「母の愛馬」
H・ホイヴェルス随筆集「時間の流れに」より -(2)
私の手元にユニヴァーサル文庫の「時間の流れに」という一冊がある。H・ホイヴェルス著、戸川敬一編で「ときのながれに」と読む。ネットの古書マーケットでも恐らくもう手に入るまい。
初版の出た昭和34(1959)年4月20日は、私の20歳の年で、ホイヴェルス師からサイン入りで頂いたものはもうないが、その後買った第6版(昭和42年)定価200円のものが手元にある。
さり気ない文章だが、その味わいは尽きない。今の世の人に、こんな本があることを知ってもらいたい思いで、前回の「光りの園」に続いて、これから逐次、ブログに転載することにした。
H・ホイヴェルス神父 四谷のイグナチオ教会で 写真は私が撮影
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母 の 愛 馬
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まだ石油ランプの時代でした。冬の夜暖かい部屋で兄と私がギリシャやローマの古典の勉強を一通り終えた頃、母は妹たちをつれてその部屋へはいって来て、母の幼い頃の話をよく聞かせてくれたものでした。私たちはそれを聴くのが大好きでした。母が可愛がっていた馬ハンスについての話もそうした折に聞いたのです。
でも、その前にちょっと私の母をご紹介しておきましょう。そうすれば、このお話もずっとわかりやすいでしょうから。母の里は生粋のウエストファリア地方の農家でした。母は一番年下で、姉が四人、兄が三人いました。名前はヨゼフィナといいましたが、家では兄たちから、いつまでたっても「フィーンケン」、つまり小さなヨゼフィンとよばれていました。末っ子だったからです。
では、思い出すままに、そのとき聞いたお話を母が語ってくれた通りにしてみましょう。
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『・・・・・兄さんたちがとても自慢していたのは、家の馬でした。何びきかの中に「王さま」というあだ名の元気のいい馬がいました。ハンス――これがその馬の本当の名ですが、このハンスは私によくなついていました。
その頃私は十才位でしたろうね。午前中は学校へ行き、午後はお天気が良ければ忠犬カロをつれて牛の群を番するのが私の日課となっていました。牧場を歩いて、そう、二十分位のところにあって、まわりは畑や森でぐるりと囲まれていました。兄さんたちはその間、馬と一緒に畑の仕事をしておりました。けれどもハンスは退屈な畑の仕事が大嫌いでした。まあそれほどきかんぼうの馬だったのです。
ある日のこと、私が牛の群れを追って帰って来ますと、遠くの方で兄さんが、「ハンス!ハンス!」と声高く叫んでいるではありませんか。ひづめの音が高くひびいています。私は、まあ、なんて不注意な兄さんたちでしょう。あの馬が兄さんたちのいる中にあばれて入ったのでしょうか。だれかがひづめにかかってけがでもしたら大変です。それに馬がいきり立って道の方につっ走ったらほかの人たちをふみ倒すかもしれないのに、と心配でなりません。
私は大急ぎで、カロと一緒に家の方へ牛を追って行きました。囲の門のところまで来ますと、牛がどうしても中にはいろうとしません。それもそのはずです。囲いの中ではあばれ馬のハンスがひっきりなしに早駈けでかけまわっています。手綱も馬具もつけていません。はだか馬のハンスです。見ていても勇ましく痛快な光景です。馬の目はらんらんとかがやき耳はうしろにぴったりとくっつけています。これは何か悪いことを考えているしるしです。たてがみは大波のようにゆれています。
しかし、しっぽは――ハンスのように立派なしっぽをもっている馬はほかに一度も見たことはありません――そのしっぽが旗のようにまっすぐなびいて進んでいくのです。まあすばらしい馬だこと、と私は大喜びでした。でも、お母さんはそうではありませんでした。心配そうに、はらはらしながら北側の門のところに立って、幾度も「ハンス!ハンス!」と呼んでいました。
