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私の ウクライナ と 懐かしの キエフ
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ゼレンスキー大統領
1980年のある日、アエロフロートのロゴのある分厚い封筒がポストに入っていた。???! 全く思い当らない。だが、不審に思いながらも封を切って目を通すうち、どうやらモスクワ旅行に招待されているらしいことが見えてきた。
どうして私が選ばれた?という疑問はさておき、――そこは若さと好奇心――試しに招待受諾の返事を出してみたら、瓢箪から駒、本当に行けることになった。なぜか?
当時――今もだが――北方領土問題が未解決のため、いつまでも日ソ平和友好条約が締結されない。だが、そのままでは万事ぎくしゃくして双方に不利益が多い。そこで、少しでも風通しを良くしようと、民間交流を装った「日ソ円卓会議」なるものの第一回が、すでに前年に東京のホテルニューオータニで開かれていたことは、あとで知った。相手側はソ連の政府機関があからさまに露出している。対する日本側は、あくまでも民間の建前を堅持しながら、実態は政・財界、文化、芸術、報道、学術、スポーツなど、オールジャパンのあらゆる種類の人間が、美味しい汁を吸いたくて群がっていた。
日ソ円卓会議モスクワ会場コスモスホテル 1980年にモスクワオリンピックのために建てられた
モスクワ開催の「第2回円卓会議」からは文化部門に「宗教交流」という分科会が加えられた。ソ連側からはロシア正教会がドンと前面にでてくるのだが、日本からは伝統仏教の各宗派をはじめ、神道、プロテスタント各派、各種新宗教が軒なみ名を連ねていた。
それなのに、カトリックの名がない。多分、日本の司教団とモスクワが切れていて、アメリカに亡命中のロシア正教と繋がっていたからではないかと勘ぐった。カトリックは日本でこそマイナーな存在だが、グローバルには世界最大の宗教だから、分科会に日本のカトリック代表が不参加では、臥竜点睛を欠くことになるらしい。
そこで、モスクワの組織委員会はNCC(日本キリスト教協議会)と相談して、誰でもいいから適当なカトリック信者を推薦しろと言うことになったのではないか。そして、ベトナム反戦運動以来、NCCと仲良くしていた私に目をつけて一本釣りしたと言うのが大体のストーリーだろう。
では、どこで私とウクライナ、キエフが繋がるのか。
恥ずかしげもなく、日本のカトリック教会の正式代表の肩書を頂戴した私は、第2回から第6回まで、モスクワ・東京で交互に開催される会議の全てに出席した。堂々とロシアのテレビのインタビューにも応じた。
日本側の団長は自民党の桜内幹事長という禿げ頭のおじさんだった。それが社会党の河上民雄国際局長(河上丈太郎社会党委員長の息子)と手を組んでいるのだからまさに呉越同舟だ。加えて、私が日本のカトリック教会の正式代表として混ざっているのだから、もうメチャクチャもいいところだった。
モスクワ会議の後には、必ず何コースかのオプションツアーのご招待があった。第2回の時は《赤い矢》の夜行特急でレニングラードに行くコースをわたしは選んだ。そして、トレチャコフ美術館をはじめ、主なところを全部みせてもらった。第4回は近場のザゴルスクに、6回目はウクライナの首都キエフとグルジア共和国の首都トビリシへの旅という豪華版を選んだ。
飛行場でキエフ行きに乗るときからソ連ならではの光景にぶつかった。このオプションツアーの御一行様は、搭乗を待つモスクワ市民を有無を言わせず押しのけて機内に案内され、割りを喰らって乗り損ねた乗客を尻目に、飛行機は悠々と離陸したのだった。
ヨーロッパ最大の穀倉地帯を遠く見遥かしながらキエフの空港に降り立つと、まずロシア正教の主教さまにご挨拶に行くことになった。黒い僧服に独特の頭巾をかぶった主教様は宮殿さながらの主教館の執務室で威厳を漂わせて我々を歓迎した。そして、最後に「ひと休みなさったら、今夜はキエフのオペラ座でまたお会いしましょう」と言われた。
キエフと全ウクライナの現在の府主教さま。 私が40年前に会った人のと頭巾が違うような気がする。 確か黒ではなかっただろうか? それとも私がお会いしたかたは身分が微妙に違ったのか?
