神様がくれた休日 (ホッとしたい時間)


神様がくれた素晴らしい人生(yottin blog)

空想歴史小説 貧乏太閤記39 愛妾ふじ

2022年10月19日 18時34分36秒 | 貧乏太閤記
信長は、将軍義昭が受けてくれと言う名ばかりで権威のない副将軍などを辞退し、そのかわり堺、大津、草津の実用的な町の支配を願い出て義昭から許された。
義昭は信長を「御父」と呼ぶほど信長に感謝した

12月になるとついに北から武田信玄が今川氏真が守る駿府城に攻め込み、西からは徳川家康が掛川城に攻めかかった
今川は激しく抵抗したが支えきれず氏真は岡部らに守られて北条氏政の小田原城に落ちて行った・
北条は武田との同盟を破棄した。 今川領は大井川を境界にして徳川と武田が分け合った。 武田領は今や国内有数の巨大なものになっている、甲斐、信濃、駿河の三ケ国、上野の一部、飛騨の一部に広がった。
戦国の世はいよいよ大きくうねりだしたのだ。

六角の家臣の中で唯一屈服せず抵抗をしていた日野城の蒲生賢秀(がもうかたひで)
も、肝心の六角父子が城も領地も捨てて逃げ出し孤高の人となった
信長は蒲生の忠誠心と頑強さを惜しいと思い、「人質を出し、開城すれば家臣共々助命して織田家の家臣となるか、自由に去っていくを許す」
すると賢秀は「某は城を明け渡してのち息子の鶴千代(後のうじさと)を人質として差し出しますが、
願わくば拙者共々織田家家臣の端に加えてもらいたい」
信長は喜んで「そなたは今川の猛将岡部にも劣らぬ忠義と剛毅の大将じゃ、そなたが織田家に来てくれれば1000人力を得よう
子息も勇ましい顔をしておる、この信長が育てて一端の武将にして見せようぞ」
言った通りに信長は翌年、蒲生鶴千代を元服させて蒲生氏郷(がもううじさと)と名を改めた
父の賢秀には、そのまま日野城を与えた。

秀吉は女房のねね等家族を岐阜に置いて、単身で京に来たが31歳の男盛り
女なしではとても辛抱できる男ではない
さりとて安価女郎を買うには身分が邪魔になった、それはよくしたもので京都奉行と言う役目柄、擦り寄る武家、公家、大商人も多い
それなりの夜の接待をうけることも多いのである、秀吉、それほど清廉潔白な役人ではない、何しろ出が出でありしかも無類の女好きと来ている
堅物の明智光秀とは大いに違う、また性格が陽気だからモテるのだ
今夜も高級料亭である商人の接待を受けた、料亭と言っても宿にもなる今でいえば割烹旅館だ
宴席についた芸妓とは別の高級娼婦を呼ぶことができる。
藤吉郎にとって京在番中の唯一の慰めがこれであった
今夜の娼妓を見てハッとした、似ているのである、あの駿府の松下屋敷で身の回りを世話してくれた同い年と言う「初女」にそっくりだ
「初女ではないか!」思わず言ってしまった、だが目の前にいる女はまだ10代半ばから後半くらいの若い女だ、初女はもう30にはなっている
だが、女は言った「初女とはどなたのことどす?」
「いやなに、儂が若いころ駿河の国で世話になったおなごの名前だ、忘れてくれ、興ざめじゃったの」
「駿河と言えばもしや松下様の?」
「うん? なぜ知っておる」
「初女は私の母の名です」
「なんと! そなたは初女の娘と!」
「はい」
「じゃがなぜ苦界に身を落としておるのじゃ」
「それは・・・」
「母者はどうされた」
矢継ぎ早に質問をする藤吉郎に女は戸惑っている、そのしぐさが可愛くて藤吉郎は思わず抱きしめた、そして言った
「言わずとも良い、今川家が滅びた時、おそらく徳川の兵に襲われて売られたのであろう、そなたも姫であったに相違ない」
女が涙をこぼした
「あいわかった、初女の娘をほおってはおかぬ、しばし待て」
女を抱きもせず、藤吉郎は身支度を整えて部屋を出て行った。

翌日の夕方には、15歳の娘「ふじ」は京のはずれの竹林に囲まれた静かな場所に一軒家を与えられて、世話をする中年女「とよめ」がつけられた
とよめは口が堅く、気のつく大原女(おおはらめ)で、無駄口は一切言わず、炊事、洗濯、掃除あらゆることがうまい。 たまに大原の野菜を持って帰ってくるが、これが新鮮でうまい、漬物は絶品だ。 
もちろん家も、とよめも秀吉が世話したのである。
当然ながらこれ以後「ふじ」は、この家で秀吉の京の現地妻のようになった。 そして幼馴染で今や秀吉の便利な手足となった三蔵こと三右衛門が意をくんで秀吉とふじの間を往復している。
秀吉は駿府で思い合いながら結ばれなかった初女を、娘のふじに見ているのだった、それにしても何という偶然、(わしも運の強い男だ)

