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教皇の決定的アクション(その-2)
―「新求道期間の道」の承認完了―
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承認の「教令」を読み上げるヨーゼフ・クレメンス司教
これは、1月31日にアップした同じタイトルのブログの続編です。前回の
第一部:教皇庁立「信徒評議会」局長(Secretary)ヨーゼフ・クレメンス司教による「新求道期間の道の祭儀の承認」発表
を書いたとき、私の手元にはまだ「承認書」の本文テキストが届いていませんでしたが、その後入手しましたので、そのまま全文掲載します。なぜ全文掲載かと言うと、一部分だけ切り取って違った文脈の中に挿入すると、意味が全く変わってしまう危険があり、時には正反対の印象を与えることもあるからです。以下、原文のままです:
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教皇庁信徒評議会
公文書番号 N. 1743/11/AIC110
教 令
教皇庁信徒評議会は2008年5月11日付けの教令をもって、「新求道期間の道」の「規約」を最終的に承認し、引き続き、教理省と十分に検討したうえで、2010年12月26日の教令によって「新求道期間の道」のカテケージス(訳注:信仰入門の手引)のための有効で拘束力のある「カテケージスの指導書」を承認した。
この度、使徒的憲章「よき牧者」(Costituzione Apostolica “Pastor Bonus”)のローマ教皇庁に関する第131章、133章1項及び2項に照らし、教皇庁信徒評議会は、典礼秘跡省の賛成意見を得て、「新求道期間の道」の「カテケージス指導書」に含まれる祭儀のうち、事柄の性格上教会の典礼書にすでにはっきりと規定されていない部分に対して、承認を与える。(訳注)
バチカンより、2012年1月8日主の洗礼の祝日において。
スタニスラウ・リルコ枢機卿
ヨーゼフ・クレメンス司教
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上の承認「教令」は極めて短いものであり、その内容は至って平易で誤解の余地はありません。しかし、この短い文章の背後には、多くの内容が秘められていますので、若干の訳者の解説を添えたいと思います。
テキストの中で太字にして(訳注)と記した部分は、2012年1月29日号の「カトリック新聞」2面の記事「『小教区の典礼に参加を』-教皇「道」儀式承認で強調-」、と言う記事の中に引用されています。そこでは不思議なことに「この『指導書』は、その性質上、かねてから教会の典礼書による規定に従っていない」となっています。ところが、この訳はイタリア語の原文とは全く関係のない文章です。正しい訳はすでに上に掲げたとおりです。
公正な第三者の判定を得るために、敢えてイタリア語の関連個所の原文を添えます。太字のうち特にアンダーラインの部分が別の文章にすり替わってカトリック新聞に引用された箇所です。
.... Ora, visti gli articoli 131 e 133 § 1 e § 2 della Costituzione Apostolica “Pastor Bonus” sulla Curia Romana, il Pontificio Consiglio per i Laici, avuto il parere favorevole della Congregazione per il Culto Divino e la Disciplina dei Sacramenti, concede l’approvazione a quelle celebrazioni contenute nel Direttorio Catechetico del Cammino Neocatecumenale che non risultano per loro natura già normate dai libri liturgici della Chiesa. ....
ちなみに、このイタリア語の原文の真意をわかりやすく敷衍すると「新求道期間の道」の「カテケージス指導書」に含まれる祭儀のうち、事柄の性格上教会の典礼書にすでにはっきりと規定されていない部分に対して、承認を与える。と言う言葉の背後に以下のような内容が浮かび上がります:
(1)「新求道期間の道」の「カテケージス指導書」には実にさまざまな祭儀が含まれていること。
(2)その中には、「ミサ」や「赦しの秘跡」など、事柄の性格上教会の典礼書にすでにはっきりと規定されていて、(すでにバチカンの許可を得て変更が認められている部分以外は)それをそっくり行っているものがあること。
(3)そのほかに、
- 最初のカテケージスにおける赦しの秘跡の祭儀
- 聖書の授与の祭儀
- ミサで手焼きの種無しパンとぶどう酒の両形態を用いる祭儀
- 毎週水曜日の晩に行われる「聖書」を分かち合う「みことばの祭儀」
- 歩みの各段階の集いで行われる固有の祭儀
- 毎月行われる「集い」での祭儀
- 復活祭の「徹夜祭」における祭儀
- 日曜日の朝家庭で教会の祈りを家族で唱える「家庭祭儀」
などがあること。(もちろん、これらは「新求道期間の道」固有のもので、既存の教会の典礼書には今まで全く何も規定されていませんでした。)
これら(3)に相当する部分のことがらに対して、「『新求道期間の道』の『カテケージス指導書』に含まれる祭儀のうち、事柄の性格上教会の典礼書にすでにはっきりと規定されていない部分に対して承認を与える。」と言う言葉をもって、いちいち細部に言及しないまま―しかし詳しく精査し検討された結論として―これらの諸点に対して包括的な承認があたえられる、という意味に理解するべきものです。
これが、今回の承認の「核心」をなす部分です。だからこそ、これは普遍教会全体にとって画期的なことであると同時に、「道」にとっても非常に喜ばしい記念すべき出来事なのです。
承認されたばかりの「教令」文をかざして喜ぶキコ
こうした背景を知らずにカトリック新聞の記事を読むと、結果として、「核心」の部分はどこかに消し飛んで、まるで教会は「今承認したばかり」のことを、同じ席で「直ちに否定」しているかのような、全く矛盾した不可解な印象を読者は受けるのではないでしょうか。
バチカンの公文書を故意に改竄(かいざん)し、それをカトリック教会の機関紙であり良心である「カトリック新聞」に堂々と掲載するというようなことは、絶対にあってはならないことであり、あり得ないことであり、だからそんなことはなかったと私は固く信じます。
だとすれば、今回の誤記事を書いた匿名のイノセントな筆者は、イタリア語の基本的単語を誤って理解し、それを辞書で確認することもなく、基本文法にも暗く、初歩的な誤りを犯していることに全く気付かなかった、という以外に説明のしようがないのではないかと思います。
それにしても、バチカンの機関紙をはじめ、各国語の新聞が大きく報道し、内容を正しく伝え、一斉に好意的記事を書いている中で、この「誤訳」のせいもあって、同新聞の読者には、結局何が起こったのか、どういう内容のものであったのか、肝心なところが全く伝わってこないで、ただ何かわからないまま否定的な後味だけが残るという報道の仕方は、如何ともし難いものなのでしょうか。
集まった関係者にメッセージと祝福を送る教皇ベネディクト16世
(おわり)