5つ星のホテルでひと息入れて、めかし込んでオペラ座に着くと、美しい夫人と凛々しい息子たちを引き連れた背広の紳士が、にこやかに「ゆっくりお休みになれましたか」と言いながら、これが妻の○○です、こちらが息子たち・・・と紹介し始めた。私は一瞬キツネにつままれた思いがしたが、よくよく見ると、その紳士は先ほど宮殿で会ったばかりのキエフの主教様その人ではないか。
だが待てよ?カトリックの聖職者はみな独身でなければならないが、ロシア正教では司祭に叙階される前に、結婚するか、生涯独身を通すか、自由に選択することが出来ると聞いていた。ただし、結婚の道を選んだ司祭には、主教、大主教などの高位聖職者になる道が閉ざされる建前ではなかったか?この夜のことは、今もって謎として私の胸に残っている。
オペラの出し物はいま思い出さない。だが、ウクライナの古都の佇まいは、歴史と文化の結晶そのものという印象と共に、私の心に刻まれた。平和だった。そして豊かでもあった。
そのウクライナがいま戦場と化し、美しいキエフの街の破壊が目前に迫っていると言う事実は、絶対に受け入れられない不条理だ。
かつての夜、わたしが父に手を引かれて外に飛び出した時には、住んでいた仙台の警察部長官舎にはもう火の手がまわっていた。この日に備えて官舎の裏手に公費で掘られた巨大な防火用水池など、肝心の時には何の役にも立たなかった。
アメリカのB29の大編隊は、地上の炎を翼に反射しながら、先ず悠々と市の周辺部をひと回り焼夷弾で焼き払い、さらに市の中心部にご丁寧にも十文字に焼夷弾の雨を浴びせながら飛び去っていった。市民の大量死を承知の上で、都市をまるごと焼き尽くす無慈悲な絨毯爆撃の凄さが子供心に焼き付いた。広島、長崎はただその延長線上のジェノサイドすぎなかったのではないか。日本を無条件降伏に追い込むために必要・有効な作戦だった、とアメリカ人が言うなら、プーチンが同じ論理でウクライナに核兵器を使ったとしても、バイデンに、そしてアメリカ人に、それを非難する資格があるだろうか。アメリカ人もプーチンもやることは同じだ。相手が降伏するまで際限なく殺人と破壊行為をエスカレートし続けるのだ。
それがいま77年後にまさにウクライナで再び現実のものとなりつつある。
世界は、核による第三次世界大戦の破局を恐れるあまり、ウクライナを生贄(いけにえ)として差し出し、歴史を誇る美しいキエフの街を廃墟にすることに手を貸すというのか。それは、共犯でしかない。
プーチンは今やヒットラーと同じ手負いの獅子だ。彼にはもう失うものがない。核のボタンを押すことに何の躊躇があるだろうか。自殺志願者が、どうせ死ぬなら、いっそのこと一人でも多く道連れに、と満席の旅客機で墜落自殺を遂げる狂気だってあり得る。プーチンにとって、核のボタンを押した結果、核戦争の第3次世界大戦になって人類が滅亡したからと言って、どうせ死んで無になる彼の身にとっては同じこと。地獄などありはしないし、と思うのだろうか。
しかし、待った!後述するファチマの予言では、聖母マリアは戦争の話のついでに地獄の実在を牧童ルチアにはっきりと幻視で示している。そして、プーチンの狂気を止めるために持てる影響力を行使しなかった者も同罪で、彼らを地獄が口をあけて待ち受けているだろう。その咎めはバイデンにも、G7のメンバーにもローマ教皇フランシスコにも、自分の小さな持ち分で責任を果たさなかった世界中のすべての小市民たちにも、致死量の放射線の形で平等に覆いかぶさってくるという地獄が待ち受けているのだ。