翌、永禄12年(1569)信長は南伊勢の名門北畠具教(きたばたけとものり)を攻めた、足利義昭の将軍就任を無視したからだ
前年には信長が滝川一益を大将にして北伊勢の神戸友盛を攻めさせた
支えきれず神戸は降伏して、信長の三男信孝を養子に迎え入れたが2年後には隠居させられて織田に乗っ取られてしまった。
このとき、同じく土地の豪族、関氏と長野氏も降伏して従った、長野氏には信長の弟を養子として送った、神戸に続きまたしても乗っ取りなのだ。

北畠が足利に従わないのは当然である、およそ230年前、後醍醐(ごだいご)天皇が号令を発し、全国の勤皇武士が集結して(楠、新田、足利、赤松など)鎌倉の執権北条得宗家を倒した
しかし、その後足利尊氏(あしかがたかうじ)は後醍醐帝に背き戦となった、南北朝に分かれて戦ったが
北畠親房(ちかふさ)、北畠顕家(あきいえ)の親子は南朝後醍醐帝に味方して足利と戦った悪縁がある、
しかも今は伊勢一帯を北畠が掌握して、信長の三男信孝が養子となっている神戸(かんべ)家をも攻めた
大河内城に籠った北畠を信長は大軍で攻めた、このとき蒲生氏郷(がもううじさと)も初陣を果たしている。
秀吉もこの北畠攻めに参戦して手柄を立てている
ついに北畠は降伏し、城安堵の条件として信長の二男信雄(のぶかつ)を養子にすることになった、結局北畠は織田に乗っ取られたのである。
これで信長の領地は尾張、美濃、南近江、伊勢、そして直轄地の京、大坂と広がった、武田信玄に負けぬ拡大を続ける信長であった。




夜と昼がひっくり返っちまった

2022年10月19日 07時38分05秒 | yottin日記
「昨日は夕食何を食べましたか」な~んて聞かれたら
「そうですね、え~と? え~と 何だったかな?、あ~ごはんと、なんだろう
そうだ、みそ汁は自分で作ったから、メギスと油揚げと大根、ああ思い出した
焼きそばだったから、ご飯は食べていません、粗末な晩餐でしたね
それと食前酒と言うか
神棚から、お神酒をいただきまして、地酒の冷酒吟醸酒300ml、久しぶりに日本酒飲んだから、いい気持になって20時前にはベッドに横になったら寝てしまて
お風呂には入らなかったけど、最近は昼にお風呂の癖がついて入ったから、それは良いとして、23時半にパチリ目が覚めて
もうどうにもならない、30分ベッドに入ったけど、あれこれ雑念が出てきて、もういけません
今は深夜1時だけど、ますます頭は先頭モードになって、でも寝ないと明日の昼間が怖い
こうなりゃ奥の手です、ウィスキーをストレートでやりながらパソコンをたたく、これでひとたまりもありません
足りなきゃもう一杯、それでいってしまいますね・・・たぶん

