神様がくれた休日 (ホッとしたい時間)


神様がくれた素晴らしい人生(yottin blog)

空想歴史ドラマ 貧乏太閤記44 周りは敵だらけ

2022年10月24日 18時13分32秒 | 貧乏太閤記
そのころ、浅井朝倉は宇土山城を占領しようとさらに攻撃を重ねたが、森可成の家老が数百の兵で必死に城を守って撃退した。
浅井朝倉は京を目指して手薄になった二条御所を襲おうと京に向かった、しかし信長が先発させた柴田勝家が御所を守っていると聞くと、比叡山に全軍が上がった。
さすがに京で柴田などを相手にして足踏みしていれば、戻った信長の大軍に手痛い目にあうだろう、深入りは禁物だ。

信長は信長で他の城も守備兵は少ないから、大坂にばかり関わってはいられなくなった
摂津、河内の守護たちに三好の対応を任せて足利義昭と共に京に向かった

「松永はどうなっておる、都の目と鼻の先にいながら」柴田勝家が明智光秀に怒声をあげた・
「弾正殿は大和に貼り付けになっておりまする、あのお方は大和の国人すべてが敵でございますからなあ、むしろ筒井順慶様を守護になされた方が治まったでありましょう」
「うぬぬ」勝家は地団太を踏んだ、御所を守るより先手となって浅井朝倉退治に行きたいのである。
信長が京に着いて早速戦略会議を開いた「拙者に先陣をお任せいただきたい」勝家が真っ先に口を開いた
しかし信長は「あせるでない、3万の軍が比叡山に籠ったとなれば容易に落とすことはできまい、ここは長期戦の根競べじゃ」
信長はまず浅井朝倉に荒らされた湖南の宇佐山、坂本、堅田(大津)を強化整備した
長期戦になった、朝倉軍はゲリラ戦を展開した、山から下りては織田方の陣所を攻める、被害は甚大であった。
そんな中でも重臣の一人坂井正尚が率いる軍が朝倉に襲われて討ち死にしたのは信長に衝撃を与えた。

秀吉が信長に呼ばれた「藤吉郎、坂井の戦死は朝倉を探るに役立つわ、そなたは比叡山に行き朝倉と和睦の話をしてまいれ、朝倉はそんな話に乗るまいがそれは、あくまで策である、それよりも間もなく12月だ兵糧が底をつく頃と見たが、供に乱波を入れてそれを調べてこい」
命じられた秀吉は半兵衛と供10名を連れて比叡山に上った
当然ながら朝倉義景は「和睦など論外だ、戦うのみじゃ」と言った
秀吉はとぼけて「それは、ごもっともです、ならば日取りを決めてどこぞで正々堂々と一大会戦をいたしませぬか」
「ばかばかしい、信長に申せ、叡山に力攻めでかかって来いとな」
「あいわかり申した、そのように伝えましょう、されば戦場にてまみえましょう」、いつの間にか供が一人消えていたが、秀吉が帰るときには戻っていた。

信長の陣所に秀吉は戻った
「朝倉は12月早々には越前へ帰るでありましょう、兵糧は今少しありますが雪が降れば越前からの兵糧は望めませぬ、帰らざるを得ません」
秀吉の読み通り、今度は朝倉から和睦の話を持ってきた、信長も朝倉が消えれば延暦寺、本願寺に集中できるから歓迎した。
朝倉の帰路を襲わない誓詞を交わして和睦は成立した、雪の降る中を朝倉軍は越前に帰っていった。ようやく信長は危機を脱した。
「不思議でなりませぬ、儂が朝倉義景なら本願寺、延暦寺、三好、それに六角、斎藤の残党が一度に蜂起した今こそ決戦かと、事実われらは苦境に陥っていましたから、どうなったかわかりませぬ」
「さよう伊勢でも長島の一揆が呼応したからのう、四面楚歌じゃった」
「お屋形様には宇佐山、長島で弟君が二人も戦死されて・・・」
佐和山城に揃った織田家の面々が信長を首座に置いて語り合っている
信長が口を開いた
「朝倉軍3万と豪語しても浅井、一揆、残党の寄せ集めよ、突き詰めて申せば朝倉は姉川での恐怖心が未だに残っているのであろうよ、それゆえにわれらが大軍で戻ってきたら山の上に逃げ込んだのだ、まともに向かってこれるわけがない、しかも堅田あたりの土豪は次々にわれらに寝返り、もはや浅井朝倉の時代は終わる、浅井家を代表する名将磯野員昌(かずまさ)でさえ浅井を見限ったではないか
また延暦寺、本願寺も背後を脅かしたが打って出ることも、背後をつくこともせなんだ、奴らは同志に見えても同志ではない、所詮は自分の領域さえ安全であればそれ以上の危険を冒す気にはならぬのだ、いくら武装をしても坊主は坊主よ武家ではないわ」



