「光りの園」
「光りの園」の背景に具体的な「Xの園」がモデルとしてあったのかどうか、生前にホイヴェルス神父様にお訊ねしそびれてしまった。今となっては確かめようがない。
師は生涯東京の四谷、麹町界隈の外にはお住いにならなかったが、旅行としては全国各地にかなり広く足跡を残されている。そして、一緒に行こうと、よく私を旅に誘われた。丹後の宮津に古いお友達の老宣教師を訊ねる時も一緒で、ついでに天の橋立では二人並んで股のぞきもした。京都の安泰寺には師を澤木興道老師にお引き合わせしにご一緒した。日本に来て四十年ぶりかに故郷ウエストファーレンのドライエルヴァルデ村のご生家に戻られた時などは、姪子さんのタンテ・アンナの手料理を、師の少年時代の勉強部屋のテーブルで二人でいただいた。初めての海外旅行インドの旅は、中でも特別な思い出として私の心に焼き付いている。
信州上田の澤木老師の参禅会 くつろいだ縁側のひと時 ホイヴェルス師の右が筆者
そんなホイヴェルス神父様だから、野のお地蔵さんや、田舎のお寺や、動物たちのことなどは、詩人の感性で、ユーモアをこめて、細かく描かれるのが常だった。師の観察描写と、日本に来てからおぼえられた師の繊細な書き言葉づかいの見事さに注意をはらいながら読みましょう。
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「光りの園」
= ホイヴェルス随筆集「時間の流れに」より ー(1)
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丸いお顔のお地蔵様は、石の台にじっと立ったままでいます。それはある夏の「光りの園」の森の中のことです。お地蔵様のおつむの上の方。松の梢で蝉が勢いよく音楽を奏でています。鍛冶屋が鉄をきたえるように、ガチャガチャ騒ぎ立てるものもあれば、大工さんが家を建てる時のような音を立てて泣くのもあります。独奏者のように透きとおったいい音色で上手にヴァイオリンを弾くのもあり、角笛のような悲し気な震え声で鳴くのもあります。それは、世界の終わりを告げるかと思われるほど憂鬱なメロディーです。ひぐらしが鳴いているのです。そのメロディーは森の木々がおののき震えるほど悲しそうに聞こえます。それでもお地蔵様はじっと立ったまま、暑い夏の陽と快い森の音楽に包まれて、いかにもご機嫌です。
時々、別の音がお地蔵様のお耳にはいります。それは、ガアガア鳴く家鴨の鳴き声や、メエメエ鳴く山羊の声や、それから親犬を取り巻いて、小さいけれどかん高い声でクンクン鳴く五匹の小犬のかわいらし声です。五匹の小犬がクンクン鳴くと、お地蔵様は、さも嬉しそうに耳をそばだてて聞きます。
「きっと親犬は子犬たちをわたしの所へ連れて来るに違いない。小犬たちは、頭をピョンピョンと下げて、お辞儀をするだろう。そうしたら、私は喜んで、まんまるい月さまのような顔で小犬たちにほほえんでやろう。」
そして、お地蔵様は精いっぱい横目を使って、小犬たちを見るのです。親犬は、小犬たちを引き連れて森の小道をやって来ないであろうかと。
その間、お地蔵様は辛抱して待っていなければなりません。そして、ちょっと不機嫌な気持ちで、どんなふうに家鴨や山羊が子供たちを育てるかを考えてみます。この春ごろ、家鴨の雛が卵からかえったとき、それは本当に柔らかな産毛に包まれて、とてもかわいい小さなものでした。家鴨の親はきっと雛を連れて、お地蔵様にご挨拶をさせに来るだろうと待っていましたが、家鴨は一度もそんなことをしませんでした。家鴨は朝から晩までガアガア鳴きたて、雛は声を合わせてピヨピヨ鳴いていましたが、今ではもう母さん家鴨のようにガアガア鳴くことをおぼえたのもあります。それで、お地蔵様はもう自分の所には来ないものとあきらめてしまいました。
その後、子山羊が五、六匹生まれました。恐らく山羊の親たちは家鴨よりも礼儀を知っているだろうと、お地蔵様は思いました。山羊はかわいいものだから、どんなに悪戯をしても、私の頭に這い上がっても、何とも言わずにさせておこうと思いました。けれども子山羊は一匹もやってきません。ところが、お父さん山羊は、子山羊たちがお地蔵様の所へ行かないのをたいへんすまないと思っていました。ですから憤慨して、いつも厳しくメエメエ鳴くのでした。けれども、彼の威厳などは「光りの園」ではたいしたものではありません。仕方なくお父さん山羊は、小山羊たちの責任を一人で負って、小山羊の不信心を償おうと思いました。それで、山羊は一日中お地蔵様のまわりの笹を食べては、笹がお地蔵様のまわりのお邪魔になるほど伸びないように注意しているのでしょた。夕方になって仕事が終わると、お父さん山羊は、うやうやしくお地蔵様の前にぬかずき、挨拶をすませると、お地蔵様の足下に横になって眠ります。お地蔵様は「まあ、いい」と思いますが、でも年とった山羊より、あのかわいい五匹の小犬と小山羊がきてくれればよいのに、といつも考えるのでした。
