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分離-なぜ、アーミッシュは、現代世界から分離するのか?
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★ 「アーミッシュ」 対 「新求道共同体」 (その-2)
「アーミッシュ」 の考えでは、「世界」 とは世俗主義的社会のことである。「世界」という言葉は、高慢、貪欲、罪悪、悪徳を象徴している。悪魔の領土である「世界」は、アーミッシュ教会の純粋さと精神的豊かさを脅かす。自殺、麻薬の常用、離婚、幼児虐待、テロリズム、戦争、詐欺などのニュースに接する度に、彼らは悪魔の世界に取り囲まれていることを実感する。「世界」と言う言葉は、否定的イメージを呼び起こす。
アーミッシュが「世界」から分離しようと言う衝動に駆られた根源は、彼らの歴史にある。彼らの宗教上の原点は、1525年、スイスで起こったアナバプティスト運動にまでさかのぼる。この新しい運動は、成人洗礼を互いに行った。当時のローマカトリック教会にとって、既に幼児洗礼を受けているものの成人になってからの再洗礼は、死に値するほどの罪深いものであった。官憲とプロテスタントとカトリックの一部の過激派は一体となって、1525年以来、何千人というアナバプティストの人々を宗教的信念のために殺害した。
彼らは、拷問にかけられ、餓死させられ、溺死させられ、火刑に処せられた。彼らは見つかって処刑されるのを避けるために、礼拝を夜おこなったり、洞窟の中で礼拝をおこなったりすることもしばしばであった。彼らへの初期の激しい迫害は、残酷な記憶を残し、彼らは、「世界」が彼らの教会をさげすんでいると、固く信じるようになった。
アルザス地方のアナバプティスト達は、スイスのアナバプティストから別れ、アーミッシュ教会を設立した。ヤコブ・アモンに率いられたから、後にアーミッシュと呼ばれるようになったのである。
「新求道共同体」 も成熟した大人の信仰を求めて、洗礼の意味と価値を再発見することを目指している。幼児洗礼を受けたものも、受けていないものも分け隔てなく、初代教会のころ大人の異教徒や無神論者が信仰に導かれ、洗礼に至るまで辿った過程を、あらためてその初歩的段階から長い時間をかけて歩みなおす。しかし、その歩みが完結したとき、既に洗礼を受けている者には再洗礼を授けない点で、アナバプティストと一線を画している。その代わり、新求道共同体の場合は、道を歩みを終えるに際して、聖地イスラエルに巡礼し、ヨルダン川のほとりで「洗礼の約束」のみを新たにする(再洗礼はしない)のである。
新求道共同体は、パウロ6世、ヨハネ・パウロ二世、そして現教皇ベネディクト16世の三代の教皇により手厚く保護され、世界中の司教たちに 「善いもの」 として広く推奨されている。従って、教皇に忠実な司教たちによって、教区内で保護される場合は、のびのびと活動を展開し多くのよい果実を結ぶことが出来ている。一例としては、私が前に訪れたグアム島のアンソニー大司教の下では、新求道共同体の数は日ごとに増え、新しい神学校がそれを世話する司祭たちを輩出し始めている。
しかし、そのグアムにおいても、大司教の意向に反し共同体を理解しない主任司祭たちや、反対する一部の修道者や信徒たちによる迫害が無いわけではない。しかし、これは何もグアムという特定の場所に限った話ではない。何処でも何時でも起こりうる現象である。現代社会であるから、アーミッシュがかつてカトリック教会から受けたような拷問や火あぶりなどの野蛮な暴力は用いられないが、IT社会の進んだあらゆる手段を駆使して、誹謗、中傷、排撃に走る。そのような状況下では、新求道共同体のメンバーは、アーミッシュがかつて経験したのと同じ受難を体験をすることになる。
アーミッシュと新求道共同体との間に「決定的な違い」があるとすれば、アーミッシュはもともとプロテスタントの流れを汲むものであり、教皇やその下の教会の権威に対しては、プロテスト(反抗)することを主義としているから、堕落した、悪しき、不条理な権威に対しては不従順であることを当然とし、自分たちの正しいとするところを貫き、実行しようとするのに対し、新求道共同体はあくまでもその不条理をも神に対する信頼のもとに従順に耐え忍び、当然の正しい権利さえも放棄して、かえって教会内の迫害者の回心のためにひたすら祈ることを特徴としている。このようなことは、過去40年以上の共同体の歴史の中で、世界各地で度々起こった現象であり、それはむしろ共同体運動がよいものであることの印と考えられている。
アーミッシュと新求道共同体は、その精神と目指すところには深く共通するものを持ちながら、その現れ方は全く違う形を取る。例えば、自らの純粋さ、簡素なコミュニティの総体を維持するために、アーミッシュは、世界から離れたままであるべきだと信じているが、新求道共同体は同じ目的を追求しながら、世界から離れようとはせず、むしろ世界の中に地の塩、世の光として、積極的に溶け込んでいくのである。
カトリックの新求道共同体が、世界に背を向け、自分たちだけの閉ざされた社会に籠もることをしないのに、なぜその純粋さとアイデンティティを守り続けることができているのかと言う疑問に答えるためには、まだ多くのことを語らなければならない。 《つづく》