わたしの敬愛するホイヴェルス師は、神父になる前にドイツ陸軍の衛生兵として志願し、戦場に立たれた。人を殺さない主義のぎりぎりの参戦だった。いま、ウクライナには、私たちが高松に誘致した「レデンプトーリス・マーテル国際宣教神学院」の姉妹校が3つある。そこの神学生たちも、総出で市民の避難を助け、ロケット弾の被爆者の救援に命を懸けている。
ウクライナのチェルノブイリは人災事故だった。福島の第1原発暴発も津波によるただの天災として片付けられない。原発をめぐる危険な火遊びは絶対に許されない。偶発的不測の事態を招くリスクが高すぎる。プーチンによるウクライナの原発への攻撃は、日本に対する大きな警告となっている。
ある日、ロシアと、北朝鮮と、中国と、あるいは、考えたくないがアメリカとの関係が険悪化したとき、日本の津々浦々にある原発は、一転して全ての日本人に対する一大脅威と化すことになる。訓練を積んだ特殊工作兵士の5人もいれば、夜陰に紛れてゴムボートで潜入し、敦賀原発を次々と暴発させて、日本列島を高放射能レベルの無人の荒野に変えることが簡単に出来るのだ。北朝鮮の大陸間弾道核爆弾のような大げさなものは必要ない。
島国日本は周囲を海で護られている反面、攻撃する側からすれば原発を破壊して日本を人の住めない島にしても、海のおかげで致命的影響は自分たち中国にも朝鮮半島にも、ロシアにも直ちに跳ね返ってくる心配はない。だから、海の存在はかえって日本に核攻撃を仕掛ける誘因にさえなるだろう。
第2次世界大戦の時のアメリカには、まだ古都京都、奈良への無差別爆撃を控えるだけの余裕と良心のかけらが残っていたが、手負いのプーチンにはそのような自制心を期待することはできない。美しい古都キエフもトビリシもどこも同じことだ。
話を日ソ円卓会議に戻そう。参加してみて、日本の代表団には身内の親近感のようなものを感じた。それは、日本の代表団の取りまとめをしている人たちに社会党系のクリスチャンが多かったからではなかったか。そもそも社会党の初代党首片山哲からしてクリスチャンだった。代表団のリーダー格の河上民雄社会党国際局長もその父親の丈太郎社会党委員長も世に知られたクリスチャンだった。当時の委員長の土居たか子(通称おたかさん)も隠してはいたが知る人ぞ知るクリスチャンだった。私は議員会館のおたかさんや河上民雄の部屋にも出入りしたことがあって、お二人の秘書嬢たちとはそこそこ親しい面識のある関係だった。彼女たちもみな円卓会議に連なっていた。
だから、当時の社会党にはキリスト教精神の香りがそこはかとなく漂っていた。円卓会議では積極的役割を担っていたが、ソ連が崩壊したのと軌を一にして凋落していったことから後付けで考えると、政治資金が流れていたかどうかは別にして、ソ連と当時の日本の社会党は深く繋がっていたのではないかと複雑な気分で思いかえす。
そこへ行くと、日本のカトリック教会は政治の世界では全く腰が引けている。どっちみち、戦中も戦後も常に軍部や保守政権の顔色を窺って生き延びてきた宗教だ。日本だけではない。第2次世界大戦中、独立国バチカンの領土である聖ペトロ広場でユダヤ人がナチスのSSに連行されても、ピオ12世教皇は見て見ぬふりをした。
アウシュビッツの実情をどの国の諜報機関よりも詳しく知る立場にあった教皇が、世界の信者に向かってヒットラーの蛮行を名指しで糾弾しなかったことによって、600万とも800万とも言われるユダヤ人がホロコーストの犠牲者として見殺しにされた。
その点、ポーランド人の聖教皇ヨハネパウロ2世がソ連の崩壊に決定的役割を果たしたことは特筆に値する。それに比して、今のフランシスコ教皇はウクライナのことでロシアに有効な働きかけをしているとはまだ言えない。
