:〔続〕ウサギの日記

:以前「ウサギの日記」と言うブログを書いていました。事情あって閉鎖しましたが、強い要望に押されて再開します。よろしく。

★ 「アーミッシュ」対「新求道共同体」-1

2008-08-06 14:19:05 | ★ アーミッシュ




~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

★ 「アーミッシュ」 対 「新求道共同体」 -1

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

プロテスタントの古風なマイノリティー集団「アーミッシュ」とカトリックの最も急成長の「新求道共同体」との間に、不思議な共通点と同時に、全く相反する面のあることに注目し、その両者を対比することを通して、現代における、そして第三千年紀における、キリスト教の展望を占いたいと思います。

アーミッシュについての情報は、主としてドナルド・B・クレイビル著「アーミッシュの昨日今日明日」と、「アーミッシュの謎」-宗教・社会・生活-(いずれも〔論創社〕)です。アーミッシュについては、それらの本を参照しながら、新求道共同体については私の限られた体験をもとにしつつ、展開していきたいと思います。


(1) 「成長」

共通点
アーミッシュは、ヨーロッパの母国では消えてしまったが、20世紀の今日、北アメリカの地で栄えている。20世紀初頭、わずか5000人の集団は、今日、大人と子供を合わせて12万5000人以上を数えている。ある文献によれば、アーミッシュは20年ごとに2倍に成長してきたと言われ、その数はアメリカで約16万と言う数字もある。

新求道共同体は、キコと言う一人のスペイン人の信徒(聖職者ではない)が、マドリッド郊外のスラムで初めた数十人のグループがもとで、聴くところによれば、わずか40年余りの間に、全世界に約100万人(?)のメンバーを数えるまでに成長し、今もその勢いは衰えを見せていないと言う。だとすれば、その成長率はアーミッシュを遥かにしのぐ計算にならないだろうか。

組織や集団が成長しようとするならば、生命の再生産か、外部からの補充によって、又は、その両方によって新しい構成員を作り出さなければならない。つまり、子供を沢山作るか、絶えず新たに多くの帰依者を得なければならない。

アーミッシュの場合は、その高い出生率が成長を支えてきたのは明らかである。一般的に、女性は平均7人の子供を産む。病気になったり死んだりして、子供の数は一家あたり平均6.6人である。産児制限をしないし、近代医学の恩恵にも与っているので、アーミッシュの出生率は増加してきた。

新求道共同体の場合は、その子供の数は平均で約5人と言われている。望んでも子宝に恵まれない夫婦もあるから、平均5人とは、10人、13人という子沢山の夫婦も例外ではないことを意味している。その上、子宝に恵まれなかった夫婦は、多くの場合数名の養子を迎えることも計算に入れなければならない。

相違点

では、アーミッシュより相対的に出生率の低い新求道共同体のほうアーミッシュよりはるかに高い成長を遂げているのはなぜか。
それは、アーミッシュと違って、新求道共同体が伝道活動や改宗を積極的に進めているからに他ならない。新求道共同体は、エホバの証人(物見の塔)たちのように、外に出て戸別訪問をすることも辞さない。

アーミッシュの場合は、伝道活動や改宗者受け入れを活発に行ってはいない。また、外部の人々を彼らの社会へ喜んで迎え入れはするが、電気や自動車、そして高等教育をも排除するという伝統に固執してきた彼らの社会へ、文化的飛躍を遂げて同化できる人はほとんどいない。

共通点

成長が集団社会の単なる人口動態を意味するのであれば、上の説明で足りるだろう。しかし、アーミッシュも新求道共同体も、ともに確固たるキリスト教信仰を守り実践しているところに最大の特徴がある。だから、単なる生物学的個体数の増殖の問題に加えて、同じ信仰が綿々と受け継がれていく精神的、霊的側面も考え合わせなければならない。
出生率が高く、沢山の子供に恵まれても、親から子供たちに同じ信仰が受け継がれて行かなければ、信仰者集団として成長することは出来ない。

子供たちが信仰を捨て、コミュニティーに留まらなければ、高い出生率によってもたらされた増加分は、相殺されてしまうことになる。アーミッシュはほとんどの子供たちを引き止めるのに成功してきた。ランカスター居住地での離脱者の割合は、10~24%の範囲である。リーダー達によれば、彼らの宗教的伝統を奉じる若者はますます増えている。いずれにしろ、5人の子供のうち、4人までがアーミッシュにとどまる。