次回45話は所用のため27日に掲載します。

黒姫高原

2022年10月24日 08時16分47秒 | ドライブ
地元スタンドより7円安い158円(セルフは154円)のGSチェーンの会員なので、100km弱離れているが目的地へ行く途中なので寄った。
紅葉はどうかなと、湯ノ丸高原~高峰高原~小諸の懐古園に行こうと日帰り出発した、これだけ走ると500km近くなるから気合を入れて出発した。
ところがスタンドで「リアワイパー劣化してます」「じゃあ取り替えて」
これが私の悪い癖。 すると「今気づきましたけど、タイヤがちょっと危ないことになってます」ときた。
下りて見たら、そんな気がしたが、ここで新品交換と言うわけにはいかない
「どうせスノータイヤに変えるから」「ああ。そうですか、じゃあスピード出さないように気を付けて行ってください」
それで、さすがに高速を走る気が失せて、近いところで黒姫高原に目的地を変更
水を差されたというか、助かったというか
だけどコンビニに寄ったとき見たら、たしかに減ってはいるが危険レベルではない、ワイパー簡単にOKしたからタイヤもと思ったのかも
サービスがいいのか? 悪乗りしたのか? わからないが、もう最初の目的はあきらめた。
コスモスがウリの黒姫高原だが、そんなのもうおしまいで何もない
それでもないなりに写真でも撮らなければ時間がつぶせない、あるものを探して撮ってみた。

これは近所のスズメ








紅葉もほとんどないし
タイヤも脅されたほど悪くはないから東飯綱高原まで足を延ばして霊仙寺湖へ行った、一日曇りでパッとしないから写真は撮らなかった。
シートを倒して、駐車場で1時間ぼ~っとしていた、これも悪くない
少し寒いくらいだったが、4時ころ急に雨になったので退散、帰りは高速だ、県境辺りでは小粒のあられ状態で足元が冷える。
こんなことなら最初から高速で目的地まで行った方が良かったか、それとも神様が止めてくれたのか?
早めに帰宅出来て良かったかも。


空想歴史ドラマ 貧乏太閤記43 石山本願寺参戦

2022年10月23日 18時11分57秒 | 貧乏太閤記
その後、数か月で織田軍の中に孤立した横山城と佐和山城は木下秀吉、丹羽長秀の手で落城した。
信長は二人の手柄をたたえて、長秀に3万石加増と佐和山城、秀吉に1万石加増と横山城を与えた。
佐々、柴田、明智、梁田、中川、佐久間らにも加増があった。
秀吉は小さいながらも本格的な城の城主になった、そしてここが対浅井の最前線基地になった、小谷城までおよそ10kmしかない。
ここに弟の小一郎と前野長康を入れて、秀吉は京に戻ったが、その前に信長に挨拶をするため岐阜に向かった。
久しぶりに家に戻った秀吉はここで半月を過ごした
もちろん、ねねともラブラブの時を過ごしたのである。
秀吉と言う男、一人の女に入れあげるタイプではなく、何人でも同時に愛することができるようである。

朝倉軍は手痛い傷を負って越前へと引き上げて行った、一乗谷にいる朝倉義景は敗軍の大将、朝倉景健(かげたけ)を諸将居並ぶ前で激しく罵った、
このことは面目丸つぶれの景健だけでなく、同席した一門の諸将にも暗い影を投げかけた。
「これに懲りて朝倉は一年は出てこれまい、先に浅井をかたずけてやろう」
信長は大勝利に機嫌が良い
「その前に近江の仕置きをして足場を固めておこう」どうしても京と岐阜の間の近江が弱く感じる、甲賀は蒲生親子がしっかり固めているが、琵琶湖の南部が安定していない、湖西は金ケ崎の退き陣のとき朽木元綱が味方になったことで少しは安心だが、朽木の領土は山間部だ
湖西の沿岸部はまだ浅井、朝倉の息がかかっているし、六角の残党や三好の残党が京から大津にかけて時折出没して火をかけたりしている。
いままで責任者を決めていなかったために対処が後手に回った、そこで点在する主要な城に重臣を配置することにしたのだ
彼らは皆、城持ち大名に出世した、最前線の横山城の秀吉はじめ、佐久間、柴田、中川、森長可、丹羽などである。
これで岐阜と京の間は確実に確保できる、そして京の防御、浅井への出撃拠点となる、これは大きい変革だ。
さらに将軍足利義昭の守護大名として摂津、河内(大坂)、大和(奈良)、山城(京)には細川、三好(義継)、池田、和田、松永らが配備された。

