早くこのシリーズを終えてその結論を書きたいものですね。
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ポーランド巡礼
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第二幕 聖マクシミリアノ・コルベ神父とヨハネ・パウロ2世
第一場 第四景 「さようなら、アウシュヴィッツ」
今回の最初の写真はこれだ!
狭い中庭の壁の下に、深さ1メートルほどはあろうかと思われる四角いコンクリートの穴があった。
覗き込むと太い鉄の格子の前に赤いカップローソク状のものがあった。
コルベ神父が、他人の身代りになって餓死刑を受け、二週間後に果てたあの小部屋の窓を、
外から覗き込んでいることは、この赤いローソクで確認できた。
この時間、外の直射光は厚い壁に遮られて中の監房までは届いていないが-
ということは、囚人は空を見ることができなかったということでもあろう-、
今こうして見ると、中から写真を撮った時に、この窓のところだけ露出過剰で白飛びになっていた理由がよく分かった。
今私たちが立つこの中庭は、かつて銃殺刑がしきりに執行された場所である。
実に大勢の囚人たちが、銃弾を受けてがっくり膝から崩おれて死んでいった。
奥の壁には、この日もまた、みずみずしい生花が多数捧げられていた。
誰がどんな思いで、毎日ここに花を置いていくのだろうか・・・。
一日に数千人が通り過ぎるこの場所。砂埃を被った造花でないところが、凄いなと思った。
その前で静かに祈る我ら巡礼団の一行。
「日本のための神学院」の現院長平山司教、スアレス元院長・・・
私は、祈るというより、考えていた・・・・。
胸に数発銃弾を受けて、仮に一発が心臓を射抜いて心肺がすぐ停止したとしても、
脳みそは数十秒から数分間機能し続けるだろうか?その時、その短い時間、その人は神の前に何を思うのだろう?
それとも、何も思わないのだろうか?もし、へたくそが撃った一発がたまたま脳みそを砕いたとしたら、
その時間すら与えられないのだろうか?そして、その短い時間も尽きた後は、復活の日まで人は眠り続けるのだろうか?
何も知覚せず、何も意識せずに?・・・・
私はかつて一度だけ受けた全身麻酔の間の時間の経過を全く記憶していない。死後の時間もそれに似ているか?
主観的には死の瞬間と肉体の復活の瞬間は、二つの隣り合った瞬間なのだろうか?
その間にたとえ何千年、何万年、何十億年の時の経過がこの宇宙の側にあったとしても、それを全く知覚しないのだろうか・・・・?
神を信じる者、「肉体の復活」を信じる者にとっては、このような頭の体操は実に楽しい知的遊戯にも等しい。
私はこの遊びを恩師ホイヴェルス神父様から教わった。
しかし、日曜のミサの中で機械的に信仰箇条をぶつぶつ復唱するイタリアの庶民のカトリック信者達が、
どの程度こうした知的-やや哲学的な-遊戯を楽しんでいるのだろうか?
第一、彼らは「体の復活」なるものを真面目に信じているのだろうか?
信じているとしても、それをどのようなものとして思い描いているのだろうか?
キリストの復活の事実の理解そのものからして、全く素朴でおとぎ話的な彼らのことであるからして・・・・。
珍しく私のカメラを使って、記念写真に収まった「日本のための神学生」の一団。
足の後ろにすっかり隠れている献花の前で、みんな呑気にレンズに向かっているが、
私の想像力の向こうには鈍く光る銃口があって、
思いは:
「2-3挺の自動小銃があれば、これぐらいの数の囚人なら数秒間で始末できるだろう」という方向に飛んで行った。
下のパネルはアウシュヴィッツの強制収容所
(下の黄色い□の中のA)と、あとからそれに隣接して建設されたビルケナウの収容所(上のB)の航空写真だ。
点線で囲った部分だけで比較すると、[B] はアウシュヴィッツの優に7-8倍の広さだ。
このビルケナウは、ルブリンのマイダネク収容所型の純「殺人工場」だった。
つまり、アウシュヴィッツのように比較的労働力になりそうな囚人を、消耗するまで一定期間使役してからガス室へ送るのではなく、
到着次第、一切余分な食料を消費することなく、貨車から降ろすとすぐ女子供と男達に分類して整列させ、
直ちに裸にして-衣服所持品は几帳面に分類し-、そのままガス室に急がせて殺害し、昼夜を問わず焼却するという、
一貫流れ作業の殺人工場だった。
ここで何十万人が「処理」されたのか。ナチスはこの場所が解放される直前に、多くの証拠を爆破して隠滅している。
アウシュビッツに関しては、実にうんざりするほどの数の写真を撮ったが、それはもうこの辺で十分だろう。
巡礼はこのあともまだまだ続くのだから・・・・。
高圧電流を流した有刺鉄線が切り取った狭い地面を照らす裸電球、
その傘を下げる細いパイプの独特の曲線を目に焼き付けて・・・、
この辺でそろそろアウシュヴィッツを去ることにしよう。
この後、私たちは、あの実に男っぽいスーパースター、
故ヨハネ・パウロ2世教皇の生誕の地に立ち寄ることになっているのだ。
《 つづ く 》