「ストレート 酔いの夜長の 1時半」
「寂しさも 混ぜて飲み干す 降り月」

もう3時だけど、酔わない、眠気が出ない
こうなったら強制モード



空想歴史小説 貧乏太閤記38 明智光秀登場

2022年10月18日 18時46分50秒 | 貧乏太閤記
翌、永禄11年、岐阜城に珍客が訪れた
「おお、そなたは明智十兵衛ではないか」信長が懐かし気に声を挙げた
「お久しゅうございました、此度の稲葉山攻めの大勝利、この光秀こころよりお祝い申し上げます」
「なあに、舅殿の仇を討ったまでよ、そなたも舅殿に最後まで奉公してくれて信長、礼を申す、ところであれから、そなたはどこに逃れたのじゃ、従兄妹の濃がいる尾張に来ればよいものを」
「今日は、それに関連したことでお願いに参りました、お聞きいただけますか」
信長は本妻である濃の消息を訪ねることもなく「むろんのことよ、遠慮せず話すがよい」
「実は戦に敗れ背後の山に逃れて、そこから峠を越えて越前の朝倉様を頼って行きました、そこで世話になっておりましたが
ある日、尊きお方が朝倉様を頼りやってまいられたのです、そのお方は三好らにだまし討ちされた将軍足利義輝さまの弟君、足利義昭さまでございました」
「おお、弟君がおられたのか」
「はい、僧であったのを還俗していただきお迎えいたしました、三好を討ち取り仇を討ち、自分が兄の後を継いで足利将軍家の復活を成し遂げたいと」
「それで朝倉を頼ったか、役には立つまい」
「まさに! おっしゃる通りでございます、朝倉義景さまはかってのような勇猛さを失い、
都から公家を招き館を都風にこしらえて庭園をも作り、四季を愛でて暮らすだけでございますから、とても都まで戦に行くとは申しません」
「いかにも朝倉じゃ」
「そこで供をしてきた細川様が私を訪ねてきて、『明智殿は朝倉家の家臣ではなく岐阜の織田様と縁者とお聞きしましたが』と問いかけてきましたので、
さようですと申しましたところ、上洛して賊徒を討ち足利将軍家を再興したいが頼みにしてきた朝倉様が動きませぬ、
織田信長様は内裏や将軍家への忠義心厚いお方と聞いておりますので、そちらを頼みにしたいと思い、つなぎのお願いに任し越した次第でございます』と申されました」
「なある」
「周囲を見ても武、勇、義、富を供えた大名は織田様以外に見あたりませぬ、まずは都への上洛、そして賊徒を討ち義昭さまを将軍にしていただきたいのです」
「さようであるか、だが越後の上杉もすべてを兼ね備えておる、忠義に至っては儂より遥かに熱い男と聞くが」
「上杉は都より遠すぎます、しかも関東で北条、信濃で武田、国内でも反乱あいつぎとても動けませぬ」
「話はわかった、しかし簡単に返答できるようなことではないからしばし猶予いただこう、そなたはしばらくここで逗留するがよい」
「わかりました、ゆく当てもない身ゆえ待たせていただきます」
たいした時間をかけぬうちに信長は決断した、「上洛の件、引き受けよう、だが条件が一つある」
「何でございましょうか」
「そなたが儂の家臣になるというなら足利の御曹司、間違いなく将軍の座にお付いたそう」
「なんと!」
「いやか」
「とんでもありませぬ、流浪の光秀にありがたきお言葉を頂戴し、感涙に震えております」
「そなたは宮中にも将軍家の礼儀作法、律令にも詳しいと聞いておる、ゆえに儂に仕えても当座は将軍家にも仕えるがよい
今の足利様はそなたと細川殿がいなければ羽をもがれたトンボじゃからのう、信頼抜群じゃ
儂と足利様との橋渡し役として活躍してもらいたいと思って居る、将軍には儂の家臣になることは伝えずともよい、黙って将軍に仕えよ、用のある時には使者を遣わす故」
「はは、ありがたきお言葉、忠勤に励みまする」
古渡、那古野、清州、小牧山と本拠の城を移ってきた信長だが、この岐阜城が気に入った、天守から見下ろすと長良川のきらめきが大蛇のようにうねっている
「これこそ儂にふさわしい城よ、天下がすべて見通せる気がするわ」とつぶやいた。

秋、信長は動いた、それ以前に都への妨げとなるものは誰かを調べた
南近江の六角はもともと足利将軍や朝廷に忠勤していた家柄である
信長もそれを聞いて安心していたが事態は逆になった
六角は隠居して六角承禎(義賢=よしかた)と当主の義治親子が抵抗戦を仕掛けてきた
理由は尾張の成り上がり大名を将軍が信頼して頼りにしたことが気に入らなかったのだ
信長は、そんな昔の栄光を鼻にかける者など問題にしない、権威主義などくそくらえだ
都への道すがら信長は6万と言う大軍だから六角の本拠観音寺城や南近江から甲賀方面への支城に一斉に攻撃をかけた、迅速であったから六角方は油断していた
しかも多勢に無勢、瞬く間に小城は落城し、太刀打ちできないと見るや六角親子はたちまち城を捨てていずこかへ逃げてしまった
甲賀方面の日野城主蒲生賢秀だけが頑強に抵抗しているのみとなった、承禎はどうやら蒲生を頼って行ったらしい。
信長は日野城を囲ませた兵を置いて京の都へと進軍した、洛中を我が物顔で歩いていた松永勢も鳴りを潜め、
三好一派も本拠地の四国に引き下がった、なんなく信長と義昭は都に入った
松永久秀は大和(奈良県)に威を張っていたが前年10月、三好一派との抗争で火をかけ東大寺の大仏殿を焼くという愚挙を行った
現代にまでその悪名は語り継がれている
斎藤道三同様、煮ても焼いても食えない曲者なのだ
強きに従い、弱気をくじく典型的な男だ、上杉輝虎とは正反対である。
とてもかなわないとみるや信長の元にも平身低頭で面会にやってきた、そして茶器の名物として名高い「つくも茄子」という名器を献上して機嫌を取り、大和安堵のお墨付きをもらった。
信長の権威に畿内の土豪や大名が次々とはせ参じた

足利義昭は信長の後見を得て、朝廷から足利15代征夷大将軍の地位を賜った、信長からは朝廷に莫大な金銀が献上された。
翌年には義昭の御所として二条城を造営した。
信長は本拠が岐阜なので京には長くとどまれない、そこで近年働きが目覚ましい木下秀吉、中川重政、柴田勝家、明智光秀などを京都奉行として置いた
永禄11年藤吉郎31歳のことである。 藤吉郎は墨俣城を蜂須賀小六勝正に任せて官僚としての役目に着いた