京に上った信長は、将軍義昭に先勝報告をしてから京都奉行に支持を与えて岐阜に戻った
「浅井、朝倉は数千も戦死してしばらくは鳴りを潜めるであろう、だが休ませはせぬ、来月には浅井を攻め滅ぼそう、長政め妹婿でありながら、もはや反故にしても良い朝倉ずれに義理を張って儂を攻め殺そうとしたこと絶対許さぬ」
そんなことを利家ら側近に言っていたが、そこに京から急ぎの使者がやってきた。
「申し上げます、三好勢が四国より大軍で大坂に上陸したよし、美濃の残党らも加わり、その数1万を超えるとのことでございます」
「なに!三好だと、性懲りもなくまた鈍亀が頭を出したか、それにしても1万とはよく集めたものだ、われらも出陣じゃ、将軍家にも伝えよ」
「ははあ」
「浅井、朝倉を懲らしめてまだ半月と言うに忙しいことよ、休まることがないわ」
信長は直ちに重臣たちを集め4万5千の大軍で摂津(大坂北部から兵庫県南部)に向かった、ここに将軍義昭も山城(京都)の諸将凡そ3000を引き連れて合流した。
「織田軍が大軍でやってくる」報告を聞いた三好方の総大将旧管領嫡子細川信良、三好康長、十河らがほくそ笑んだ。
「信長め、まんまと罠にかかったぞ、袋のネズミじゃ、直ちに本願寺と浅井朝倉に遣いを送れ、作戦通りに進めると」
信長らは天王寺あたりに陣を張った、一方の三好方は野田、福島の砦に籠って迎え撃った。
しかも淡路、摂津の土豪に加え、鉄砲を得意とする紀州(和歌山)の雑賀(さいが)衆など5000も加わって頑強に抵抗した。信長軍は足止めの形になった
信長が叱咤するが、敵は手強い、幕府軍の一部は襲撃されて敗退したほどだ
しかも、そんなところに伝令が来た
「大変です、本願寺が蜂起して信徒を動員しています、このままでは脇腹から攻められる恐れが」
巨大な宗教勢力である本願寺とは税や土地問題で日頃からもめ事が多かった
しかも本願寺は全国の一向一揆の総本山なのだ、「織田ごときに従うものか」と敵愾心をあらわにしている。
石山本願寺は、後の大坂城の地にあり、淀川をメインに迷路のような川が天然の堀となって容易に攻め寄せられない、しかも川を運河として寺から大坂湾に自由に出入りができる
僧侶などといってもお経を詠んで寺に閉じこもっているわけではない、旧教の奈良仏教の興福寺などは大和の武士などに従うどころか逆に従わせるほどの力を持った。
平安時代初期の奈良から長岡京遷都の一因も、帝が奈良の寺院の巨大化を嫌ったからだと言われている
今は奈良に加えて石山本願寺と各地に広がった一揆、比叡山延暦寺などが武家顔負けの軍事力を備えて治外法権を維持しているのだ。
信長は西の三好軍、東の本願寺に対して軍を分割しなければならなくなった
そこにまた追い打ちをかける伝令が来た
「琵琶湖西岸に浅井、朝倉勢が攻撃を仕掛けてきて宇土山城の森可成(よしなり)様、織田信治様討ち死にいたしました、六角や斎藤の残党や一揆勢も加わっている様子で、その数は2万とも3万とも」
この報告を聞いた信長は前線を下げた、信治は信長の弟である、宇佐山の守兵は3000、10倍の敵ではひとたまりもない
「おのれ、三好と本願寺と浅井朝倉は最初からこれを狙っていたのだ、挟み撃ちにしようと、まんまとハマってしまったわ、敵ながらあっぱれよ」
またもや信長は退き戦を強いられてしまった。
















ありがとう小平奈緒さん

2022年10月23日 07時32分11秒 | スポーツ全般
スケート界で一番のファンだった小平奈緒選手(相澤病院)が引退ラストレース
長野市のMウェーブで行われている「全日本スピードスケート」に500m一本に絞ったラストレースに出場。
ライバルの高木美保選手(2位)を制して全選手中ただ一人37秒台(37.49)を出して文句なしの優勝(8連覇)を飾り、有終の美となった。
長野県茅野市出身36歳、オリンピックで女子スピード初の金メダルを獲得するなど、日本のスピードスケート界をリードしてきたレジェンド
高木美保というマルチ5刀流の世界的スケーターの後輩も現れて、安心の引退
今後はどうするか知らないが、ちょうど私の半分の年齢、先は長い、後進の指導とかするのかなあ?
私と同じ5月生まれもお気に入り。
ご苦労様、ありがとう!!!



逞しい後輩、高木さんと2ショット


空想歴史小説 貧乏太閤記42 姉川の戦い

2022年10月22日 19時33分52秒 | 貧乏太閤記
そんな心配をよそに秀吉は帰京そうそうに、ふじの宅へ入り浸って膝枕でゆっくりしている。
「やはり戦場より、ふじの膝の方が良いのう、ここが一番安心できる」
などと鼻の下を伸ばしている
ふじはまだ17歳、秀吉は33歳になった、歳が倍も違うので親子のようだ。
そうは言うが本妻のねねも、まだ22~3歳だから若い、だが秀吉はねねよりもふじを可愛がる、やはり女房と愛妾の違いなのであろう、ふじには生活臭がない、可愛い子猫を可愛がるに等しい思いなのだ。
「とのさま」ふじが意を決したように口を開いた
「なんじゃ? どうした」
「ややが出来たような・・・・・」
「・・・・・」
「ややが」
「・・・なんじゃ、儂の子ができたと、本気か! 本当か?」
「医師がそう申しました」
「儂の子が、本当に儂の子ができたのか、ねねとは10年近くもできなかったが、儂に子種はあったのじゃ、そうじゃあったのじゃ、めでたい、めでたいぞ」
秀吉は、ふじを抱きしめて頬ずりをした
「痛い、痛い、殿様痛いですよ」「ああ、すまぬすまぬ」
嬉しさと、ねねにどういうべきか、それはそれで頭が痛い秀吉である。
岐阜に屋敷は賜ったが広いとはいえ、側室を同居させるにはちと狭い、秀吉は当分ふじの存在を隠し通すことに決めた。

