昨日、一昨日の土日は歩いて市場へ買出しに行ったり、ヨットでゆっくり本を読んだりして過ごしていました。体調は良く夕方になると辛
抱出来ずに呑んでいます。夕べは頑張って夕方呑まなかったのですが・・11時になって遂に甘くて強いのをちょっぴりやってしまいまし
た。
インターネットカフェが停電で新兵器のエアーカードは動いたり止まったり
これは僕が実際に出会って話を聞いたことで「実話」です。 夢を実行に移しただけ、何もしなかった人よりは「遥かに充実した価値ある
時間を経験した」と思うのですが・・ いろんな面で甘かったと言えなくもないお話しです。
まあ人生、完璧は無理ですし・・このような結末も後で人に話すとすれば愉しいものかも知れませんが・・・
その主人公S氏は1980年の68歳まで「海運業」をしていました。海運業と言っても自分の船を持って自分は営業したり時には船長と
して乗り込むと言った会社にはなっているものの個人営業のように日本沿岸で貨物輸送をするのが先代からの家業でした。 海で育ち海
で生きてきたS氏の夢は「ヨットで南太平洋の島々を巡る」ことでした。 時代はバブルに向かっている時期、国内を運航する貨物船には
権利があってその権利が「高く」取り引きされている時でした。年齢的にも「見切り時」と考えたS氏は「権利を売り」それで乗組員の退
職金も払い、残ったお金でヨットを買い、余るお金で死ぬまでゴーギャンの如く南太平洋の島々を放浪しようと考えたのです。
1981年、南太平洋を死ぬまで放浪する予算として持っていたお金は3500万円。当時にするとかなりの大金です。自分の寿命を自分の
父親より5年長く78歳として割り算すれば一年に350万円。国民年金は日本に残る奥さんに。充分過ぎると思える予算で南太平洋で贅
沢に一年を過ごして計算してみると220万円?しか使えてない。 まあ行って見れば解りますがお金を使おうと思ってもタヒチを除けば他は
物価が安く、また使うと言っても日本のように何でも揃っていないのです。そこでS氏はオーストラリアでアパートを借り、車も買ってハリ
ケーンシーズン(南太平洋は11月から4月まで)を普通ヨッティは自分のヨットを整備しつつヨットの中で生活するのだが、上架、改造、
船底塗装、整備も人に頼み、日本のヨットオーナーのように暮らしたそうです。 ロングクルージングヨットを人に任せて整備して思うよう
になっていたと言う話は絶対に無いと断言できるのですがその通り、それが引き金になったように次々と故障(人に任せると何故か確実にそ
うなる)しかし一度人が手を入れるとその人にしか解らなくなる。
そして3年・・「もしかすると・・」と自分が余りに元気なことに疑問を持ち始めたそうです。これは80以上生きるかも知れない・・いや
いや我が家の家系は80は超えんだろう。その自問自答の結果、生存予定年数を3年増やした。当然年間予算も変更しなければならないが一
度広げてしまった生活は荷物も増えていてヨットに乗らずアパートを引き払うことが難しい。色々考え節約しながら2年が過ぎたが「どうし
ても死にそうにない」吸うタバコの量を増やし(体に悪いから)そこでまとまったお金が掛かっていた毎年のヨットの整備をとりあえず一年
だけ中止して航海に出るのも中止した。(6年過ぎて航海そのもにに対する思いが落ちてきたのだろうと僕は判断した)整備をしないで一シ
ーズン過ごすと3倍は仕事量が増える。そうなると益々ヨットから離れ時に日本に戻ってくるようになった。そのような状態が続きヨットは
雨水がエンジンまで浸かるほど入り再起不能に近く、お金も帰りの運賃しか無くなってしまったと話してくれたS氏は姿勢、顔色も良く全く
老化を感じさせないほど元気で身軽にホロホロにも乗り込める81歳でした。 「日本に帰って海運の営業でもしようか・・」と話しつつ