コスモスが咲いた

2022年10月18日 06時43分37秒 | 病気と健康
暑さと寒さが交互にやってきて体の中身がついていかない
運動機能は順調だが、くしゃみが出るとか呼吸器系機能調整が難しい
親しい同級生が相次いで受難だ、一人は脳梗塞で倒れてもう2週間近く昏睡したままだし
別の同級生は仕事中に階段から2mほど落下して腕を骨折して手術した
5分前まで元気でいても5分後にはどうなるかわからない高齢者の入り口
こうして身近な友の身に起こると。わが身にも沁みてくる
71歳72歳と言うのは鬼門のような気がしてきた、この二人もその年齢だし
一昨年には私の義兄弟(板前修業で寝起きを共にした男)も71歳で突然亡くなったし、私が大好きだった「ねえちゃん(実の姉ではない)」も、20歳頃上越沿線で一緒にスキーに行って遊んだその妹も、二人とも71歳で亡くなった
ねえちゃんは料理店の女将だったが、仕事が終わって23時ころ一人で晩酌している最中に突然亡くなってしまった。
先輩に「69と70はぜんぜん体が違ってくるよ」と言われたが実感している
71.72で体の不調を訴える人も何人か知っている、私も今年、来年は運命的にも健康的にも要注意の歳だという、静かに生きろと言うことなのだろう。
花を咲かせて、散歩をして、写真を撮って、ブログを書いて2023年末まで過ごすのか、貴重な日々を静かに過ごすのか・・・

私が初めて種を撒いたコスモスが次々と咲きだした、嬉しくて毎朝歯磨きしながら10分見ている、来年春にはもっと花を咲かせようと思っている。



空想歴史小説 貧乏太閤記37 稲葉山城落城 

2022年10月17日 18時55分06秒 | 貧乏太閤記
「半兵衛、この山の裏手に敵に見つからずに登れるところはないかのう」
稲葉山本丸の裏山は険しくてとても登れそうもない、だが秀吉の脳裏には登れる小道のイメージが出来上がっている
「できる」と自分を信じさせると、たいがいできることを知っている、今までも、そうして難題をいくつも乗り越えてきた、それは天性の才能と言ってもよい。
なぜだかわからないが、成功のイメージを脳裏に描けた時点で成功が約束される。 今までと違い今度は軍師竹中半兵衛もいる、これぞ「鬼に金棒」だ
「拙者の手の者に稲葉山の間道を知っている者が何人かおりまする、それを利用いたしましょう」
「うむ、頼んだぞ」
「堀尾可晴(よしはる)が適任かと、さっそくお会いになりますか」
「うむ、ことは急ぐ故、われらから出向こう、案内せよ」

金華山から続く森の中に小さな堀尾家があった、半兵衛の話では可晴の父は岩倉織田信賢の家臣であったという
信長に敗れた後、美濃に流れて住み着いたというが斎藤家に仕えるつもりはなく浪人暮らしに甘んじているという
ここにきて間もなく父は病死して、可晴は母親と二人でその日暮らしをしているという。
可晴が金華山や森の恵みを得て暮らしを立てているので、このあたりの間道は知り尽くしているらしい。
堀尾可晴は秀吉と同年代に見える、浪人はしていても武士の誇りは忘れていない、身動き一つせず凛として秀吉をじっと見ている。
「織田上総介様の家臣、木下藤吉郎秀吉でござる、仕官なさるおつもりはないか」
ずばりと切り出した秀吉に対して
「上総介殿(かずさのすけ=織田信長)は、わが主君の仇ですどうして仕えましょうか」
「そうはいわぬ、儂じゃ、この秀吉に仕えて見ぬか」
「あなた様のことはよくは存じませぬ」
「ならば半兵衛でもよいぞ、半兵衛なら知っておろう」
「知っております、美濃の重臣でありながら何ゆえに美濃を捨てて、織田殿に仕えておるのじゃ」
半兵衛が口を開いた
「織田殿ではござらぬ、儂は木下様に仕えておるのです、仕えて損はござらぬ、仕えて見なさい、織田様とは正反対の殿様じゃ」
「だが大身ではない」
「大身の器をお持ちの方でござるよ、先物買いじゃ、儂も殿様の将来を買って斎藤家を捨てたのでござる」
「ふ~む わからぬが」
「わからなくてもよろしい、堀尾殿も儂と同年代と見ゆるが大器の相が見える、だが主君を誤れば滅亡の相じゃ、
殿様との相性はよろしい、仕えてみなされ、そなたの迷いの森に道が開けるであろう、しかも今日が百年に一度の大大吉日、その初手柄の日と出てござるよ」
「ははは、たいそうに吹かれたものよ、拙者は何をすればよろしいのか」
「稲葉山城の裏手より入り、大手門を開ける仕事でござる」
「ふむ・・ふむ・」
「家名再興でござる、見なされ母御もうなずいておられる」
いつの間にか可晴の母が来ている、こちらも凛とした武家の奥方だ
「可晴、縁と言うものはそうそう降ってくるものではありますまい、それが今日降ってきたのですよ、
おやりなさい門出になるやもしれませぬ、山の中の生活には疲れました、また尾張に戻れるやもしれません」
「母者、わかりましたやります」