4月に大敗北を喫した信長は京に戻って軍の整備を行った
浅井が裏切ったことで京と岐阜を結ぶ湖南から関ケ原にかけての幹線道路の確保が危うくなった
信長は素早い、琵琶湖の南部の東西にある10余りの城を強化させて、そこに宿老の柴田勝家、佐久間信盛、森可成(よしなり)などを入れて幹線の確保に勤めさせた。
案の定、信長が大敗したと聞いた六角の残党が旧領奪回のために蜂起した、5月のことである
しかし織田軍団でも最高のメンバーをそろえた近江軍はたちまちこれを打ち破った、敵は多くが打ち取られ四方八方に逃げ堕ちて行った
これを見た湖南の浅井方に味方していた土豪も信長に降った
佐和山、安土、坂本を抑えた織田軍は、いよいよ浅井長政、久政父子の籠る小谷城を攻めることにした、これが6月だから敗戦からわずか3か月で織田軍は立ち直っていた。
小谷城に信長の妹、市が嫁いでいる、長政との間には娘も3人生まれて夫婦は仲睦まじいと聞く、のちに魔王と言われる信長でさえ一抹のためらいが生じた
だが、それを振り払って出陣を決めた。

琵琶湖南部から、東岸にかけての織田軍の支配地域は、わりと狭い
六角から奪った観音寺城、安土城(この時は小さな城である)あたりが最前線で、20kmほど先は浅井領である、浅井の最前線は佐和山城だ。
しかし織田の名声に浅井に味方していた土豪、堀氏が内応してきた。これは丹羽長秀の手柄であった。
「さすがは五郎左、よおも降らせたものよ」信長に浅井攻めの橋頭保ができたのだ、堀の領土は佐和山城より北東の地域で、これは浅井領にかなり深く入っている
信長は直ちに兵を起こして2万の大軍を堀氏の拠点に進めた
佐和山城には1500の兵で包囲して後方からの攻撃を封じさせた、信長の陣の北5kmほどには横山城がある
これもほおっておけば万一の時、後方を抑えられてしまうから木下秀吉が2000の兵で取り囲んだ
そして信長は横山城を横目にさらに北へ進み、小谷城直下、今の北陸高速道の辺りにまで兵を進めて陣を張った
信長にしても小谷城を見るのは初めてである
「ふうむ、これは難解な城である」
東方に連なる300mほどの連峰の中に、長い尾根を持った小谷城のシルエットがあった
尾根の左右に二つの廓がある、今風に言えば「ツイントップ」だ
一方は長政が、一方は隠居の久政が守っているという
「これは力攻めしても容易に落ちまい、もっとこの城を調べてからの方がよさそうだ、まずはこの一帯を片付けてしまって裸城にするのが良策であろう」
信長は決断した、だが思惑は外れた、越前から朝倉勢が8000を率いて浅井の援軍にやってきた。
尾根伝いに小谷城に入城して、高みから織田軍を睨んでいる、小谷城と織田軍の平地までは2~3kmしかない
「ここは不利である、姉川まで下がろう」高地から攻め下る方が断然有利だ
信長は高低差の不利を悟って本陣の虎御前山(とらごぜやま)から5kmほど南下して姉川の南を目指した。
退却を始めると、たちまち浅井、朝倉軍は15000の兵で追撃を始めた
秀吉と光秀の金ケ崎での撤退戦と同じ状況になった、今度の殿軍は佐々隊と梁田隊であった、鉄砲を撃って必死に防いだ
敵はこの激しい抵抗にあって攻めきれず、信長たち本隊は姉川に着陣した
そこに徳川家康も自ら5000の兵を率いて援軍にやってきた
「おお三河殿、これで勝ったも同然じゃ」信長は歓待した。

姉川を挟み北には浅井、朝倉15000が布陣、南には織田、徳川が25000で布陣している。
近江は賤ケ岳方面の北は険しい山岳地帯だが南に下ると平坦な実り豊かな平野が広がる、平坦な広い大地を何本もの小さな川が小谷山など東の峰から西の琵琶湖に注いでいる。
秀吉は敵国の中で、横山城包囲の任務を続けているから姉川の戦には出ていない、昔このあたりを行商して歩いた時を思い出していた。
あの頃、駿府で10代半ばの初女と出会い、そしてわかれて近江から京、大坂と放浪に等しい行商をして歩いた
あの頃はまだ商人になろうか、武士になろうか迷いに迷っていたのだった
そうして今はここで一隊を率いる大将になっている、もう20年近くも前のことだが昨日のように思える
しかも初女の娘と今は京で共に住んで男の子供までできた、秀吉は幸せの絶頂にいた、「もっともっと出世するぞ」欲も出てきた。