先にちょっと触れたが、世にファチマの予言というのがある。ポルトガルの片田舎の3人の牧童に聖母マリア様が現われ、俗にいう「三つの予言」を託したと言われるが、その内容は戦争の終結、新しい戦争の始まり、教皇の暗殺に加え、ソ連の崩壊や、ロシアの回心のために祈ることの必要性などが含まれていたようだ。果たしてその予言は的中したのだろうか。
先ず戦争の終結。ファチマの聖母の出現は第1次世界大戦のさ中の1917年5月23日だったが、予言通り戦争は翌年1918年に終結した。予言された新しい戦争、つまり、第2次世界大戦は1939年に始まって、1945年に終わったが、引き続き東西冷戦の時代に移行し、無神論的唯物論を国是とする独裁政権下のソ連(ロシア)の存在は自由主義世界の脅威となっていた。ファチマの聖母がロシアの回心のために祈れと言われて久しく、ポーランド人の教皇ヨハネパウロ2世が誕生した。
1979年、同教皇はソ連の衛星国として圧政に喘いでいた祖国ポーランドを初めて訪問し、連帯労組のワレサ議長を励まし、アメリカからの活動資金をバチカン銀行を介してワレサに届け、民主化を積極的に支援した。
1981年、ソ連は最大の脅威である皇ヨハネパウロ2世を排除するために、プロの暗殺者を差し向け、バチカンの聖ペトロ広場で一般謁見の最中に至近距離から教皇の腹部に2発の銃弾をあびせて暗殺を実行した。それは5月13日でファチマに聖母の祝日のことだった。失敗することは絶対にあり得ないプロの暗殺者によって、絶対確実な致命傷を負わされたにもかかわらず、教皇は死を免れた。それは神様の介入による正真正銘の奇跡と言うほかはない。そしてこの奇跡を境に世界情勢は急展開を遂げる。
1983年6月、教皇ヨハネパウロ2世の第2回目ポーランド訪問。
1984年10月19日、連帯と関係のあったポピエウシュコ神父が秘密警察によって殺害された。
1987年6月16―23日、教皇ヨハネパウロ2世3回目のポーランド訪問。
1989年6月18日、ついにポーランドに非共産党政府生まれ、やがて駐留していたソ連軍は撤退した。
1989年11月9日、ベルリンの壁の崩壊。東西ドイツの統一。
1991年12月25日、ソ連の崩壊を受けて、ロシアの誕生とともに、ウクライナを含むすべての連邦構成共和国が主権国家として独立。ここまでファチマの予言通りに歴史は展開した。
戦後、秋田の湯沢台には、3人の姉妹たちによって聖体奉仕会という女子修道会がつくられた。そこに後から加わった笹川シスターに聖母マリア様が出現し、現代の世相を憂い、人々が回心しなければ人類に恐ろしい災厄が下ると警告された。
それを時代錯誤の迷信と笑って片付けるのは簡単だが、極めて真面目な話だったので、かいつまんで紹介しよう。
クリスチャンではない日本人の仏師に彫られた十字架を背負った珍しい形の秋田の聖母像
重度の障害者手帳を持った聾者のシスター笹川は聖母像の方向から、えも言われぬ美しい声のお告げを聞いた。一度目の1973年7月6日には、修道女への同情と耳の不自由の治癒の予告が、二度目の8月3日には、人類への警告と勧めが告げられた。具体的には、世の多くの罪人や忘恩者が神を悲しませているので、彼らに代わって苦しみ、貧しさを捧げて償う霊魂を聖母は求めているというもの。また神の怒りを知らせる為に、人類の上に大いなる罰が下されようとしているが、祈りや犠牲的行為を通じて改心して祈ることによって、主の怒りを和らげ罰を遠ざけることができる、という趣旨であった。