こうして堀尾可晴は秀吉の道案内を引き受けたのである
あとは俗書と同様、裏山の滅多に人など通らぬ険しいけもの道を可晴を先頭に藤吉郎と蜂須賀党の面々は上っていき、
ついに敵の手薄を突いて大手門の裏に攻め込んだ、切りまくり大手門のかんぬきを抜くと合図一閃、城まじかでやり過ごしていた織田方正規軍が一気に攻め込み、ついに稲葉山城を攻め落とした。

城主斎藤竜興は僅かな兵に守られて山の間道を落ち延びて、越前の朝倉義景を頼った。
朝倉はこの年、隣接する若狭(福井県西部)の若狭武田氏を攻めて勝利、若狭守護武田元明を捕虜として捕えて若狭を併合した。
朝倉もまた強国の一つであった。
案内した堀尾可晴は、「可」と読みが同じ藤吉郎の「吉」をもらって「吉晴」と改め、秀吉の家臣となった。

ついに稲葉山城を落とし、宿願の美濃一国を手に入れた信長は稲葉山を「岐阜」と改めて、岐阜城に本営を移した。
尾張、美濃二か国の太守となった信長のその領地は120万石とも、最盛期の今川義元をも超えた、兵の動員力も最大5万にも及ぶ
尾張に割拠して信長の言うことを聞き流していた一門、一族、土豪たちも信長の家臣に組み込まれて信長は完全なる絶対君主となった。
清州、岐阜という二つの都市を得て町を整備して楽市楽座で商業を繁栄させ、さらに津島の湊の税収入も増えて行った
120万石は米の収穫量だが、商業から上がってくる税も含めれば200万石相当の大名と言える。
信長が知る範囲の大名でこれだけの実収を挙げているのは関東一帯を制圧する北条氏政、甲斐、信濃、上野の一部を領する武田信玄くらいではないだろうか。
信長は一気に躍り出たのである。

信長が美濃攻略の論功行賞を行った、第一等の勲功を挙げたのは東美濃を味方につけて斎藤家を弱体化させた丹羽長秀
第二に西美濃を平定した木下秀吉と伊勢を懐柔した滝川一益とした。 長秀には3万石、秀吉と滝川には各々2万石と大名級の賞を与えた。
秀吉は大出世を遂げた。 
そして岐阜城下と京に屋敷を賜り、岐阜に中村から母と妹を呼び寄せた
また竹中半兵衛は藤吉郎の家来のまま信長から別途1000貫を賜り、秀吉は蜂須賀家政に2000貫、堀尾吉晴と、前野長康、弟の小一郎秀長に500貫を与えて
家老とした、
そして小一郎もめでたく妻を迎えた、妹の、あさは家臣の副田(そえだ)甚兵衛に嫁がせ、添田には300貫を与えた。。

この年は徳川家康にも転機と言える動きがあった
家康も三河一国を領土として20万石の大名になっていた
徳川と武田が手を組んで(同盟ではない)今川領に攻め込み今川領を二分しようという密約を交わした。
その武田は嫡男の義信が妻の実家今川を父信玄が攻めることに反対
親子の決裂となり武田家中も保守信玄派と革新義信派に分断、先手を打って信玄が義信を幽閉、取り巻きの家臣を処刑した
そして後日嫡男である義信を自害させ、義信の妻を今川に返した、これが後々の武田家の痛恨となるのだ
















昨日の海岸風景

2022年10月17日 06時40分56秒 | 散歩道
昨日はまた夏に戻ったような暑さがぶり返した、でも歩いていると風は秋
1時間ほど散策したが、うっすらと汗が滲むだけ
最近は毎日歩かないと心がせかすようになった、それも健康のためとかではなく、ダラダラ景色を見ながら、写真を撮りながら心のために歩いている。
それにしても花はすっかり影を潜めた、「つまんないな」と思いつつ、花はなくても草があったことに気づく。
草だって生きている、浜辺を彩っている、景色もそうだし、カラスも一役買っている、そう思ったら急にシャッターの指が動き出した
見えなかったものが見えてきた。



















