三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

映画「Dr.コトー診療所」

2022年12月19日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「Dr.コトー診療所」を観た。
映画「Dr.コトー診療所」公式サイト

映画「Dr.コトー診療所」公式サイト

「そして、ここに生きている。」前作の放送から16年の時を経て、満を持して映画化!今も変わらず島の人々と寄り添いながら生きる、Dr.コトー・五島健助の新たな物語。

 中島みゆきの主題歌がインストゥルメンタルで流れる嵐の夜の修羅場が、本作品のクライマックスだ。序盤から中盤にかけて徐々に膨らんでいく不幸が一度に噴出する。
 しかしDr.コトーはいつも通り、普段通りの姿勢を崩さない。落ち着いて、出来ることをひとつずつやっていく。医者だから人が死ぬことに動揺することはない。それでも不慮の事故などの望まない形での死は、出来ることなら回避させてあげたい。人間は人生を全うするべきだ。それがDr.コトーの信念である。

 島の医療の現状は深刻である。過疎化高齢化少子化という全国的な問題が島に集約されている。かつて学校が統廃合されたように、医療の統廃合が進められようとしているが、学校と医療機関は違う。学校がなくなったら別の学校に行けばいいが、病院や診療所がなくなったら、おいそれとは遠くの医療機関には行けない。緊急な症状の場合は特に無理だ。
 行政は国民や住民に等しくサービスを提供しなければならない。そのために税金を納めているのだ。しかし小泉改革以来、行政の合理化という棄民政策が進み、郵便局が減らされ、保健所が減らされ、そして公立の医療機関も減らされるようになった。赤字だからということで病院が閉鎖されれば、地域の医療は崩壊する。
 行政サービスは経費の無駄遣いを抑制して税金を効率的に使う義務を負うが、赤字かどうかを考えるものではない。警察や消防が赤字だからといってなくなったりすると、安全のための行政サービスが提供できなくなる。
 しかしそんな当然のことが無視されて、必要もない軍事拡大にばかり税金が使われているのが現状だ。そういう政治家を当選させているのが有権者だから、自業自得であることは言うまでもないが、現場の担当者は負担の増大に苦しむことになる。
 医療現場においては、献身的な医者が労働基準法の枠を大きく超過した勤務によって、地域の医療を支えている。いつの世も、自分の利益しか考えない我利我利亡者が殆どで、自己犠牲も厭わない数少ない利他的な人が困っている人たちを助けている。アフガニスタンの人々を助けた中村哲医師などがその代表である。本作品のDr.コトーも大変献身的で、本当に頭が下がる思いだ。

「先生」という言葉は敬称である。敬称というからには敬意を持って呼びかける言葉でなければならないが、偉そうな議員や保育園の保母さんや福祉施設の職員が自分のことを「先生」と呼ばせたりする。陰で汚職をしたり子供や障害者を虐めたりしている連中のことを「先生」とは、ちゃんちゃらおかしい。
 しかし本作品のDr.コトーは、最大の敬意をもって島の住民たちから「先生」と呼ばれている。その尊敬は彼の行動に由来するものだ。有言実行。タケヒロに投げかけた厳しい言葉は、Dr.コトー自身の覚悟でもある。周囲がどんな状況でも自分がどんな状態でも、住民たちを助ける。「先生」という敬称に相応しい高潔な人格だ。にもかかわらず自分はまだまだだと思っている。まさに中島みゆきの「銀の龍の背に乗って」の「僕」そのままの精神性である。

 映画「ラーゲリより愛を込めて」で松坂桃李が言った「ただ生きているだけじゃ駄目なんだ、山本さんのように生きるんだ」という台詞を思い出す。山本幡男やDr.コトーのように生きられればどれほど素晴らしいかと想像するが、所詮は凡人の夢だ。叶うはずもないし、そんな生き方に耐えられるほどの強い精神力もない。

 それでも、少しでも他人に優しく、寛容でありたいと願うことは可能だし、常日頃からそのことを忘れないでいることはできる。政治家が無能で利己主義でも、世の中の大半がひとでなしでも、自分だけはまともに生きるのだという矜持だけは持っていることができる。ヒューマニズムに満ちたいい作品だった。