三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

映画「花嫁はどこへ?」

2024年10月14日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「花嫁はどこへ?」を観た。
映画『花嫁はどこへ?』公式サイト|2024年10月4日(金)公開

映画『花嫁はどこへ?』公式サイト|2024年10月4日(金)公開

すべては、ありえない“かん違い”からはじまった―。取り違えられた2人の花嫁の人生のゆくえは?運命のいたずらを幸せに変える感動の物語!

映画『花嫁はどこへ?』公式サイト|2024年10月4日(金)公開

 前日に観たインド映画「ハヌ・マン」はあまり面白くなかったが、同じインド映画でも、こちらはとても面白かった。

 インドでは未だにカーストなる身分制度が幅を利かせていて、そのせいで女性の地位が低い状況にある。嫁入りの際に持参金を夫側に渡さなければならないし、男性有利、年長者優遇の家父長制度が生きている。身分の低い女性に、自由はない。だからなのか、インド映画には、女性が無理解な夫や理不尽な境遇から脱出するパターンの作品が多いように思う。
 本作品は、たまたま見合い相手を気に入ったカップルの夫が、急いで電車を乗り換えるときに相手を取り違えてしまったことをきっかけに、女性の自由、自立といった問題が湧き上がる。法律では身分制度に基づく差別は禁じられているが、身分制度そのものはまだ生きているようだ。

 人口が世界一になったインドも、ピークを過ぎて人口減少に転じている。人口減少は経済も文化も縮小に転じる。つまり下り坂だ。下り坂を下るのが大変なことは、日本が先に体験しているが、インドは人口の規模が違うし、パラダイムも決定的に異なる。インドでは家父長制が生きたまま下り坂になるわけで、高齢者が溢れかえって、困窮する未来が目に見えている。
 すると、これまでの価値観では共同体を維持できず、新しい価値観が求められることになるだろう。そのとき活躍するのは、女性に違いないと思う。本作品みたいな映画がたくさん製作されて、多くの女性が勇気づけられれば、インドに未来はある。

映画「ハヌ・マン」

2024年10月09日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「ハヌ・マン」を観た。
映画『ハヌ・マン』オフィシャルサイト

映画『ハヌ・マン』オフィシャルサイト

10.4金 全国ロードショー!|平凡から、最強へ。ある青年が圧倒的力強さを持つ“猿の将軍ハヌマーン”の力を手に入れた!

映画『ハヌ・マン』オフィシャルサイト

 長くてもそう感じさせない作品もあるが、本作品は長くて疲れた。まず世界観が単純すぎる上に、登場人物も単純すぎる。物語は整合性に欠ける部分がたくさんある。戦闘シーンのCGも、大して面白くない。続編ありきのようだが、多分観ることはないと思う。

映画「シビル・ウォー アメリカ最後の日」

2024年10月09日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「シビル・ウォー アメリカ最後の日」を観た。
映画『シビル・ウォー アメリカ最後の日』|大ヒット上映中

映画『シビル・ウォー アメリカ最後の日』|大ヒット上映中

全米初登場1位!A24史上最大規模の制作費&オープニング最高記録を樹立した、現代のアポカリプス。2024年、戦慄とともに、世界の終焉を目撃する。

映画『シビル・ウォー アメリカ最後の日』|大ヒット上映中

 タイトルを見て、先ずシビリアンコントロールという言葉を思い出した。学校では文民統制というふうに習った言葉だが、文民って何?と教師に聞いたら、軍人ではない人だと説明された記憶がある。
 本作品のタイトルは、おそらく内戦という意味なのだろうが、civil という言葉には民間という意味もあるから、もし内戦になったら話し合いなど通用しませんよと、文民がまるで活躍しない状態を皮肉っているのかもしれない。
 政府軍と戦うWF(West Force)は、テキサス州とカリフォルニア州の連合という設定で、保守的なテキサス州とリベラルなカリフォルニア州も、軍事となれば簡単に手を握り合うことができる訳だ。

 主役は記者とカメラマンの一行で、そこに加わった新人カメラマンのジェシーがトリックスターの役割を果たすのだが、ジェシーは戦場カメラマンとして撮らなければならない場面の重大さにも気づいていく。そのあたりは面白かったが、あとはただ無慈悲で悲惨なだけだ。

 日中戦争の南京大虐殺をでっち上げだと主張する人々がいる。反知性派の右翼の連中だが、政治家の中にも近い主張をする連中がいる。もし当時、戦場カメラマンがいて、写真でも動画でも撮影して持ち帰ることができていたら、どうなっただろうか。もちろん日本国内に持ち帰っても、軍事政権が写真も動画も破壊して、事実をもみ消すだろう。連合国側に渡したとしても、軍事政権は、捏造されたものだと主張したかもしれない。それでも、戦場を撮影することは、歴史にとって必ず有為なものとなる。ジェシーはそう信じたに違いない。