空想歴史小説 貧乏太閤記36 丹羽長秀との競争

2022年10月16日 17時45分29秒 | 貧乏太閤記
因みに一向一揆について
一向宗は浄土宗から起こった浄土真宗の一派であり、後には浄土真宗そのものが一向宗と呼ばれるようになった。
かって京の都は足利将軍、三好長慶、細川晴元、松永久秀らが離合を繰り返し京で勝ったり負けたりの戦をして、都は荒れ放題になった
京にあった蓮如(れんにょ)の浄土真宗本願寺も対立する延暦寺(えんりゃくじ)の僧兵に焼き討ちされて越前(福井)に逃げて吉崎御坊を創建する
その後も越前守護と対立して三河(愛知県東部)へ逃げて布教活動をする、やがて京の山科で本願寺再建、その後大坂石山で石山本願寺をを起こす。
蓮如が撒いた種、越前一向宗は能登、加賀(石川県)、越中(富山)にも広がり越後の長尾景虎(上杉政虎)とも対立した、加賀に尾山御坊を作り在郷武士を追い払い宗徒が治める国となった(加賀一向一揆)
加賀は信長に制圧されるまで一向宗が治める国であった。
越前でも守護の朝倉氏を圧迫していたが、三河で広がった一向宗も家康家臣とのトラブルから一揆に発展したのだった。

もどれ
信長にしてみれば今川との間に家康が入ったおかげで今川を気にせず美濃攻めを着々と進めることができた。
それでも先代の義龍は強かった、織田軍は何度も撃退されている
だが義龍が死に、竜興に代替わりしたことで斎藤家の内部にほころびが起きてきた、竜興はえこひいきが強く、佞臣を傍に置き正しい政ができなくなった
だから竹中半兵衛のように脱国する重臣も出てくる。

信長は4年前に大規模な小牧山城を築城して、翌年には織田信賢を倒した
それから近江の六角に傾きだした守護斯波義銀をも放逐した
それからは美濃の東に位置する小牧山城を主城として、城下町を整備した
斎藤家の稲葉山城と大垣城の間に、秀吉が墨俣城を作り織田の兵站基地とした

秀吉には、この頃気になる男がいる
前田利家同様に信長の馬廻りである丹羽五郎左衛門長秀(にわごろうざえもんながひで)である
秀吉より年上だがあまり目立たない勲功もない武士であったが、なぜか信長から東美濃の切り取りを命じられ、しかも成果を着々とあげてその地位を上げていた、性格は静かで温厚である。
そして秀吉も信長に呼び出されて
「五郎左(丹羽長秀)の働きを聞いておろう、そなたも西美濃を切り崩し五郎左に勝る働きをしてみよ」指名された秀吉は感激した(お屋形様は儂に期待しておる)
ここは秀吉と半兵衛の腕の見せ所である。

「半兵衛殿、西美濃の稲葉、安藤、氏家の切り崩し、引き出物代わりに儂にいただきたい」
秀吉は半兵衛の能力を試そうと思った
半兵衛は特に感情を表さず「承りました」とだけ言った

美濃の重臣だった北方城の安藤守就は半兵衛の岳父であり、半兵衛の稲葉山城乗っ取りに協力して今は斎藤竜興と距離を置いている。
半兵衛が訪ねて織田家への鞍替えを進めると守就は一も二もなく快諾した
「義父上、ついては稲葉、氏家殿も共に立ち上がってもらうように働きかけをしてください、斎藤家に刃は向けずとも静観するだけで結構でございます」
守就の働きでまずは大垣城の氏家卜全(うじいえぼくぜん)が味方に付いた、そして稲葉一鉄も味方になった
西美濃衆の中で抜群の3人が織田に寝返ったので、その他の小豪族も相次いで織田方に寝返った。

「よし! 秀吉の働きに乗じて今こそ稲葉山を落とすぞ」
信長も勇気百倍となった、思えば10年かけても落とすことができなかった稲葉山城を落とす絶好のチャンスが訪れたのだ。
信長は即決だ8000の兵で美濃に侵入した、斎藤勢も兵を出して迎え撃ったが兵の士気が違う、先代義龍は君主として尊敬できたが、竜興に臣従できない微妙な家臣が多い

「稲葉、氏家はどうした、なぜ兵を出さぬ、東美濃勢はどうした」
「西美濃は伊賀守(安藤)が止めているとのこと、織田に寝返ったとの噂もあります、東美濃は既に制圧されました、竹中半兵衛も織田方です」
「なんじゃと!裏切った、なぜだ」
「さて・・・」家臣も(あなたのせいだ)とは口には出せない
もはや籠城するしかない、稲葉山城は要塞堅固な山城である、外から攻め落とすことはかなり無理だ
竹中半兵衛の時は油断して城内に入れたからやられてしまったが、外からやってくる敵には大手門を破られない限りは大丈夫だ。

