映画「光復」を観た。
摩訶般若波羅蜜多心経の最後は、パーリ語の発音に近い「音訳」という表現になっている。「西遊記」で有名な三蔵法師、つまり唐の玄奘が漢訳した。パーリ語のカタカナ表記は次のようだ。
ガテガテパラガテパラソガテボディスヴァハ
いわゆるマハーマントラ(大真言)である。キリスト教の主の祈りみたいなもので、意味は知らずとも、これさえ唱えていればいい、便利な呪(マントラ)だ。
般若心経は宗派を問わず唱えられる経だから、リクエストすれば坊主が読経してくれる。2、3分の短い経なので、覚えるのも難しくない。
般若とは無分別智と称されるが、説明がややこしいので簡単に言うと、真理のことである。般若心経の内容は、色(しき=形あるもの)は、空(くう=形ないもの)と同じである。五感も意識もみな空である。それが真理だ。真理を理解すれば恐怖が消えて、迷いも不安も消える。心の平安が齎され、悟りに至る。だから般若波羅蜜多を唱えなさい。そう書かれてある。
空の概念はなかなか理解し難いが、本作品では、人間の体も一時的に原子や分子が集まって出来ているだけで、命が終われば別のものに変わっていくと坊主に言わせている。それが無常ということで、自分というものさえも空の例外ではない。フランスの哲学者ルネ・デカルトの場合は、そんな風に考える主体としての自分は確かに存在しているのだ(我思う故に我あり)という結論に至るが、仏教哲学は少し違う。
仏教はよりよく生きることを是とするので、般若心経が主張するように「究竟涅槃」(悟りに至る)を目的とする。そのために私欲を捨てて優しさと寛容を獲得せよと説くのである。菩薩(修行僧)は般若波羅蜜(智慧)を極めるために努力し、五蘊がすべて空であると照見(しょうけん=本質的な理解)することで無念無想の境地を得て、涅槃に至る。
序盤から中盤にかけてのヒロインの受難は、終盤のための下地づくりである。本当は優しい心の持ち主の大島圭子は、長い間の介護疲れで、精神的に追い込まれていく。ただ食べて寝て過ごすだけの母の存在は、圭子にとって疎ましかったが、それでも母親に対する愛情は消えていなかった。高校の同級生との再会が圭子を救ったかのように思えたが、逆に不幸のはじまりだった。
ラストシーンには驚かされたが、光り輝くシーンでもある。このラストシーンを描くために、敢えてリアリズムを捨てて、世間や警察や弁護士たちを情け容赦のない冷酷な存在として表現したのだと思う。ヒロインにとって世界そのものが逆境であるという状況にしたかった訳だ。だから前半では、明るいはずの昼間のシーンも薄暗く描いた。ヒロインが光を失いつつあることのメタファーだ。
身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれという言葉がある。光を失ってしまったヒロインが、再び光を得るまでにはどんな紆余曲折を経なければならなかったのか、人間というものはそう簡単には救われない存在だということを、いやというほど思い知らされる作品である。