戦闘が始まった、信長軍は兵を7段の備えにして鉄壁の守りである
そこに決死の浅井軍が川を渡り突撃してきた、「勝つしか道はないと思え、信長の首を狙って突撃せよ」
たちまち浅井軍は怒涛の攻撃で織田の一陣、二陣を破ると、後方から新手の浅井軍が突っ込んで最初の軍と入れ替わった
これまた火を噴くような攻撃で、信長の軍は支えきれず三陣も崩れた、信長軍は柴田勝家、佐久間信盛、明智光秀らが必死に防戦するが浅井の波状攻撃はすさまじい
四陣も半分崩れて、浅井軍からは信長の本陣もうかがえるほどになった。

一方、川下では朝倉軍8000と徳川軍5000が川の中で激闘を続けている、こちらも兵数で劣る徳川軍が善戦して朝倉軍を押している。
ここにいる4つの大名家の中では徳川の三河兵は抜群の強さを誇る、何十年も貧しさと服従の苦汁を舐めてきた武士たちである。
浅井の近江兵は決して強い軍ではない、だが敗れれば親戚でありながら裏切ったわれらを信長は根絶やしにすることが目に見えている、勝つことだけが命を守ることになる、決死の兵になっている。
織田の兵は決して強くないが、まずは兵数が圧倒的、兵器も圧倒している
そしてほかの大名にはが持たない軍団制を採用している、これを理解できる大名は信長しかいないだろう
織田信長と言う男、生きる時代がほかの大名より300年進んでいる、頭の構造が封建大名と全く違っている、これが織田の強みなのだ。

有利と見た浅井が総攻撃を仕掛けた、一斉に川を渡り始めた、ところが横手に回って待ち構えていたのは佐々成政の500挺の鉄砲隊であった
渡河する浅井軍の真横を一斉に放った、浅井の騎馬武者、足軽問わず川に倒れこんだ、たちまち川は血で真っ赤に染まった
第二射が続いた、またしても多くの兵が川に倒れこんだ、浅井の一隊が佐々の鉄砲隊に向かって走り出した
鉄砲隊は接近戦には弱い、たちまち崩れて逃げ出した、とそこに徳川軍の一隊、本多平八郎忠勝が500の兵で浅井の背後から突っ込んだ
佐々に向かっていた浅井軍は背後を襲われて、たちまち崩れた
それを見て織田軍の柴田、明智の軍勢も一気に川に押し出して浅井軍と激突した
本陣の信長は今が勝機と見て「又左(前田利家)今じゃ、徳川殿の後詰をせよ」
浅井、朝倉、徳川は大将のいる本陣以外はすべてが戦場で押したり引いたりの戦いを2時間以上にわたって行って疲労困憊だ
だが2万と言う織田軍は、まだ戦っていない無傷の精鋭部隊が5000残っている

その一つ前田隊1000騎が一斉に、川下で戦っている朝倉、徳川の中に突入していった、徳川と5分の苦戦をしていた朝倉に前田隊の新手が突っ込むと、疲労した朝倉軍はなすすべもなく崩れた。
続いて梁田隊も朝倉軍本陣目指して駆けだした、「もはやこれまで」と浅井、朝倉は戦場離脱を図り、小谷城目指して敗走を始めた。
勝利者の織田軍は追撃して多くの敵兵を討ち取った、小谷城に逃げ込んだ時には戦場には数千の浅井、朝倉兵の屍が倒れていた。
織田、徳川軍の死傷も少なくなかった、だが織田、徳川軍の圧勝であった、織田、徳川軍は勝どきを挙げた。





静かな午前

2022年10月22日 11時19分05秒 | ライフスタイル
久々の曇り空、こんな日は何して過ごそうか
朝8時、朝風呂でサッパリ
面会は無理と知りつつ2週間意識不明の友の見舞いに病院へ
案の定、会えない、憔悴しきった家族、早々に退去。
四種類の花の球根植えつける、もちろん初めての体験
咲くやら、咲かないやら、それも来春のお楽しみ。
今は座椅子に座ってのんびり庭のコスモスを眺めている。
何もかも捨ててしまえば心だけ軽くなる。
去年の秋には予想もしなかった、こんな暮らし。



空想歴史小説 貧乏太閤記41 命がけの敗走

2022年10月21日 17時36分29秒 | 貧乏太閤記
金ケ崎城に着いた三将は軍議を開いた
鉄砲は明智、木下合わせて800挺はある、木下隊、明智隊交互に撃って、弾込めの時間を稼ぐ、池田隊は弓隊、槍隊、騎馬隊を後方で構えて鉄砲隊の合間に追いすがる敵に攻撃を仕掛ける
敵勢に衰えが見えたら、最後の一射をかけてあとは足軽は胴丸も捨てて身軽になって一気に逃げること、そう取り決めを行った。