信長は最後の詰めでつまずいたので秀吉に命じて、城下の井ノ口に火を放って焼かせて、裸城にしてしまった。
既に大手門直下の隣山にある二の丸まで占領したが、険しく堅固な本丸から打ちかけてくる鉄砲や弓矢に阻まれてそこから先には進めないでいる
ここで数日足止めされて、信長は苛立ってきた
そんなとき頭に浮かぶのはまたしても木下秀吉であった
「藤吉郎を呼べ! 今すぐにじゃ」

秀吉が墨俣から小六ら数十名を率いてやってきた
「秀吉できるか」信長が仕事内容を言わないのに「できまする」
「よおもとぼけたサル殿よのう」信長が苦笑いした
どんなに信長の機嫌が悪くても、なぜか秀吉には癒される
心地よい、秀吉には全くと言って良いほど小理屈も屁理屈もない、できないこともない、命じた仕事はすべて二つ返事で引き受ける。
「秀吉、あの大手門を何とかしてこじ開けよ」「承知しました」
秀吉は信長の前を辞すると軍団の外に消えて行った。










今日も刺身

2022年10月16日 08時13分43秒 | 料理を作る・食べる
昨日は「めじ」だったが、もう一種類もらっている
それは出世魚「ぶり」の少年時代「つばす(つばいそ)」
「めじ」は天然生マグロだから鉄分が多い、そのため鮮度の落ちも早いから、すぐに食べたほうが良いし美味い、昨日すぐ食べた。
一方「つばす」は水気が多くて、脂がない、新鮮だと「ぐにゅぐにゅ」したゴム食感で味も何もない、だからこの種の魚は一晩寝かせる
但し、内臓と頭は、その日のうちに処理してしまう、血抜きにもなるから鮮度が保てる
因みに、ヒラメは獲れて生きているうちに首と尾の部分に包丁を入れて血抜きする=生き締め
キジハタ、アラ、など身が硬い白身魚は3~5日寝かせると身が柔らかくなって甘みが出る【大きさによる】

そして今日になったら、身がしまって新鮮だから多少のねじれまで出ているし、色の赤身も増しておいしそう。
今度は歯触りがあっておいしい、これもまた地魚取り立てならではの美味しさだ「いやあぁ たまらんですわ」ビール飲もう・・明日も休み。
ごちそうさまでした。
お隣さんにも、御裾分けしました、喜んでいただき幸いです。
(記事を書いたのは昨夜)

これで一人前(一匹分)


空想歴史小説 貧乏太閤記35 20年ぶりの里帰り

2022年10月15日 19時35分34秒 | 貧乏太閤記
信長と同盟した松平家康は三河領内にある今川の城をすべて落して三河を平定した。
朝廷への献金など工作もつつがなく行ったので「従五位下三河守」を拝領した
そして松平の姓を徳川に改めて「徳川三河守家康」と名乗った。
徳川は先祖の地、上野(群馬県)「得河郷」から取ったと言われている。
但し「徳川」は嫡流のみで親類は松平のままである。江戸時代に幕府を開いたが徳川姓は将軍家と御三家のみが名乗り、それ以外の一門は松平のままである。

徳川家康は武田信玄より22歳、上杉政虎より13歳、織田信長より9歳、秀吉より6歳、年下である。
先祖代々三河(愛知県東部)を治め、家康が9代と言われる
祖父清康は強かったがお家騒動の末、家臣に殺され、父、広忠の頃は今川と織田に挟まれて苦労した
結局、今川方になり織田と戦ったが、清康同様に家臣に殺された
まだ幼い竹千代(家康)は今川の人質となり、その代わりに松平家は今川のバックアップを受けた、だが実態は今川軍の先兵で消耗されるばかりだった
その後のことは、この小説の経緯通りである。

一方、今川家は氏真になってからというもの斜陽化の一途であった
土豪たちは離れ、井伊谷の井伊家も徳川になびいた
徳川家康もいよいよ弱まった遠江進行の準備を始めている、そして弱肉強食、武田信玄も今川との同盟を破棄して駿河に攻め込もうと準備を始めた
信玄にとって駿河を奪うことは海を得ることである、海なし国の甲斐の念願が叶う状況になってきた。
武田信玄から徳川家康に内々の使者がやってきた、密書には「今川領を東西から攻めて武田と徳川で二分しようではないか」という提案であった。

