そんな心配をよそに秀吉は帰京そうそうに、ふじの宅へ入り浸って膝枕でゆっくりしている。
「やはり戦場より、ふじの膝の方が良いのう、ここが一番安心できる」
などと鼻の下を伸ばしている
ふじはまだ17歳、秀吉は33歳になった、歳が倍も違うので親子のようだ。
そうは言うが本妻のねねも、まだ22~3歳だから若い、だが秀吉はねねよりもふじを可愛がる、やはり女房と愛妾の違いなのであろう、ふじには生活臭がない、可愛い子猫を可愛がるに等しい思いなのだ。
「とのさま」ふじが意を決したように口を開いた
「なんじゃ? どうした」
「ややが出来たような・・・・・」
「・・・・・」
「ややが」
「・・・なんじゃ、儂の子ができたと、本気か! 本当か?」
「医師がそう申しました」
「儂の子が、本当に儂の子ができたのか、ねねとは10年近くもできなかったが、儂に子種はあったのじゃ、そうじゃあったのじゃ、めでたい、めでたいぞ」
秀吉は、ふじを抱きしめて頬ずりをした
「痛い、痛い、殿様痛いですよ」「ああ、すまぬすまぬ」
嬉しさと、ねねにどういうべきか、それはそれで頭が痛い秀吉である。
岐阜に屋敷は賜ったが広いとはいえ、側室を同居させるにはちと狭い、秀吉は当分ふじの存在を隠し通すことに決めた。
4月に大敗北を喫した信長は京に戻って軍の整備を行った
浅井が裏切ったことで京と岐阜を結ぶ湖南から関ケ原にかけての幹線道路の確保が危うくなった
信長は素早い、琵琶湖の南部の東西にある10余りの城を強化させて、そこに宿老の柴田勝家、佐久間信盛、森可成(よしなり)などを入れて幹線の確保に勤めさせた。
案の定、信長が大敗したと聞いた六角の残党が旧領奪回のために蜂起した、5月のことである
しかし織田軍団でも最高のメンバーをそろえた近江軍はたちまちこれを打ち破った、敵は多くが打ち取られ四方八方に逃げ堕ちて行った
これを見た湖南の浅井方に味方していた土豪も信長に降った
佐和山、安土、坂本を抑えた織田軍は、いよいよ浅井長政、久政父子の籠る小谷城を攻めることにした、これが6月だから敗戦からわずか3か月で織田軍は立ち直っていた。
小谷城に信長の妹、市が嫁いでいる、長政との間には娘も3人生まれて夫婦は仲睦まじいと聞く、のちに魔王と言われる信長でさえ一抹のためらいが生じた
だが、それを振り払って出陣を決めた。
琵琶湖南部から、東岸にかけての織田軍の支配地域は、わりと狭い
六角から奪った観音寺城、安土城(この時は小さな城である)あたりが最前線で、20kmほど先は浅井領である、浅井の最前線は佐和山城だ。
しかし織田の名声に浅井に味方していた土豪、堀氏が内応してきた。これは丹羽長秀の手柄であった。
「さすがは五郎左、よおも降らせたものよ」信長に浅井攻めの橋頭保ができたのだ、堀の領土は佐和山城より北東の地域で、これは浅井領にかなり深く入っている
信長は直ちに兵を起こして2万の大軍を堀氏の拠点に進めた
佐和山城には1500の兵で包囲して後方からの攻撃を封じさせた、信長の陣の北5kmほどには横山城がある
これもほおっておけば万一の時、後方を抑えられてしまうから木下秀吉が2000の兵で取り囲んだ
そして信長は横山城を横目にさらに北へ進み、小谷城直下、今の北陸高速道の辺りにまで兵を進めて陣を張った
信長にしても小谷城を見るのは初めてである
「ふうむ、これは難解な城である」
東方に連なる300mほどの連峰の中に、長い尾根を持った小谷城のシルエットがあった
尾根の左右に二つの廓がある、今風に言えば「ツイントップ」だ
一方は長政が、一方は隠居の久政が守っているという
「これは力攻めしても容易に落ちまい、もっとこの城を調べてからの方がよさそうだ、まずはこの一帯を片付けてしまって裸城にするのが良策であろう」
信長は決断した、だが思惑は外れた、越前から朝倉勢が8000を率いて浅井の援軍にやってきた。
尾根伝いに小谷城に入城して、高みから織田軍を睨んでいる、小谷城と織田軍の平地までは2~3kmしかない
「ここは不利である、姉川まで下がろう」高地から攻め下る方が断然有利だ
信長は高低差の不利を悟って本陣の虎御前山(とらごぜやま)から5kmほど南下して姉川の南を目指した。
退却を始めると、たちまち浅井、朝倉軍は15000の兵で追撃を始めた