けれどもハンスは一向に耳を立てようとはしません。相変わらずうしろ側に耳をくっつけたまま、ひづめの音も高く、土をけたてて、ぐるぐる駆け廻っています。兄さんたちがやっとそこへ駆けつけて来ました。馬のはみを持って中へとびこもうとしました。お母さんははげしくそれを止めさせました。
その時私はこう考えたのです。ハンスは私ならよく知っている、私がハンスを止めてみよう、そう思いました。私は少しも恐れずひらりと柵を乗りこえて中庭の真ん中にかけてゆきました。ハンスはすさまじい勢いで走り廻っています。兄さんたちは「フィーンケン!フィーンケン!」と叫びました。でも叫ぶだけがせい一杯で何もすることができません。そこで私は大きな声を出して「ハンス!ハンス!こっちへおいで」と呼びよせました。
ハンスは耳をぴんと立てました。早がけはだく足に変りました。私はこれなら大丈夫、うまく止められると思いました。もう一度「ハンスどう!どう!」と呼びかけました。そして横側から馬に向かっていき、その旗のようなしっぽのはしっこをつかまえました。するとハンスは別にさからいません。私が馬といっしょに五、六歩あるきますと、やっとハンスは止まりました。もう動きませんでしたが、今まであんなに早く駈けていたので息苦しいのでしょう、おおきな体をふるわせていました。「ハンスよ!ハンスよ!」と私はなだめながら、恐がらずにその首の方に近よりました。手を上にのばすと、馬は首を下げて私の手をかぎました。あいにくのことにパンがありません。
「パンをください、パンを!」と私は兄さんたちの方に向かって叫びました。すぐ持ってきてくれました。私がそれをハンスにやりました。パンを口の中へ入れると馬は私の前でおじぎをして、ほんとに小羊のようにおとなしくなりました。もう耳をうしろにつけたりせずに、ちゃんと手綱をつけさせました。一番上の兄が私をだいて馬にのせてくれました。私はうれしくてたまらずにこにこしなたら北側の門をぬけ家の中まで乗っていきました。
ハンスはその後も二、三度こんないたずらをやりました。そのときにはいつも兄さんたちが「フィーンケン!フィーンケン!」と私を呼びました。いつも私はすぐハンスの所へ飛んでいって「ハンス!ハンス!といいながら、しっぽをつかまえました。すると馬はすぐに止まってしまうのでした・・・・」
母はお話のおしまいに
『この私の好きなハンスはもういません。ですから世の中がなにかさびしくなってしまいましたね。』といいました。
わたしがドライエルヴァルデの生家に師を訊ねたとき撮ったフイルム写真で唯一残っているのがこの一枚。農機具と収穫物を納める大きな倉庫前の広場で戯れる姪子さんの子供たち(1964年当時)。まるで幼年期のホイヴェルス師とそのお兄さんの時代にタイムスリップしたような景色だ。
いかがでしたか。
わたしは、月並みな言葉でこの美しい水彩画のような小品を汚すことを恐れて、コメントしたくない。これだけ無駄も隙も無い日本語を書ける人は、日本人の間でもすくないとおもう。
なお、敢えて一言だけ申し述べたい。それは、このような素敵なお母さんに育てられたからこそ、ホイヴェルス神父様のような偉大な宣教師が生まれたのだと言うことだ。
どうか、ホイヴェルス師のふるさと、ウエストファーレンの農民の伸びやかな魂と語りあっていただきたい。
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世界の穀倉、ウクライナの平和がいま蹂躙されている。ホイヴェルス師は第一次世界大戦の時、28歳の若さでドイツ陸軍野戦病院の看護兵に志願して前線に立たれた。武器こそ手にされなかったが、じっとしてはいられなかったのだろう。戦後の平和の中で、私には戦争について多くを語られることはなかったが・・・。
ヒットラーの再来を思わせる狂人プーチンの手を止めさせることは、誰にもーー神様にもーー出来ないのだろうか?