こんな歳になって漢詩に惹かれている。といっても初心者の横好きで、思うように詠めない、理解もできないがなぜか楽しいのである。若い時からもう少し馴染んでいればと思うが、残念ながら後悔先に立たず、である。それでも教えていただきながら牛歩で前に。
中国古典文学なかの最高峰と言われる一人である「李白」の詩は、中国の先人の詩の中でも想像し難い果てしない物語が詠まれているものが多い気がする。その中でも悲壮感を短い言葉で連想させることは極めて難しい。昔の著名な文人(詩人)たちが詠んだ詩の多くは「悲壮感」を表現したものが多い。
地方に左遷され、また仕事を辞め隠棲した折の悲しみや葛藤を詠ったものや、遠くの人や故郷を偲ぶ詩が多いようである。その書き手の意図や深さを詠みとることができれば嬉しいのであるが、そうは容易くいかないのが漢詩の面白さである。
こんな思いを抱きながら「李白」を詠んでみた。
望廬山瀑布(廬山の瀑布(滝)を望む)
日照香炉生紫煙
遥看瀑布挂前川
飛流直下三千尺
疑是銀河落九天
日本語読み並びに現訳すると下記のようになる。
日は香炉(こうろ)を照らして紫煙(しえん)を生ず、遥かに看(み)る瀑布(ばくふ)の前川(ぜんせん)に挂(か)かるを。
飛流直下(ひりゅうちょっか) 三千尺(さんぜんじゃく)、疑(うたご)うらくは是(こ)れ銀河の九天(きゅうてん)より落つるかと太陽が香炉峰を照らし紫の靄を漂わせ、遥かに遠い川の向こうには滝がかかっている。
三千尺もの高きからまっすぐほとばしって、まるで天の川が天の一番高いところから流れ落ちたようだ。
左遷された李白が悲愴感に苛まれながら日々の暮らしの中で、この瀑布(滝)を見ながら新たな出発を成す力強いエネルギーになった光景だったのだろう、と想像させる。
筆者が学ぶ漢詩は、絵が必ずついている。掛け軸(写真)を見ながら学ぶものである。その絵は、詩を書いた人が描いたものと別人が描いたものがある。いずれにしても、詩を詠みとっていく場合に絵が大きなヒントになる。漢字がわからなければ絵を見る。内容がわからなければ絵を見る。絵の中からいろんな情報を読み取っていく。読み取っていくというよりは、見ながら想像を膨らませていくのである。これが実に面白い作業なのである。筆者の独断と偏見でいうなら、漢詩は想像力の産物である、ということになる。
※内容は、文人茶一茶庵の稽古から。軸(一茶庵所蔵)もその席に掛かっていたものである。
※トップの写真は、中国文化院ブログより転用
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