、磯貝論文にはその他に四十九日まではトウバ(この場合竹のこと)を7本骸の周りに立てた、とある。
P1030273
 

上林の墓で宝篋印塔があるのは珍しい。

 これらの習俗は両墓制の独特のもので、それ以前が単墓制であったとは考えにくい。梅原氏の聞き取りに錯誤があったのではないかとも思って見るのだが、明治2,30年以前のことを確認するのは難しい事と思う。
 次回調査では次のことを確認したい。
 埋墓は丸山のどこか、
 宝篋印塔は元々どこにあったのか、
 丸山に移る前には全ての家が単墓制であったのか、
 移る前に両墓制の家があったら、埋墓はどこか、
 大乗院にまつわる伝説、木ノ下とはどこか、
 などである。 この項一旦終了。

【作業日誌 8/4】草刈り(玄関側登り口周辺、ドッグランど、芝生広場、じょんのび坂周辺)

【今日のじょん】今朝ジローが亡くなった。まりい、ハナ、チコなどじょんの最初の友達なんだけどみんな居なくなってしまった。みんなそれなりに仲良く遊んでくれたもんなあ。ジローは16歳と言うから大往生なんだけど、じょんの兄妹も昨年亡くなったんだからまったく寂しい事だねえ。P1030447

 ジローと最後に遊んだ日、7月15日

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上林の両墓制(7) 志古田-7 8/3 

2014-08-03 | 歴史・民俗

2014.8.3(日)曇り、雨

 墓地に対する管理統制は法律等で決められても現実に執行するのは県などの地方行政である。この後各県から上申された伺いが数多く紹介される。
 その中で顕著なものは「両墓制」習俗の否定である。もちろん両墓制という言葉は無いので、「埋葬の地と石碑のある地と二つの墓がある場合はいかがいたしましょう」というものだが、前述規則の条文から言っても当然否定されるべきものとなり、「両墓制」習俗は国家から完全に否定されるのである。
 そして墓地の新設や拡大には許可が必要になり、みだりに墓地を新設することは禁止された。そして新設する祭は一村あるいは二三村の永世
共有墓地、供葬墓地(「宗旨若クハ種族ニヨリ之ヲ別設」しない墓地)などを容認した。
 こういった明治政府の墓埋行政の影響が各地の墓地の統合に現れているのではないだろうか。志古田の場合明治二、三十年頃と言われているので将にその通りだと思われるが、他の地域に関しては統合移転の時期について確認していないのではっきりとは言えないのだが。
 明治政府の意向によって志古田の墓地が統廃合されたと仮定すると、いくつかの矛盾や疑問が湧いてくる。
 政府は「両墓制」習俗を否定したのに、志古田の新しい墓地は両墓制になっているということである。
 これは以前に少し書いたが、住民の感覚としては単墓制であろうが両墓制であろうがあまり重要視しない、つまり遺骸の埋葬場所条件だけの問題であって気にする必要は無いということではなかろうか。
 また、行政機関としては無秩序にあちこちにあった墓地が村落唯一の墓地としてまとまるならそれだけで充分で、其の墓地の区域内でどのような埋葬が為されようと良かったのではないだろうか。むしろ、府なり国に対する墓地新設の申請はその住所や面積と地目だけで、埋葬方法まで報告の必要は無かったのかも知れない。
 今一つの疑問は、もし志古田の墓地が国の意向で統合新設されたとしたら、他の両墓制が厳然と残った地域は一体どういうことだったのかという問題である。
P1020730
 

念道ではこの南向き斜面に各家毎の詣墓が存在する。
 何鹿郡、綾部市、上林三村の郷土史などをみても、墓制葬制についての記述は殆ど無い。従って想像するしかないのだが、明治期の各県からの伺いにヒントがあるように思う。
 「両墓制」習俗についてのみ見てみると、「こういう墓が存在するのだがいかがしましょう」という問いに対しては、「現状のものはいたしかたないが、新設はならぬ」というものが多い。
P1030274