秀吉と光秀の金ケ崎での撤退戦と同じ状況になった、今度の殿軍は佐々隊と梁田隊であった、鉄砲を撃って必死に防いだ
敵はこの激しい抵抗にあって攻めきれず、信長たち本隊は姉川に着陣した
そこに徳川家康も自ら5000の兵を率いて援軍にやってきた
「おお三河殿、これで勝ったも同然じゃ」信長は歓待した。
姉川を挟み北には浅井、朝倉15000が布陣、南には織田、徳川が25000で布陣している。
近江は賤ケ岳方面の北は険しい山岳地帯だが南に下ると平坦な実り豊かな平野が広がる、平坦な広い大地を何本もの小さな川が小谷山など東の峰から西の琵琶湖に注いでいる。
秀吉は敵国の中で、横山城包囲の任務を続けているから姉川の戦には出ていない、昔このあたりを行商して歩いた時を思い出していた。
あの頃、駿府で10代半ばの初女と出会い、そしてわかれて近江から京、大坂と放浪に等しい行商をして歩いた
あの頃はまだ商人になろうか、武士になろうか迷いに迷っていたのだった
そうして今はここで一隊を率いる大将になっている、もう20年近くも前のことだが昨日のように思える
しかも初女の娘と今は京で共に住んで男の子供までできた、秀吉は幸せの絶頂にいた、「もっともっと出世するぞ」欲も出てきた。
戦闘が始まった、信長軍は兵を7段の備えにして鉄壁の守りである
そこに決死の浅井軍が川を渡り突撃してきた、「勝つしか道はないと思え、信長の首を狙って突撃せよ」
たちまち浅井軍は怒涛の攻撃で織田の一陣、二陣を破ると、後方から新手の浅井軍が突っ込んで最初の軍と入れ替わった
これまた火を噴くような攻撃で、信長の軍は支えきれず三陣も崩れた、信長軍は柴田勝家、佐久間信盛、明智光秀らが必死に防戦するが浅井の波状攻撃はすさまじい
四陣も半分崩れて、浅井軍からは信長の本陣もうかがえるほどになった。
一方、川下では朝倉軍8000と徳川軍5000が川の中で激闘を続けている、こちらも兵数で劣る徳川軍が善戦して朝倉軍を押している。
ここにいる4つの大名家の中では徳川の三河兵は抜群の強さを誇る、何十年も貧しさと服従の苦汁を舐めてきた武士たちである。
浅井の近江兵は決して強い軍ではない、だが敗れれば親戚でありながら裏切ったわれらを信長は根絶やしにすることが目に見えている、勝つことだけが命を守ることになる、決死の兵になっている。
織田の兵は決して強くないが、まずは兵数が圧倒的、兵器も圧倒している
そしてほかの大名にはが持たない軍団制を採用している、これを理解できる大名は信長しかいないだろう
織田信長と言う男、生きる時代がほかの大名より300年進んでいる、頭の構造が封建大名と全く違っている、これが織田の強みなのだ。
有利と見た浅井が総攻撃を仕掛けた、一斉に川を渡り始めた、ところが横手に回って待ち構えていたのは佐々成政の500挺の鉄砲隊であった
渡河する浅井軍の真横を一斉に放った、浅井の騎馬武者、足軽問わず川に倒れこんだ、たちまち川は血で真っ赤に染まった
第二射が続いた、またしても多くの兵が川に倒れこんだ、浅井の一隊が佐々の鉄砲隊に向かって走り出した
鉄砲隊は接近戦には弱い、たちまち崩れて逃げ出した、とそこに徳川軍の一隊、本多平八郎忠勝が500の兵で浅井の背後から突っ込んだ
佐々に向かっていた浅井軍は背後を襲われて、たちまち崩れた
それを見て織田軍の柴田、明智の軍勢も一気に川に押し出して浅井軍と激突した
本陣の信長は今が勝機と見て「又左(前田利家)今じゃ、徳川殿の後詰をせよ」
浅井、朝倉、徳川は大将のいる本陣以外はすべてが戦場で押したり引いたりの戦いを2時間以上にわたって行って疲労困憊だ
だが2万と言う織田軍は、まだ戦っていない無傷の精鋭部隊が5000残っている
その一つ前田隊1000騎が一斉に、川下で戦っている朝倉、徳川の中に突入していった、徳川と5分の苦戦をしていた朝倉に前田隊の新手が突っ込むと、疲労した朝倉軍はなすすべもなく崩れた。
続いて梁田隊も朝倉軍本陣目指して駆けだした、「もはやこれまで」と浅井、朝倉は戦場離脱を図り、小谷城目指して敗走を始めた。
勝利者の織田軍は追撃して多くの敵兵を討ち取った、小谷城に逃げ込んだ時には戦場には数千の浅井、朝倉兵の屍が倒れていた。
織田、徳川軍の死傷も少なくなかった、だが織田、徳川軍の圧勝であった、織田、徳川軍は勝どきを挙げた。