そして敵は数千の部隊が押し寄せてきた、打ち合わせ通りに反撃を開始した
だが池田隊は志願したわけでもないのに、取り残された不満からか臆病風に吹かれてあまり役に立たない
明智、木下隊は必死に戦ったが、少しずつ討ち取られていく、金ケ崎城も持ちこたえることができず、池田隊を叱咤激励して何とか防戦してもらった
何しろ木下隊500、明智隊500に対して池田隊は3000もいるのだ
しかし敵は新手を繰り出してくる、こっちは戦いぱなしだ、敵の勢いが少し鈍ったので逃げることにした
池田隊が先頭、後は木下、明智は入り乱れての敗走だ
敵は騎馬を先頭に追いかけてきた、逃げ足の遅いものから討たれていく
藪の中に逃げ込む者もいれば、谷に向かって転げ落ちていく者もある
皆、身軽になって逃げようとする
秀吉たちももう背後に敵が来るのが見えて観念した、「南無阿弥陀仏」思わず口からお経が出てきて死を覚悟した。
その時、道の両方から鉄砲の音が轟いて、追ってきた敵の騎馬武者が相次いで落馬した、それを見て織田方のいくらかが反撃に転じると、そのあとを来た雑兵は恐れて数町も後方に逃げた
再び、鉄砲が火を噴くと敵勢の影が消えた。
左右の林から出てきた侍大将は「われらは徳川の兵でござる、このようなこともあろうから援護するようにと殿様から命じられて鉄砲200と槍隊300で待ち受けていたのでござる、敵もいったん退いたようだから逃げましょう、われらはこれにて」
林の中に隠しておいた馬に乗って徳川隊は去っていった、足軽も後を追った
秀吉、小六、前野、半兵衛も敵の捨て馬を拾って乗馬した、「ゆくぞ、皆駆けよ」、武者はやはり捨て馬を拾い、足軽は裸同然の姿で駆けだした
「命あっての物種じゃ~なんまんだ~ぁ」歌ともつかぬ掛け声を上げて。

同じころ真っ先に駆けた信長は朽木谷に到着した、このあたりは朽木元綱の領地である、元綱が敵なのか味方なのかは信長にもわからない
前方に鎧武者の集団が騎乗してこっちを見ている、元綱は浅井の被官でもある、すなわち浅井に請われれば応援の兵を出すくらいの関係である
しかし足利将軍にも忠誠を誓っているから本当の姿はわからない。
もし元綱が浅井に通じていれば信長の首は琵琶湖を超えて、浅井か朝倉に送られるであろう
「人間五十年~~」信長はつい口ずさんでいた、「天命を待つのみ」
騎馬武者が3騎ゆっくり近づき下馬して片膝をついた
「織田様、われらは松永弾正が家臣と、細川の家臣でございます、将軍より朽木元綱をお味方にするよう命ぜられて今、朽木殿も快く引き受けてくれました
もはやここまでくれば安心でございます、屋形にて一息ついてください
都よりまもなく500騎ほど援軍も参ります故、ごゆるりと茶など」
信長が発つ頃には続々と敗残の家臣たちも追いついてきて、その数は数千に膨れ上がった、信長は無事に京に戻ってきた
しかし、翌日も殿軍の明智光秀、木下秀吉は帰ってこなかった、その家来たちも

「前田さま、うちの人はどうなったのでしょうか?」
訪ねて来た利家に、すがる様にねねが問いかける
秀吉は既に出世をしたが、利家も昨年利家の兄が死んだので前田家の相続人となり尾張荒子城主になった
自分の禄と合わせて5000石近い城持ちの大身になっていた。
「藤吉郎殿は殿軍となって、もっとも危険な仕事を志願された、いまだ京にはついていないようだが、一緒にいた池田隊がそろそろ戻ってきているから、間もなく無事に戻られるであろう」
「本当ですか? 本当に無事に戻るでしょうか」涙声である
「大丈夫じゃ、仏の道にも精通されているから神仏のご加護もあるだろう」
「ああ、そうでしたね、子供のころから運が強いと申しておりましたから、きっと大丈夫ですね、ささどうぞお上がりになって粗茶ですが」
利家が家に上がって茶を呼ばれていると、そこに、秀吉の母ナカも出てきた
「戦とは恐ろしいものじゃ、ひいの父親も戦争に出て傷がもとで死んでしもうた」
「あらまあ、母上、まだひいとおっしやる、信長様から秀吉と言う立派な名前をいただいたのに」
「なあに、儂から見れば100になってもあの子は、ひいじゃ」
「まあまあ、家の中ではそれでも良いが、世間では皆、秀吉殿に心服しておりますし家来も多いですからのう」
「わかりました、秀吉殿と申します、えろうなって遠くに離れていくようじゃ、滅多に家にも帰ってこぬしのう
子を作る時間もたまには無いと一生子なしじゃのう、ねねさ」
遠慮のない、ナカの言葉にねねの表情が曇った、結婚して9年になるがまだ子が生まれない
「おおい、儂じゃ、兄者が帰ってきたぞ」
やってきたのは弟、小一郎だ「今、使いが来てのう京に着の身着のままでついたそうじゃ」
「それでけがは? 腕はちゃんとついておるのか?」ナカが聞く
「大丈夫じゃ、多少のかすり傷はあるようだがケガはしておらんとのことじゃ、兄者は大手柄じゃぞ、無事にお屋形様や徳川さまを守ったのじゃから」
「その通りでござる、この戦一番の勲功でであろう、ただ負け戦故恩賞はないが、お屋形様のことじゃ近いうちに復讐するであろう
特に身内の市様の夫でありながら、お屋形様の命を危うくした浅井長政は許さぬであろう」
利家も、よほど悔しかったと見えて小一郎に興奮気味に語った、小一郎は京で留守居をしていたから戦場の様子はわからない。

