志古田の共同墓地も新設の際は必ず申請しているはずだ。
 「両墓制」習俗に基づく墓を新設したいという伺いにははっきりと拒否しているのである。つまり問い合わせてきたものには原則通りの応えになるが、問い合わせや新設の伺いを出してこないものについては何も指導のしようがないというのが実情だったのではあるまいか。そもそも無数にある全国の墓地を政府が掌握のしようがなく、墓地新設の伺いの無いところでは従来のままの墓地の形態が残ったのではないかと考える。つづく

【今日のじょん】
暑い夏にはドッグランどの利用もないだろうと、ベランダの準備もしていないし、芝も伸び放題になっている。ところが昨日は二組、今日は三組の利用客が来じょん、ともかくいつでも利用できるよう整備しときゃなきゃ。
P1030520P1030495


昨日はモモちゃんも来たぞ、明日は芝かろっと
 

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上林の両墓制(6) 志古田-6 8/2 

2014-08-02 | 歴史・民俗

2014.8.2(土)曇り

 「墓と葬送の社会史」(森謙二著 講談社)という本がある。1993年発行の新書本で新聞書評を見てすぐに購入したものである。歴史にも民俗にも興味が無かった頃なぜこのような本を買ったのか実に不思議な感がある。しかしその中に墓制葬制に対する法的な記述があったのを思いだし、書架から取り出してみる。すると、第4章 国家による「死」の管理ー明治政府の墓地政策という章があった。この新政府による墓地政策こそ志古田やその他の地域で個別にあった墓が、共同墓地的に一箇所にまとめられた原因では無かろうか。P1030522
 


よくぞ置いていたこの一冊。
 王政復古、神道国教化の中で、神葬祭の推進、火葬禁止令(火葬は仏教的葬法であり禁止されたがやがて解除された)、自葬祭禁止(神道、仏教以外の宗教に基づく葬儀を禁止した太政官布告でこれも後ほど解除される)などの法整備がなされた。しかしこれらの法令などは村の墓地に変化を及ぼすことは無い。
 地租改正に伴って、「墓所地ハ従前ノ通無税地ト可致事(いたすべきこと)」(大蔵省達)とされた。墓地は江戸時代にも無税(高請除外)であった、これを踏襲する代わりにそれまで曖昧であった墓地というものの範囲や概念を明確にすること、つまり国家による管理が始まった。前述達の直前に、耕地畦ぎわに遺骸を埋葬することを禁止している。そして1874年(明治7年)に内務省地理局発議の「墓地処分内規則」によって墓地の定義がなされた。

第一条 死人ヲ埋メ木石等ヲ以テ其地ニ表識スル者之ヲ墳墓ト称ス
第二条 墳墓陳列一区画ヲ為シ政府ノ許可ヲ受け又ハ帳簿ニ記載スル者之ヲ墓地又ハ埋葬地ト称ス

 ここまで見てくると新政府の魂胆がうかがえる。墓地は無税にするけれども墓地とは死人を埋め、表識をしているもので、一つのまとまった区画に並んでいて、登記をして政府の許可を得たもののみ認める、ということである。両墓制の村はもとより単墓制であっても自らの耕地などにめいめい勝手に墓地を設けられてはそこからは徴税できないこととなる。最初に出された耕地畦ぎわへの埋葬禁止も端的な例だが、墓地は不毛の地、荒廃の地、薄税地に造れという姿勢は明らかに徴税率を挙げようということにほかならないのではないだろうか。ひとつひとつの墓地の無税だけでは小さな金額だが、全国となると膨大な金額となるだろう。ただしこのことはわたしの考えであって、森謙二氏が著書の中で語っていることではない、念のため。つづく

【今日のじょん】猿の逆襲
 隣家の栗の木を伐ってざまみろと思っていたら、畑に入ってカボチャを荒らされた。残ったカボチャを採ってしまってざまみろと思っていたら今度はトマトとキュウリをやられてしまった。上田のおばちゃんは、「猿はトマトやキュウリはどえらい好きやないで」と言っているそうだ。となるとこれは腹いせにやられたのかも知れない。クソッタレ
P1030515 P1030516
P1030517_2


屋根の上でゆっくり食ったみたい。防鳥ネットも今や効果無し。じょんは後から嗅ぐだけ、「この辺来とったで」。

 

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上林の両墓制(5) 志古田-5 8/1 

2014-08-01 | 歴史・民俗

2014.8.1(金)晴れ

 ここでお断りしておきたいが、ここまで書いてきて両墓制における墓の名称をミハカ、ウメバカ、ヒキバカ、詣墓などと乱雑に使っていることである。民俗学に詳しい方には理解できるだろうけど、普通なんだか解らなくなってしまうのではないだろうか。両墓制では遺骸を埋める墓と石塔を立てる墓が分かれており、前者をウメバカ、ミハカ、イケバカ、ステバカ、サンマイ、ムソバ等と呼び、後者をラントウバ、ヒキハカ、アゲハカ、マツリバカ、テラバカ、ウチバカ等と呼んでいる。本稿を書いていくにあたり、その地で呼ばれている呼び方で書いていこうとしていたのだが、調査された人によって書き方がまちまちなので、結果いろいろな名称を使うこととなった。
 その地方での呼び方はともかく統一した普通名詞を使うべきだと思っている。先学によって埋墓、詣墓あるいは第一次墓地、第二次墓地という呼び方があるようだが、民俗学会で統一された呼び方とは成っていないようである。
 「詣り墓」(最上孝敬著)に使われた埋墓、詣墓という使い方が今のところ一般的なようなのでこれを使用することにしたい。
 さて梅原論文の中の不可解なこととは以下の文章である。
 
「約七十年前に個人持ちのあちこちにあった墓を集めて共同墓地を作ったというから、明治二,三十年代のことである。それまでの個人墓地では埋めたところに石塔を立てたという。共同にした時墓石も集めたが、いまでも旧墓地に五輪や石地蔵が残っているところがある。墓地の合理化をしたもので、両墓にしたのは埋める場所がないからだと古老は語っていた。」
 不可解というより意外な一文である。 つまり両墓制の前は単墓制であったと言うことである。(単墓制というのは遺骸を埋葬したその上に石塔を立てるもの)磯貝論文でも明治期における墓地の変遷のことは書いているが、現在地の前の状況については、「各自墓地を持っていた」とのみ記されている。このことを早とちりして、埋墓は丸山にあり、詣墓は各家の所有地にあったものと考えていたのだ。
P1030267


現在の墓地にあがる道沿いにある自然石の塔、一石五輪塔は明治の時にうつされたものか、それともそれ以前からあったものか。
 意外だと感じたのは、両単の墓制は歴史的に確固たるもので、簡単に変わるものではなく、変わるとしても両墓制から単墓制に変遷するのではと言うわたしの独りよがりの思い込みの結果である。
 「埋める場所が無いから両墓にしたと」いう言からは、両墓制と単墓制の間にはわたしたちが一般的に考えるほど深い歴史的、民俗的な意味は無いのではないかと思わせるのであった。
 また、忠町を訪ねた時、同じように個別の墓をまとめたという話を聞いた。それがいつの時期なのか聞かなかったが、明治期に行政的に墓地制度の見直しの動きがあったのではないかという気がしてきた。
 これらのことは現地を眺めていても何も解らない。文献の中から探ることにした。つづく


【今日のじょん】おとーもおかーも桜井さん主催のシデ山BQでお出かけとなった。昨日みたいな夕立だったらどーすると思ったが、さいわい曇りがちで夕立も来なかった。ヤレヤレ。P1030512

 シデ山教の集会、年に一度の楽しみデス。

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