映画「理大囲城」を観た。
香港は1997年の返還後も、高度な自治が認められる一国二制度によって、アジアの経済的中心地であり続けてきた。しかし返還から20年が経過すると、習近平は香港政府に働きかけて、逃亡犯条例を変えさせようとした。香港の学生たちは、それが一国二制度をなし崩しにしようとする意図であることを敏感に察知した。そして彼らが中心となって、香港動乱がはじまった。反対集会やデモ行進が行なわれたのである。
本作品は、反対運動のひとつに参加した学生たちが、警察に追い詰められて香港理工大学に逃げ込んだところを警察に包囲されてしまった13日間を描く。
学生たちに命懸けの覚悟はなかった。割と軽い気持ちで集会に参加したが、あれよあれよという間に警察に取り囲まれ、気がつけば自分たちが理大に籠城しているような格好になっただけである。だからタイトルも「理大籠城」ではなく「理大囲城」だ。
早く家に帰りたいだけの学生たちを重装備の警官たちがゴム弾や催涙弾、放水などで追い返す。理大から4度も5度も脱出を試みた学生たちだが、そのたびに理大に押し戻された。事態はもはや、政府に対して何かを主張するというよりも、サバイバルの様相を呈しはじめる。
学生たちの状況は悲惨ではあるが、あまり同情の余地はない。集会の初期段階で帰宅することは可能であっただろうし、投石などの過激な手段ではなく、得意のインターネットでの訴えのほうが、人数を活かせただろう。
終映後のトークショーで矢田部吉彦さんが言っていたが、観終わると絶望的な気持ちになる。当方も絶望的な気分になった。無力感に打ちひしがれたと言ってもいい。どうしてだろうか。
独裁者の習近平はたしかに民衆を弾圧して人権を蹂躙している。しかしいくら独裁者と言えども、大半の国民を怒らすようなことはできない。独裁者の代名詞みたいなヒトラーでさえ、国民の共感を得るために数多くの演説を行なった。ドイツ国民の多くはヒトラーに共感して、みずから進んで侵略や虐殺に協力したのだ。
習近平の背後には、ヒトラーが統治していた当時のドイツの人口6700万人の20倍以上である14億人の人民がいる。彼らの多くが習近平の香港政策に反対していたら、一国二制度を無視するような圧政はできなかった。それができたということは、14億人の内の多くが、香港の状況にも人権蹂躙にも興味がないということだ。絶望的な無力感の根拠はそこにある。
人は対岸の火事には興味を示さない。香港の民衆に対する人権蹂躙が、やがて自分たちの人権をも侵しはじめるであろうとは考えない。想像力の不足である。酷い目に遭っている人がいても助けようとはしない。優しさの不足である。その裏には、他人の権利を認めない狭量な精神性がある。寛容さの不足である。
とはいえ、想像力を発揮しすぎると被害妄想に陥ることがある。優しさを振りまくと貧乏になる。他人を許してばかりだと自分の居場所がなくなる。生きる上では、想像力や優しさや寛容さは不利益となるのだ。競技のオリンピックやワールドカップと同じである。他国が勝てば自国は負ける。他国の敗北は自国の勝利なのだ。人類の精神性はその程度である。
クリスマスの日曜日、映画館は9割以上の入りだった。こういうつらいだけの映画を観に来るということは、少なくとも香港の状況に関心を持っている人がそれだけいるということだ。そうでなければ、エンタテインメント性が皆無の本作品に観客は集まらない筈である。矢田部吉彦さんは、そこにかすかな希望があると言っていた。
香港では上映禁止になっているらしい。当然だと思う。香港にはもはや言論の自由はないのだ。日本も同じような統制の道を歩みはじめている。岸田政権は、きな臭くて仕方がない。日本での上映も、現在は全国でポレポレ東中野の一館だけだ。見逃したら二度と観ることができないという危機感があった。それは岸田政権に対して覚える危機感に通じている。鑑賞できてよかったと思う。