お~い 空よ 雲よ 秋は寂しいぞ

2022年10月21日 06時28分40秒 | 心 思い
秋が寂しい いつも秋は寂しい
それなのに 昨日今日の秋は 特別寂しい









秋空の 深さを知り 歳時記読む


水飲んで すぐ十月の 蒼空へ      由利雪二「花こぶし」







きみはいま いずこの秋を 見てるやら







空想歴史小説 貧乏太閤記40 浅井の裏切り

2022年10月20日 17時23分05秒 | 貧乏太閤記
秀吉が半兵衛と話している
「お屋形はどんどん大きゅうなるばかりじゃ、不思議なお方よのう」
「そうですな、運があるということは天の命に、お屋形様の命運が一致しておるのでござる、副将軍になるとならざると足利将軍家の宰相的立場に変わりはありませぬ、将軍と言えば腐っても鯛で田舎大名には権威が通じますからなあ」
「いかにも、将軍の命令はお屋形様の命令、将軍の命(めい)を無視すればそれは反逆、追討の理由になるからの、追討となれば一番手は誰かのう」
「六角がお屋形様に嫉妬して反逆したように、かっては将軍を支えたと自負している者がおりましょう」
「ふふふ 名門を鼻にかけるやつか、今川同様に公家風がお好きな御仁じゃな」
「さようでござる、次の敵は越前朝倉になりましょう」
「だが、浅井長政はどうする、市姫様の夫、朝倉の同盟者、さてどうする」
「まさか反逆はないでしょうが、どちらにも味方はできませぬ、それでも万一に備えておくことは肝要かと」
「うむ、今から蜂須賀党を越前と浅井に潜り込ませておくか」
「それがよいかと、ことが起これば殿の真価が問われますぞ」
「うむ、心してことに当たろうぞ」

半兵衛が退出すると、蜂須賀小六を呼んだ
「小六殿、明智十兵衛はいかがかな」
「ははは、光秀めは殿を昔自分が殺そうとした小僧の藤吉郎とは夢にも思っておりませぬ、というより忘れ去っております」
「さもあらん、あのようにして多くの者を死地に貶めて出世してきたのよ」
「それにしても恩ある朝倉義景(よしかげ)まで騙すとは」
「いや、義景もずるいのよ、義昭の夢は迷惑以外の何者でもない、厄介払いできたと喜んだであろう、
しかしお屋形様が上洛を果たし、義昭さまを将軍に復活させるとは夢にも思わなかった、
だから今になって『儂が一番の功労者だ』などと寝ぼけたことを申して居る」
「だがうまくやったのは光秀でござる、いきなり流浪の身から老臣に取り立てられるとは」
「確かに才は抜群だ、しかも美濃の重臣の出で濃姫さまの従兄、御屋形様の義父である斎藤道三様にも不利がわかっていて味方した、
お屋形様にとっては恩人とも親戚とも言えるからのう」
「そうじゃ、近江の浅井と、越前の朝倉に間者を放って両者の往来を調べ逐一知らせてくれ、おそらくお屋形様は越前攻めを始めるであろうから
それが決まれば浅井も朝倉も何か動き出すであろう」
「わかり申した、早速に手配いたしまする」

大和は鎮まったが、今度は阿波(徳島県)に逃げ帰っていた三好勢が信長が居なくなった隙をついて再び京に攻め込んできた
突然だったので将軍義昭は驚いたが明智などの直家臣が奮闘している間に、秀吉ら織田軍、摂津(大坂)の大名たちも救援に駆け付けて三好勢を追い払った
信長は驚いて再度上洛して、仮御所にしていた京の寺では危ないと思い、二条御所を建造して義昭をそこに移した
御所に入った義昭は水を得た魚のように活発に動き出して、各地の守護大名に自らの権威を知らしめる手紙を次々と発送した。

徳川家康など主だった大名が朝廷と将軍家への献金を持ち続々と上洛した
遠くの大名は代理を送ってよこした、だが朝倉だけは返事もよこさない
ああだこうだと言い訳をして上洛要請に従わない、その腹の内は、のこのこ今頃上洛していけば信長の風下に立つのは明白だったからである
「信長め、成り上がりの小大名のくせに儂に命ずるとは腹立たしい、だれが上洛などするものか、迎えの塗越しを差し向けて儂に土下座で出迎えるならば行っても良いと言ってやれ」
義景は豪語したが、その言葉を待っていたのは信長の方であった
「義景め、自ら墓穴を掘ったぞ、今のわしの立場が見えぬ愚か者だ、これで朝倉を攻める口実ができた」
信長は「将軍様に対する朝倉の無礼許しがたく、これを許せば天下の大名で将軍家に従う者はいなくなりましょう、ぜひ信長に征伐をお命じください」
義昭もかって越前に流れて朝倉の世話になること3年だったが、朝倉に三好退治の上洛軍を要請したが取り合ってもらえなかったうらみがある「思う存分心のままにするがよい」