日に三回ずつ、親犬はお地蔵様の側を通り森の小道を抜けて、人家の方へ行きます。そこには食べ物があるからです。お地蔵様は親犬に同情しています。発育ざかりの五匹の小犬に、おなか一杯乳を飲ませられるほどたくさん食べものを探すのは、それだけでもたいへんな骨折ですから。小犬たちは、親犬の回りをとび廻って、一緒に森の小道を登ろうとしたりするときもあります。親犬が食べて帰ると、長いこと留守していたので小犬たちは、あわててとびついたり、あまえて、おこって吠えたり、大きく口をあけて親犬のおなかに顔を突っこみ、後足を思いきりのばして体をささえ大変な勢いで思いっきりお乳を吸うのです。
お地蔵様は、時々親犬が我慢しきれなくなって、いらいらするのを無理もないことだと思います。手におえなくなると、親犬は飛び上がって、小さな邪魔者どもを払いのけようとしますが、それでも固く吸いついて離れないときは、乱暴な声で吠えたてるので、小犬たちはびっくりして、家の縁の下に逃げこんでしまうのです。
こんなことを、横目をしては右の目のほんの隅っこで見ながら、お地蔵様は心の中で「なんと親犬は愚か者だ。どうして私の所へ小犬を連れてこないのだろう。もし連れて来たなら優しく迎えて、彼らにほおえみ、生存のあらあらしい欲望を和らげてやるのに・・・。そうしたら、次々に悪いことを重ねることもあるまい。それよりも今度生れ変るときには、一段高い位の人間として生まれ、小坊主になって、この世の一切の欲望から解脱して、安らかな涅槃にはいれるのに・・・」と考えるのです。
親犬は、お地蔵様の気持ちなど気にもかけず、お地蔵様などは、馬鹿にしてもよいと思っています。なぜなら、森の中にもっともっと、偉大な保護者を見つけたからです。骨の折れる一日が終わると、親犬は自分たちの快い休み場にゆくために、五匹の小犬を引き連れて、巡礼のような行列を作り、庭から森の中へとチョコチョコと先頭に立って歩いてゆきます。子犬たちは充分食べた大きなおなかをして、一匹ずつ勇ましく尾をふりながらついていきます。親犬は脇目もふらず、ちょうど、鳥がねぐらに、蜂が巣に真一文字に帰るように、真直にお釈迦様のみ堂に向かって行きます。
お釈迦様は、あらゆるものにまさっています。親犬は大きな入り口の扉をくぐり、広いみ堂にはいります。そして歩調をゆるめると、ゆっくりと真中を歩いて行きます。み堂の中では、四方の壁から、五百羅漢がこの夕方の巡礼をいかめしく見下ろしています。この五百人のお釈迦様のみ弟子たちは、お釈迦様のように心の静けさを味わおうと大変に骨折り、その最後の努力で石化してしまったのです。顔も着物もまちまちで、態度も違っています。身体も顔も、人間の最期の心の動きを現わしています。羅漢様の一人はティル・リーメンシュナイダーの彫刻した司教の顔のようです。あの羅漢様は隠遁者聖ヒロニムスのような落着いた顔をしています。しかし、そこにいる羅漢様は、砂漠の中で、誘惑の渦の真只中にいる聖アントニオのように失望したような顔をしています。皆、涅槃を望んではいても、まだ心は何か欲の絆にしばられているようです。
親犬は、この五百人の得の足りない者には目もくれずに進み、真直ぐに、正面にむかっている完徳に達したお釈迦様の絵の方に進みます。お釈迦様は固い石に彫ったものではなく、軟らかい色で描かれたその絵には、金色の後光がさしています。この五百人の羅漢様が大変な努力をしてえようとした心の平和は、この絵のお釈迦様の顔に、あたかも満月の光りのように輝いています。もう心の動きは少しも顔に現れません。一切の欲望は消え失せ、しかめ顔は満月の光に変わります。
親犬は、この絵の前の布団の上に横になります。この布団は、昼間、人間の巡礼者が世の中の数えきれないほどたくさんのまよいから逃れるために座った所です。可哀想な親犬は一日の骨の折れる仕事の疲れをここでいやされます。五匹の小犬は一しょに寝ます。もう彼らの欲望はおさえられ、うとうとしながらお乳を飲みます。一切の激しい欲望は消え去って、ぼんやりとなにげなくお乳を飲み、飲みながら眠り込んでしまうのです。
お釈迦様は、高いところから親犬と小犬たちを見下ろしています。いまからおよそ二千五百年も前に、自身の心をおさえ、その後、数え切れぬほど多くの人々の心を和らげたお釈迦様には、この五匹に小犬の欲望を少なくすること、親犬がその重荷の下におしつぶされないように、小犬たちの欲望を少なくすることは、たいしてむずかしいことではないでしょう。
いかがでしたか?