「おっかあ」
家を出てすでに何年たっただろうか、秀吉は29歳になった
20年ぶりか? その秀吉が中村の家に三蔵をつれて帰ってきた、供のものには背に土産を背負わせている
ひとかどの武士の格好にはなっている
「どこのおさむらいかと思ったら、ひいではにゃーか、こりゃあ驚いた
つき、近所のやつらをみんな呼んで来い、ひいが立派になったと見せてやるでよぉ」
村一番の貧しい家だった、母親のナカも弟も妹も今朝までみじめな思いをしていたのだった、それが立派な武士になった長男が家来を連れて戻ってきた。
ナカは得意だった
「ほれ見たか! 孫作 太郎兵衛 門佐 みんな見たか
おまえらが石をぶつけた、ひいじゃ もう一度石を投げてみるか」
「とんでもねぇ、ひいさは村の英雄じゃ」
「ひいじゃねぇ、木下藤吉郎秀吉さまというのじゃ、家来も100人もいるんじゃぞ、殿様と呼ばれておるんじゃぞ、
やい!これからは、ひいさなどと言ったら首が飛ぶぞ、おまえら百姓とは違うでよ、さむらいじゃ」三蔵が腰の刀に手をかけて威圧した。
「まあまあ、昔のことはいわんでもええ、これからは儂のかかさまや妹たちと仲ようしてくれたらそれでええが」と秀吉がなだめた
「三蔵さも立派になられたのう」
「何をこく!いまさら 皆でわしを村八分にして追い出しとるくせに、それに儂ももはや三蔵ではないぞ、木下三右衛門蔵人(みつえもんくらんど)様じゃ
藤吉郎さまの御身内にしてもらったのよ、わかったか!」
「まあ三蔵さ、そうおこらんでちょうよ、立派なお武家さまになったでよぉ」
ようやく近所の者が帰って、家の中に入った
昔の儘のおんぼろ百姓家、武家屋敷に慣れた藤吉郎は埃っぽさと、ぬっとした空気となんともいえぬ臭いに閉口した。
この家に普通に暮らしていたことが不思議でならない、「つきももう26になるんじゃのう、嫁はおらんのか」
「誰が、こんな貧乏家に嫁に来るかよ、姉さは嫁に行ったが妹はまだじゃ」
「そうかわかった、今日と明日は儂は帰らんでええから、新しい家を探してやる、もそっと広くてきれいな家を買ってやるでよ」
「なにぃ、ひいや、それはほんとかよ! ほんとかよ」ナカが驚いた
「ああ本当だで、しんぱいせんでええ、銭なら捨てるほどあるでよ
それからなあ、つきは儂が連れて行って面倒見る、嫁ももろうてやるで安心しろ、来年には、あさにも婿を探してやるでよお」
「なんじゃと、ほんとうかよ、こりゃあどえれぇ福の神じゃ」
「おっかあと、あさは来年までまってくれろ、来年になったら清州に家を持ってそこで暮らせばよい、わしももう嫁がおるんじゃ、来年には会わせてやるで辛抱してちょ、とりあえず着るもんと銭を持ってきたで使ってくれ」
「おあやまあ、なんときれいな着物じゃ、いままで見たこともねぇよぉ
ありがてぇ、良い孝行息子を持ったもんじゃ」
ナカは泣き出してしまった
「あと一年じゃ、一年辛抱してくれ、そしたらきれいなべべ着て暮らすでよぉ、貧しい百姓などせんでもええぞ
そうだ、儂は本当のてて親の顔も名前も知らんが法事をやろう、あの男もついでに供養しよう」
「あの男とはなんじゃ、仮にもお前が大きゅうなるまで育てたのじゃ」
「だから供養するといっちょるがや、実の親も養父もみんな平等に供養するでよ、安心してちょうよ」

こうして家族に20年ぶりに会った藤吉郎であった、そして弟を墨俣へ連れて行き木下小一郎と名乗らせた。

桶狭間の戦から7年が過ぎた、秀吉も30歳になった
今川は完全になりを潜めた、三国同盟も武田信玄の離反で崩れた
後を継いだ氏真の奥方が北条氏なので北条との同盟は継続している、しかし今川領は三河の徳川家康によって遠江も蒲郡のあたりまで侵略された
いよいよ三河武士の強さが発揮されてきたのだ
そうなるまでには三河一向一揆という大きな危機を乗り越えた体験が家康を大きくさせて、家臣団の結束を強めたのだ。

3年前に起きた三河の一向一揆(いっこういっき)は徳川家臣団をも二分して相戦う内戦であった
昨日までの家臣に岡崎城まで攻め込まれ、家康自身身も危険を感じるほどのたいへんな戦だったのだ
後に家康の知恵袋となった本多正信さえ一揆側だったのだから、根の深さがわかる、正信にしても寺仏をとるか主君をとるかで悩んだことだろう。
ある一揆側の家臣などは家康と対峙したとたん「こりゃいかん、殿様だけには刀は向けられん」と一目散に逃げだしたという。
そんな二年越しの内戦であった。



































久しぶりの美味しい刺し身

2022年10月15日 08時30分24秒 | 料理を作る・食べる
漁師のともだちから「しび」をもらった、マグロの子供。
鮮度バツグン、夕飯に調理した
10ヶ月ぶりで腕は素人並みになったかな?
でも見た目より味、最高です  ワサビではなく、おろしたての生姜でいただいた、さっぱりおいしい。
ごちそうさま。