1973年10月13日には、「もし人類が悔い改めないなら、御父は全人類の上に大いなる罰を下そうとしておられます。その時御父は大洪水よりも重い、今までにない罰を下されるに違いありません。火が天から下り、その災いによって人類の多くの人々が死ぬでしょう。」という三度目の聖母からのお告げがあった。そして、この一連のお告げのあいだ、湯沢台の修道院の木彫りのマリア像は101回にわたって涙を流した。秋田大学の法医学部は、その涙が人間の体液であることを確認している。
また、修道女は天使を何度も目撃し、6月29日には天使は彼女にロザリオの祈りの区切り目に、ファチマの祈りを付け加えるようにと指導した。この祈りは、聖母が1917年にファチマで3人牧童たちに教えたものだった。
ここに、ファチマの聖母の予言と秋田の聖母のお告げとの連続性がみられる。これについては、秋田の故伊藤司教とベネディクト16世教皇を除けば、日本の司教たちは冷ややかな無視の姿勢を保っているが、海外からはファチマ同様に巡礼が集まっている。
わたしは、湯沢台の修道院の三人の創立者もシスター笹川も個人的によく知っていたし、聖母の涙の不思議な出来事の目撃者の一人でもある。ちなみに、シスター笹川は奇跡的聴覚治癒の後、秋田の保健所に障害者手帳を返納している。そして、その時以来わたしは彼女と長距離電話で話せるようになった。
ファチマの予言に含まれるロシアの回心のための祈りの勧めと、秋田の聖母の「火が天から下り、その災いによって人類の多くの人々が死ぬでしょう」は結びついて、今のロシアのウクライナへの侵略と、核爆弾投下の可能性を示唆しているものとわたしは考えている。
その可能性が現実とならないために、世界の10憶のカトリック信者は、自分たちの罪を悔い改め、ウクライナでのロシアの残虐行為を終わらせるために真剣に祈らなければならない。フランシスコ教皇はバチカンから全世界のキリスト者に向かって、ロシアと旧ソ連邦諸国における戦争、第三次世界核大戦回避と平和のために祈るよう求めなければならない。そして、日本の司教たちはそれぞれの教区の信者たちにプーチンの回心と侵略戦争の即時終結のために教会に集まって一緒に祈るよう指導しなければならない。コロナを恐れて信者が教会に集まるのを禁止している場合ではないのだ。
みんなが回心して平和のために結集して祈るなら、その祈りは必ず神に届き、世界の破滅を伴う第3次世界大戦の終末的核戦争は回避されると私は信じる。
プーチンは神を畏れないのか
しかし、世界のキリスト者の無関心の結果、もしウクライナがロシアに併呑されれば、次はバルト三国やジョージアが同じ運命を辿ることになるし、そうなれば、終末論的核戦争も現実のものとなるだろう。だからどうしても今止めるしかないのだ。
教皇フランシスコは、また世界の司教たちは、何故声をあげないのか?日本の司教たちも何もしないで手をこまねいているつもりか。たとえそうであっても、心ある信者は自発的に集って祈らなければならない。
わたしは、黒海とカスピ海を繋ぐコーカサス山脈の雄大な自然に抱かれたジョージアの首都トビリシの街を懐かしく想い出す。とくに、民族衣装に身を包んだ美しい乙女たちの、タンバリンを手に優雅に踊る夢のような姿を決して忘れることができない。ロシアの圧政に何世紀にもわたって苦しめられながらも、たくましく生きてきた彼女たちの伝統と平和が時代錯誤な侵略戦争によって破壊されないことをわたしは心から祈る。
グルジア共和国の美しい古都トビリシはこのコーカサス山脈の麓にある
教皇ヨハネパウロ2世の暗殺事件については、私のブログのカテゴリー「教皇暗殺事件」(10編)―2011年2月3日~6月6日―に詳しく書いているのでぜひご参照下さい。
尚、「日ソ円卓会議」の頃はまだ私のブログが始まっていなかったので、残念ながら記録がありません。