元亀元年(1570)ついに信長は3万ともいう大軍をもって岐阜を発った
三河の徳川家康も自ら3000を率いて応援に駆け付けた
浅井長政は同盟者だが朝倉とはもっと前からの同盟を結んでいるので、信長は声をかけることをしなかった、信長の気遣いである。
この遠征には秀吉も兵500を率いて加わっている、その大部分が鉄砲隊である
もちろん蜂須賀、前野も一隊を率いて参加している
信長軍は敦賀に至り、手筒山城を皮切りにたちまち敦賀の城をすべて落してしまった。
いよいよ木の芽峠を越えれば越前朝倉の本拠が迫る
そんなとき、信長の宿所に秀吉がやってきた「緊急でござる」
「いかがした藤吉郎」「大変でございます、浅井領に忍ばせていた間者からの報告で浅井が裏切り兵をこちらに差し向けています」
「まさか、われらへの援軍ではないのか」
「違います、この軍は浅井の隠居久政さまから発されたとか、浅井の兵もたしかに織田を挟み撃ちと申しているとのことです」
「まずい、まずいぞ」信長は爪を噛んだ
直ちに主だった大将が信長に呼び出された、徳川家康もいる
「われらは間もなく袋のネズミになる、東街道を行けば朝倉と浅井の挟み撃ちで全滅じゃ、西街道を朽木越えで京まで一気に突っ走るぞ」
「殿軍(しんがり)はわれらにお申し付けくだされ」
秀吉、家康、光秀が同時に声を上げた
「あいわかった、その方らに殿軍を任せる、明智、木下はそれぞれ鉄砲500にて敵を防げ、そして池田隊は3000にて明智、木下隊の後方から支援せよ。
徳川殿は殿軍は気の毒じゃ、部隊の最後尾で共に京まで参ろうぞ
急ごう、一時も猶予はならぬ、儂は旗本と真っ先に逃げるぞ、皆の者遅れずに一目散に撤退じゃ、死んではならんぞ近江まで戻れば再編して追撃があれば迎え撃つ、明智、木下死んではならんぞ、無事に生きて戻れ」
そういうと信長は馬にまたがり一騎掛けで走り出した、馬廻りの者共が一斉に後を追った、そんな中、前田利家一騎が秀吉のもとにやってきた
「藤吉殿、今生の別れかもしれぬ、もしもの時は拙者がご内儀、ご母堂の面倒をみるから心置きなく戦ってくれ、運があればまた京で会おうぞ、さらば」
そういうと涙をぬぐいながら馬上の士となって去っていった。
さすがの秀吉も死を決した、追ってくる朝倉勢には勢いがある、落ち武者ほど哀れなものはない
殿軍とは全滅覚悟で味方を逃がすための時間稼ぎ部隊なのだ
「しかし明智も志願するとは、儂は少し見直したぞ」小六と半兵衛に秀吉が言った。
「さようでござるのう、光秀、案外のものやもしれませぬなあ」
「なにはともあれ、朝倉に追いつかれる前に金ケ崎城まで撤退して、そこで迎え撃とう」



海 遠征

2022年10月20日 07時37分28秒 | 散歩道
私がほぼ毎週行く海岸は隣町にあって、およそ6kmにわたって砂浜が続いている。
その真ん中に、川幅10mほどの川が流れていて、その川は物好きでもなければ歩いて渡れない、だから3kmの砂浜が2つあるようなものだ。
いつも歩いているのは東側の海岸で、もう知り尽くしてしまった。
それで日曜日ではないのだが、最近は毎日カメラを持ってどこかを30~1時間歩くので、昨日は海岸の西側にチャレンジした。
ここの始まりの1kmくらいは5年くらい前までは、時々来ていたが、最近はご無沙汰だった。
行ってびっくり、夏の海水浴客に「穴場だよ」と教えていたきれいな砂浜が、すっかりジャングル化していた。 砂浜が消えて、ジャングルと草原と石原の海岸になっていた。
こうなると探検心と好奇心がわいてくる、3時半西に向かう、眩しくて写真にならないから、とりあえずはウォーキングロードを歩く
歩き始めて間もなく、80歳くらいのおばちゃんが立っていて、私に「今日は能登が見えそうだね」
「そうですね」から始まって、10分ほど、能登やホタルイカ、昔話を立ち話
一人暮らしで一日中誰とも話さないので、ここにきて誰かを見つけて話しかけるのだそうだ。 私も閑人になった故、いくらでも話し相手になってあげますよ。
「ごめんね、足を止めさせて」と言って私とは反対方向にゆっくり歩いて行った。 高齢化率が高いわが町には一人暮らしのご婦人は多い。

東側の海岸とは違う、新しい世界が広がっていた
1時間半かけて往復6kmの海岸を楽しんだ。