映画「シビル・ウォー アメリカ最後の日」を観た。
タイトルを見て、先ずシビリアンコントロールという言葉を思い出した。学校では文民統制というふうに習った言葉だが、文民って何?と教師に聞いたら、軍人ではない人だと説明された記憶がある。
本作品のタイトルは、おそらく内戦という意味なのだろうが、civil という言葉には民間という意味もあるから、もし内戦になったら話し合いなど通用しませんよと、文民がまるで活躍しない状態を皮肉っているのかもしれない。
政府軍と戦うWF(West Force)は、テキサス州とカリフォルニア州の連合という設定で、保守的なテキサス州とリベラルなカリフォルニア州も、軍事となれば簡単に手を握り合うことができる訳だ。
主役は記者とカメラマンの一行で、そこに加わった新人カメラマンのジェシーがトリックスターの役割を果たすのだが、ジェシーは戦場カメラマンとして撮らなければならない場面の重大さにも気づいていく。そのあたりは面白かったが、あとはただ無慈悲で悲惨なだけだ。
日中戦争の南京大虐殺をでっち上げだと主張する人々がいる。反知性派の右翼の連中だが、政治家の中にも近い主張をする連中がいる。もし当時、戦場カメラマンがいて、写真でも動画でも撮影して持ち帰ることができていたら、どうなっただろうか。もちろん日本国内に持ち帰っても、軍事政権が写真も動画も破壊して、事実をもみ消すだろう。連合国側に渡したとしても、軍事政権は、捏造されたものだと主張したかもしれない。それでも、戦場を撮影することは、歴史にとって必ず有為なものとなる。ジェシーはそう信じたに違いない。
筒井康隆の小説に「東海道戦争」がある。1976年の発売だから、48年前だ。東京と大阪が戦争を始めて、東海道が主な戦場になる話である。主人公の作家は、知らないうちに戦争に巻き込まれて、いつの間にか守備兵となって手榴弾などを渡される。そして戦争の非情な暴力を目の当たりにするというストーリーなのだが、50年近く前に書かれた小説とは思えないリアリティがある。本作品が筒井の小説から発想を得たかどうかは不明だが、たとえ国内の戦争であっても、弱い人、無辜の人が大きな被害を被ることになる。
戦争をしないために政治家がいるのであって、有権者は戦争をしない政治家を見極めて投票しなければならない。しかし日本国内も、海外の国々も、戦争をする政治家が数を伸ばしている気がする。未来は映画よりもずっと暗黒かもしれない。