 筒井康隆の小説に「東海道戦争」がある。1976年の発売だから、48年前だ。東京と大阪が戦争を始めて、東海道が主な戦場になる話である。主人公の作家は、知らないうちに戦争に巻き込まれて、いつの間にか守備兵となって手榴弾などを渡される。そして戦争の非情な暴力を目の当たりにするというストーリーなのだが、50年近く前に書かれた小説とは思えないリアリティがある。本作品が筒井の小説から発想を得たかどうかは不明だが、たとえ国内の戦争であっても、弱い人、無辜の人が大きな被害を被ることになる。
 戦争をしないために政治家がいるのであって、有権者は戦争をしない政治家を見極めて投票しなければならない。しかし日本国内も、海外の国々も、戦争をする政治家が数を伸ばしている気がする。未来は映画よりもずっと暗黒かもしれない。

映画「鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎 真生版」

2024年10月06日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎 真生版」を観た。
映画『鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎』公式サイト

映画『鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎』公式サイト

映画『鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎』公式サイト

 オリジナル版を鑑賞したのは1年近く前で、殆んど内容の違いがわからなかったが、2度目の鑑賞でも十分に面白かった。
 今回、印象に残った台詞がある。それは幽霊族のゲゲ郎が幼い時弥に語る話で、世の中は変えたい人と、変えたくない人との戦いだという内容である。中島みゆきが「世情」の歌詞で表現したのと同じ意味合いだ。

 シュプレヒコールの波 通り過ぎていく
 変わらない夢を 流れに求めて
 時の流れを止めて 変わらない夢を
 見たがる者たちと戦うため

 本作品は、まさにその構図で出来上がっていた。

映画「ふれる。」

2024年10月06日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「ふれる。」を観た。
映画『ふれる。』公式サイト

映画『ふれる。』公式サイト

『あの花』『ここさけ』『空青』を手がけた、監督:長井龍雪、脚本:岡田麿里、キャラクターデザイン:田中将賀の3人が贈る、オリジナル長編アニメーション映画。最新作『ふれ...

映画『ふれる。』公式サイト

 思考実験のような作品だが、ちょっと物足りない。伝説の生き物「ふれる」の力で、互いに身体を触れ合わせると、相手の考えが流れ込んでくるのだが、相手の考えというのが、意識の部分だけに限定されているところが、思考実験として片手落ちの部分だ。
 人間の心の働きは、意識1に対して、無意識が数万と言われている。また、言語によるコミュニケーションのことをバーバルコミュニケーション、それ以外をノンバーバルコミュニケーションと呼ぶが、伝達がうまくいくかどうかの85%は、ノンバーバルコミュニケーションにかかっている。
 本作品は言語に頼っている上に、表情や仕草の表現に乏しい。無意識のおどろおどろしさについても、おそらく何も考えられていない。3人の友達に共通するのは、本土の人間からバカにされる島の生まれだということだけで、目的を共有している訳でもなく、単につるんでいるだけだ。
 小中学校のときの友達と、大人になったら疎遠になるように、3人はそもそも互いに伝達するべきことが何もない。馴れ合いの関係は、簡単に終了する。設定は面白かったので、3人で同じ事業を共同運営しているとか、衝突するにしても共感するにしても、もっと濃密でのっぴきならない関係性にしていれば、コミュニケーションのありようが切実になったと思う。
「ふれる」の妖怪物語として観ても、あまり面白くないし、人間関係もスリリングでなかったことから、物語としての完成度も高くなかった。思考実験なら、もっと精密でなければいけない。

映画「ビリー・エリオット」(邦題「リトル・ダンサー」)

2024年10月06日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「ビリー・エリオット」(邦題「リトル・ダンサー」)を観た。
映画『リトル・ダンサー デジタルリマスター版』公式サイト

映画『リトル・ダンサー デジタルリマスター版』公式サイト

映画『リトル・ダンサー デジタルリマスター版』公式サイト

 本作品の舞台である1980年代は、IT関連企業が産声を上げようとしている時代ではあるが、スマートフォンとインターネットが次代を変えるにはもう20年ほどかかるという過渡期で、鉄鋼や化学工業などの重厚長大産業が主役の座を降りようとしているときだった。
 ましてや炭鉱は、前時代の名残みたいな産業で、終焉が目に見えていた。日本では1970年頃に、石炭産業はほぼ終了している。世界中の炭鉱町は、未来のない虚無感に満ちていて、大人は自分たちに明日がないことをなんとかごまかして生きていた。本作品のダラムは、その雰囲気が非常に濃厚で、尻すぼみの炭鉱にしがみついて生きていくしかない町の、虚しさに満ちた空気を感じさせる。

 住人たちはITも知らず、昔ながらの家父長的なパラダイムに縋って生きている。男はこうだ、女はこうだというパターナリズムで教育された子供たちは、主に女子がやることをやる男子を、差別用語で非難する。みずから進んで差別者になるのだ。目上とか目下という上下関係が存在して、目上の者が目下の者を殴っても、罪に問われることはなく、仕返しは許されない。
 そんな中でも、自由な精神性を獲得することはできる。パラダイムから外れることだ。変革は常に周辺から始まる。社会の中心にいる人間たちが、その安寧な居場所を手放すことはない。それは強者の立場だ。弱い者たちの中にこそ、変革があり、革命がある。

 ビリー・エリオットは立場の弱い子供だが、精神は自由だ。殴られても殴り返すことをしない代わりに、従うこともしない。好きなことをやり続ける強い意志がある。本当に弱かったのは、ビリーの父親であり、兄であった訳だ。見事なストーリーだったし、映画としても面白かった。