「あのヨットも日本にのって帰りたいんやけど・・」やはり思い出がイッパイ載っているんだろうけど・・「そりゃ無理やでぇ」口には出さ
なかったけど・・・
その後氏がオーストラリアのアパートを引き払い日本に帰ったことは風の便りで聞きましたが・・海運の営業をしたのか・・死んだという話
は聞こえてこないから、今も生きているのだろう。94歳のはずである。
これを検証すると・・一番に南太平洋の島々をヨットで巡って何がしたかったかが明白で無かったと言うか「そこで何をするか」の計画が
はっきりしていないように思う。(ただ漠然と夢を見ていたのではもちません。具体的な計画が必要)
年金収入で生活できない人(預金を食い潰していく場合)は自分の寿命をかなり長めに見ておかないと金銭的不足が生
じることがある。
人間の習性、同じようなことを続けられる年限は7年ほどと言うのが解っていなかった。 自分が仕事をしていない「意義」を充分
に把握していなかった。 現状の生活を喜んでくれる人が近くに居なかった。などが挙げれるように思います。 そして大きな失敗にな
らず「笑い話」に出来たのは「日本に住む家と奥さんが残っていた」からと思いました。
前回の文章のなかで・・・不足していた文として最近は結婚する年齢が高くなって「定年」になっても「子育て」が終っていない家庭が多く
なっています。 生んだからには学校を卒業するまで働くなどで責任を持って出来るだけの援助はするべきでしょう。
それより後までするのはただの馬鹿です。僕もしましたが・・・ 人も企業も植物も助けるほどにひ弱になります。本人が望む教育を
受けさせたら後は放って置くのが一番でしょう。 これについては自分の二人の子供を見ると自信が薄れるのですが・・・人生は「全て思い
通り」と言うのは「自分だけ」のことで「子も含め他人はなかなか僕の思い通り」にはなりません。当然ですが・・・
次回は引き続きフィリピンに住む「ある退職者」について書いてみます。この人は成功? いやいや・・「セイコウ」??
抱出来ずに呑んでいます。夕べは頑張って夕方呑まなかったのですが・・11時になって遂に甘くて強いのをちょっぴりやってしまいまし
た。
インターネットカフェが停電で新兵器のエアーカードは動いたり止まったり
これは僕が実際に出会って話を聞いたことで「実話」です。 夢を実行に移しただけ、何もしなかった人よりは「遥かに充実した価値ある
時間を経験した」と思うのですが・・ いろんな面で甘かったと言えなくもないお話しです。
まあ人生、完璧は無理ですし・・このような結末も後で人に話すとすれば愉しいものかも知れませんが・・・
その主人公S氏は1980年の68歳まで「海運業」をしていました。海運業と言っても自分の船を持って自分は営業したり時には船長と
して乗り込むと言った会社にはなっているものの個人営業のように日本沿岸で貨物輸送をするのが先代からの家業でした。 海で育ち海
で生きてきたS氏の夢は「ヨットで南太平洋の島々を巡る」ことでした。 時代はバブルに向かっている時期、国内を運航する貨物船には
権利があってその権利が「高く」取り引きされている時でした。年齢的にも「見切り時」と考えたS氏は「権利を売り」それで乗組員の退
職金も払い、残ったお金でヨットを買い、余るお金で死ぬまでゴーギャンの如く南太平洋の島々を放浪しようと考えたのです。
1981年、南太平洋を死ぬまで放浪する予算として持っていたお金は3500万円。当時にするとかなりの大金です。自分の寿命を自分の
父親より5年長く78歳として割り算すれば一年に350万円。国民年金は日本に残る奥さんに。充分過ぎると思える予算で南太平洋で贅
沢に一年を過ごして計算してみると220万円?しか使えてない。 まあ行って見れば解りますがお金を使おうと思ってもタヒチを除けば他は