私は前にもどこかで書いたが、日本のような世俗化が極限まで進んだ社会においては、親が信仰を得ても、もともと数の少ない子供たちにその信仰が伝わる確率、つまり、思春期という難しい時期を乗り越えて、子供たちが親と同じ信仰を保って生きていく割合は、アーミッシュとは逆に極端に少ない。統計的数字は手元にないが、平均では恐らく限りなくゼロに近いのではないかとさえ思われる。これは、教会の司牧の現場にいる我々神父たちの憂鬱の最大の原因である。

そうしたカトリック教会の現状にあって、新求道共同体の場合は全く様子が違う。新求道共同体は現象としてはアーミッシュとほぼ同じである。私が見てきた限りでは、その歩留まりはアーミッシュよりさらによいかもしれないとさえ思う。
しかし、その背景と理由は全く異なっている。

相違点

アーミッシュ教区の学校での8年間にわたる教育によって、子供たちの社会性は実質的に育てられる。高校や大学へ行ってはいけないので、若者は近代的価値から隔離される。子供達は一族の織り成す暖かいきずなに包まれている。コミュニティー内部で、仕事、親睦、そして事業の機会が得られるので、アーミッシュにとどまろうとする強い動機が生じる。彼らは、アーミッシュの世界と言う、もう一つの社会を築いている。それは、目的意識、アイデンティティ、帰属意識といった情緒的な安心感を与えてくれる。これらの力が、若者を、アーミッシュの一員になることへと向かわせ、彼らを離反させかねない世俗的誘惑を消し去るのだ。

アーミッシュは、近代社会の侵入に対して、いくつかのやり方で抵抗してきた。古風で地味な日常着、馬、幌馬車、ランタンなどに象徴される生活スタイルによって、近代文明生活との間に、明確な境界線が引かれている。それによってアーミッシュも外の世界に住む人達も、二つの世界を区分する文化的な柵の存在に気付くのである。さらに、このアーミッシュ社会を象徴する旗は、グループの大きな宗教的大儀のためには、利便さ、快楽、虚栄心、そして個人のアイデンティティさえも放棄するようメンバーに要請するのである。

アーミッシュはまた、外部の人々との交流を断つことによって、近代生活に抵抗している。子供の母国語がそれぞれの世界観を定めるように、ペンシルベニアなまりのドイツ語(ペンシルベニア・ダッチ)を使用することによりメンバーは団結するし、彼らと外部の人々との間には、明確な境界線が引かれる。馬による交通は、移動を制限し、外部の人達との交流を制限する。ラジオ、テレビ、その他のマスメディアを拒絶しているので、非宗教的価値の脅威から守られている。

私は、アメリカのグランドキャニオンを小型双発機で飛んだとき、人を容易に寄せ付けない巨大な絶壁の下の川筋に点在するインディアンの集落を見たが、アーミッシュの社会が同じような越え難いバリアーの向こうにあるように思えた。
もちろん、カトリックの社会にも、トラピストの修道院のように、高い塀をめぐらし、社会と隔絶して、自分たちだけの宗教的価値観を追及するグループが無いわけではない。しかし、そうした厳しい修道生活は、メンバーが全て独身者であることとあいまって、力強く増え成長することは期待し難い。

新求道共同体の場合はどうだろうか。一言で言えば、新求道共同体においては、日常生活のすべては周りの社会と全く変わったところがない。自分たちの子弟だけを集めた私立学校などもちろん無いし、本人の能力と家庭の経済力に見合った高等教育を受けることはごく自然なことである。若者は車や飛行機で移動し、インターネットなどの情報手段を手にし、近代的価値の恩恵に豊かに与り、意図的に何かを拒否し、忌避すると言うようには教え込まれていない。
彼らは、現代の世俗社会の中に溶け込み、区別し、分離する何らのバリアーも持っていない。

それなのに、新求道共同体は世俗社会の価値観に流されず、その若者たちが共同体にとどまり、共同体として急成長を続けている。その秘密の鍵は一体何なのだろうか。それに応えるためには、今しばらく、アーミッシュと新求道共同体の共通点と相違点の分析を続けなければならない。 《 つづく 》

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする