映画「ビリー・エリオット」(邦題「リトル・ダンサー」)を観た。
本作品の舞台である1980年代は、IT関連企業が産声を上げようとしている時代ではあるが、スマートフォンとインターネットが次代を変えるにはもう20年ほどかかるという過渡期で、鉄鋼や化学工業などの重厚長大産業が主役の座を降りようとしているときだった。
ましてや炭鉱は、前時代の名残みたいな産業で、終焉が目に見えていた。日本では1970年頃に、石炭産業はほぼ終了している。世界中の炭鉱町は、未来のない虚無感に満ちていて、大人は自分たちに明日がないことをなんとかごまかして生きていた。本作品のダラムは、その雰囲気が非常に濃厚で、尻すぼみの炭鉱にしがみついて生きていくしかない町の、虚しさに満ちた空気を感じさせる。
住人たちはITも知らず、昔ながらの家父長的なパラダイムに縋って生きている。男はこうだ、女はこうだというパターナリズムで教育された子供たちは、主に女子がやることをやる男子を、差別用語で非難する。みずから進んで差別者になるのだ。目上とか目下という上下関係が存在して、目上の者が目下の者を殴っても、罪に問われることはなく、仕返しは許されない。
そんな中でも、自由な精神性を獲得することはできる。パラダイムから外れることだ。変革は常に周辺から始まる。社会の中心にいる人間たちが、その安寧な居場所を手放すことはない。それは強者の立場だ。弱い者たちの中にこそ、変革があり、革命がある。
ビリー・エリオットは立場の弱い子供だが、精神は自由だ。殴られても殴り返すことをしない代わりに、従うこともしない。好きなことをやり続ける強い意志がある。本当に弱かったのは、ビリーの父親であり、兄であった訳だ。見事なストーリーだったし、映画としても面白かった。