物価が安く、また使うと言っても日本のように何でも揃っていないのです。そこでS氏はオーストラリアでアパートを借り、車も買ってハリ
ケーンシーズン(南太平洋は11月から4月まで)を普通ヨッティは自分のヨットを整備しつつヨットの中で生活するのだが、上架、改造、
船底塗装、整備も人に頼み、日本のヨットオーナーのように暮らしたそうです。 ロングクルージングヨットを人に任せて整備して思うよう
になっていたと言う話は絶対に無いと断言できるのですがその通り、それが引き金になったように次々と故障(人に任せると何故か確実にそ
うなる)しかし一度人が手を入れるとその人にしか解らなくなる。
そして3年・・「もしかすると・・」と自分が余りに元気なことに疑問を持ち始めたそうです。これは80以上生きるかも知れない・・いや
いや我が家の家系は80は超えんだろう。その自問自答の結果、生存予定年数を3年増やした。当然年間予算も変更しなければならないが一
度広げてしまった生活は荷物も増えていてヨットに乗らずアパートを引き払うことが難しい。色々考え節約しながら2年が過ぎたが「どうし
ても死にそうにない」吸うタバコの量を増やし(体に悪いから)そこでまとまったお金が掛かっていた毎年のヨットの整備をとりあえず一年
だけ中止して航海に出るのも中止した。(6年過ぎて航海そのもにに対する思いが落ちてきたのだろうと僕は判断した)整備をしないで一シ
ーズン過ごすと3倍は仕事量が増える。そうなると益々ヨットから離れ時に日本に戻ってくるようになった。そのような状態が続きヨットは
雨水がエンジンまで浸かるほど入り再起不能に近く、お金も帰りの運賃しか無くなってしまったと話してくれたS氏は姿勢、顔色も良く全く
老化を感じさせないほど元気で身軽にホロホロにも乗り込める81歳でした。 「日本に帰って海運の営業でもしようか・・」と話しつつ
「あのヨットも日本にのって帰りたいんやけど・・」やはり思い出がイッパイ載っているんだろうけど・・「そりゃ無理やでぇ」口には出さ
なかったけど・・・
その後氏がオーストラリアのアパートを引き払い日本に帰ったことは風の便りで聞きましたが・・海運の営業をしたのか・・死んだという話
は聞こえてこないから、今も生きているのだろう。94歳のはずである。
これを検証すると・・一番に南太平洋の島々をヨットで巡って何がしたかったかが明白で無かったと言うか「そこで何をするか」の計画が
はっきりしていないように思う。(ただ漠然と夢を見ていたのではもちません。具体的な計画が必要)
年金収入で生活できない人(預金を食い潰していく場合)は自分の寿命をかなり長めに見ておかないと金銭的不足が生
じることがある。
人間の習性、同じようなことを続けられる年限は7年ほどと言うのが解っていなかった。 自分が仕事をしていない「意義」を充分
に把握していなかった。 現状の生活を喜んでくれる人が近くに居なかった。などが挙げれるように思います。 そして大きな失敗にな
らず「笑い話」に出来たのは「日本に住む家と奥さんが残っていた」からと思いました。
前回の文章のなかで・・・不足していた文として最近は結婚する年齢が高くなって「定年」になっても「子育て」が終っていない家庭が多く
なっています。 生んだからには学校を卒業するまで働くなどで責任を持って出来るだけの援助はするべきでしょう。
それより後までするのはただの馬鹿です。僕もしましたが・・・ 人も企業も植物も助けるほどにひ弱になります。本人が望む教育を
受けさせたら後は放って置くのが一番でしょう。 これについては自分の二人の子供を見ると自信が薄れるのですが・・・人生は「全て思い
通り」と言うのは「自分だけ」のことで「子も含め他人はなかなか僕の思い通り」にはなりません。当然ですが・・・
次回は引き続きフィリピンに住む「ある退職者」について書いてみます。この人は成功? いやいや・・「セイコウ」??