まず、日本語の繊細さ、美しさに驚かない人がいるだろうか。お地蔵さんにはホイヴェルス神父様自身が重なる。母犬、小犬、家鴨親子はもちろん神父様のまわりの生活人たちの姿。神父様には心ひそかに信者たちから期待したことが、失望に終わったこともあったでしょう。石の五百羅漢とお釈迦様の絵、お堂の真ん中の座布団を占領する犬の親子も・・・、それぞれ何かを象徴しているのです。
愛情とユーモアと、時にはちょっとしたアイロニーもこめて、ホイヴェルス師の心の世界が映し出されている。何度読み返しても、味がある。
私は、ホイヴェルス神父様から宣教への熱意を有難い気持ちで教わり、受け継いだと自負している。 そして、ローマで神学の勉強をして54歳のときやっと司祭になり、さらに数年後、日本に帰国してからは、情熱を込めて宣教に励んだつもりだった。金を集めて、四国の三本松の田舎に私が学んだローマ教区立のレデンプトーリス・マーテル神学院の世界で7番目の姉妹校を誘致した。深堀司教様のもとでは美しく開花して、一気に30人余りの司祭を生んだ、しかし、その後、日本では閉鎖を余儀なくされ、ベネディクト16世に救われてローマに避難し、フランシスコ教皇の訪日に合わせて日本に再上陸するはずだったが、それも最後の最後にかなわなかった。今は、その残り火のような「日本のためのレデンプトーリス・マーテル国際宣教神学院」がローマで生き延びてはいるが、もう私の目の黒いうちに日本に帰ってくる日を見ることはないかもしれない。(今は世界中に125以上の姉妹校をかぞえ、文明国でそれを持たない国は日本だけだ)。
遠藤周作のイデオロギーの「日本の土壌にはキリスト教は根付かない。植えても根が腐って死んでしまう」がフト頭をよぎる。遠藤が正しいか?ホイヴェルス神父様の化身のお地蔵様の悲哀、家鴨の雛も、山羊の子供たちも、小犬たちも自分の所にはついに来なかったと言うお話は、日本での宣教の独特の難しさを言い表されたものだろう。せっせと成人の求道者に洗礼を授けても、その人のこどもたち世代に信仰は受け継がれない場合が多い。やっぱりお釈迦さまの絵の微笑みのほうが犬たちにはいいのだろうか?それともお金の神様の微笑みか?
しかし、イエス・キリストは死に打ち勝って復活された。コロナの後、日本の教会が自然死を遂げたそのあとに、きっと復活の朝が訪れることを私は知っている。ホイヴェルス神父様の身をけずるような宣教の努力は、必ず実を結ぶと私は確信している。師は葬られて日本の土になった。ヘルマン・ホイヴェルス神父の蒔いた種はもう芽を出している。来日したあまたの宣教師の中で、没後44年間、毎年途切れずに追悼ミサが捧げられ、人が集った例が他にあっただろうか。師が書かれた「キリストの復活能」は最近バチカンで半世紀ぶりにフランシスコ教皇の御前で上演された。伝統を重んじる能の世界で、世界に初めてたった一枚だけ彫られた「復活のキリストの面」をシテが着けて舞った。
コロナの波も不思議と6月9日の御命日には静かだった。今年の6月9日は、果たしてうまく第6波と第7波の谷底で迎えることができるだろうか。今や、追悼ミサの参加者の中に、生前の師の姿を知らない世代が増えてきた。それもそのはず、師のお葬式のミサに50才で与った人は今年95才に達しているわけだ。それなのに追悼ミサに与かる人の数が激減しないのが、不思議と言えば不思議ではないか。この世俗化の世界で、キリスト教に春が訪れるまで、ホイヴェルス神父様の宣教魂の火をリレーしていかなければならない。
ホイちゃん(と、信者たちはみな師をそう呼んでいた)なら、すっかり変わってしまった今の世の中、今の教会の姿、野蛮なウクライナへの侵略戦争を、日本で第二次世界大戦の東京大空襲前後を経験されたドイツ人として、いったいどう思われるだろうか。師の目線を借りて思いめぐらさないではいられない。
緊急補足
プーチンの蛮行を見て、「神父答えろ!神はどこにいる?キリストはどこにいる?」と問う人がいた。
お答えしたい。神はキリストともに居られる。そして、キリストは、アウシュヴィッツのガス室に送られる裸の女子供たちと共におられたように、いま、ウクライナからの難民の間に、戦場で「ママ」と呼んで泣く19才の童顔のロシア兵のそばに、そして、一秒ごとに命を狙われているウクライナのゼレンスキー大統領とともにおられる。イエスは身内の裏切者の密告で売られ、隠れ家のオリーブの園で捕らえられ、拷問を受け、十字架に架けられて刑死した。ゼレンスキーが引き受けたリスクも同じパターンに終わる可能性がある。しかし、ウクライナは復活する。イエスが復活したように。
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