:〔続〕ウサギの日記

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【映画評】「さよなら、ベルリン またはファビアンの選択について」

2022-08-04 00:00:01 | ★ ウクライナ戦争

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【映画評】

「さよなら、ベルリン」

=またはファビアンの選択について=

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主人公ファビアン(トム・シリング)と恋人コルネリア(ザスキア・ローゼンタール)

 

 久しぶりに納得のいく映画を見た。

 ドミニク・グラフ(Dominik Graf)監督(68歳)の 最新作で、3時間にわたる大人向けの長編映画。

ドミニク・グラフ監督

 ベルリンの中心部から南西に6キロほどのところに、ハイデルベルガー・プラッツという地下鉄駅がある。映画は現在のその駅から始まる。人込みに混じってカメラがエスカレーターを降りていくと、レトロなアーチに飾られた古き良き時代のままのホームがある。そこから地下鉄に乗っていくと、1931年のベルリンの町に着く。地下鉄がタイムトンネルの役割を演じている心憎い演出だ。

 そして映画はいきなり当時の爛熟と退廃のベルリンの狂乱と喧騒の映像の連続になる。ドイツ語の分からない日本人が、かなりの早さで替わる字幕を追いかねて、映像と音楽に圧倒されていると、若い男女の愛しあうリアルな場面から、若い男の子を集めた有閑マダム相手の男娼の館や、男に裏切られた女たちを集めた娼館、ゲイバー、けばけばしいアトリエ、違法な麻薬パーティーなど、露出度の高い性の描写でいきなり濃厚なポルノ映画の世界に引き込まれたようななショックを受けるだろう。

 しかし、冷静に見ていると、それらは皆30年代のベルリンの何かを予感させる息苦しい熱気の描写であって、ストーリーとしては、作家を志する好青年ファビアン(32歳)が、ある日同じ下宿に越してきたばかりの女優を夢見るコルネリアと出会い、瞬く間に恋に落ちる、という物語りだ。

 ファビアンには資産家の息子、学者志向で革命家の友人ラブ―デがいて、3人はラブ―デの父親の別荘で遊ぶ。だがコルネリアは恋も大切だが、お金も名声も欲しい女性だ。

 ファビアンの母がドレスデンからやってきた。コルネリアを紹介して3人はレストランで食事をしていると、大物監督のマーカルトが入ってくる。コルネリアはマーカルトのテーブルに行って気にいられ戻ってこない。そして、女優への道を歩み始め、ファビアンとの関係は壊れていく。

 親友のラブ―デはデモで逮捕され、革命の夢破れ、同級生が悪質ないたずらで書いた教授資格取得の論文不合格の通知を見て、自殺する。

 ベルリンを離れドレスデンの両親のもとに帰っていたファビアンは、ある日雑誌でスターになったコルネリアの写真を見て、手を尽くして連絡を試みる。そして、初めて出会った思い出のカフェで再会を約束するが、心待ちにしているコルネリアの元にファビアンが現れることはなかった。その理由を書けば、映画の落ちを明かすことになるので、触れないほうがいい。

 恋愛、破局、打ち砕かれた再会の夢。ストーリーは単純明快だが、わき役たちや情景描写が織りなす様々なサブストーリーは、色濃くその時代の複雑は空気をリアルに描き出している。

原作者エーリッヒ・ケストナー

 この映画の原作は、エーリッヒ・ケストナー(Errich Kästner;1899-1974)の自伝的モチーフに沿って書かれた時代と風俗の痛烈な風刺小説「ファビアン」だ。この作品は当時のナチスによる焚書の対象にされ、ファシズムを非難していたケストナーは、大戦中は執筆禁止となった。

 この間にヒトラーは1938年にオーストリアに侵攻し、翌年9月にポーランドに侵攻した。

 ベルリンの地下鉄に乗って、ハイデルベルガー・プラッツ駅のエスカレーターを登ると、我々は今の世界に戻って現実と向き合うことになる。

 2014年にプーチンはクリミア半島に侵攻した。そして今年(2022年)の2月にウクライナに侵攻した。この先どうなるかは、歴史の未来だから誰も知らない。しかし、もう一度地下鉄に乗って1930年代のベルリン行けば、ベルリンの市民たちも得体の知れない不安の中で何が起ころうとしているのかまだ知らなかった。

 いま我々が見ているのは、2022にプーチンが行ったリミア半島侵攻と、2月から続いているウクライナ侵攻だ。これは、地下鉄に乗って辿り着いた1930年代にヒトラーが行ったオーストリア侵攻(1938年)と1939年9月1日のポーランド侵攻と並行関係にある。

 90年前、世界中の誰がヒトラーの侵攻を第二次世界大戦の始まりだと思っただろうか。我々も、このウクライナ戦争がどういう展開を遂げるか知らない。ただ知っていることは、かつてヒトラーが行ったことと、今プーチンがやっていることが酷似しているという事実だけだ。 

 ヒトラーは同じドイツ語を話すオーストリアに侵攻した。プーチンはかつての連邦共和国で今もロシア語を話す人の多いウクライナに侵攻したのだ。

 ヒトラーの野望は、東側に海・山脈などの自然の国境線を持たない国の宿命として、東側の国々の併呑に向かった。いまのプーチンの野望は、西側に自然の境界線を持たないロシアの誘惑として、西ヨーロッパの支配に向かおうとしている。

 このように、かつてのドイツと今のロシア、また、ヒトラーとプーチンの間には実に多重の相似性が読み取れる。

   

 ヒトラーの野望はプロイセン皇帝ウイルヘルム1世のドイツ帝国(ドイチェ・ライヒ)の再建、ドイツの第三帝国の樹立、ドイツ人によるヨーロッパの支配だった。とすれば、今のプーチンはピヨートル1世の築いたロシア帝国の夢を追い、ソ連邦の再興を企て、第三ロシア帝国を夢見るものではないか。

 そもそも、第三帝国(英語ではThe Third Empire、ドイツ語ではドリッテス・ライヒDrittes Reich)とは、古くからキリスト教神学で「来るべき理想の国家」を意味したが、それをナチスが自分たちの呼称としたことで有名になった。

 ロシアの文豪ドストエフスキーは、西ローマ帝国も東ローマ帝国も信仰が足りなくて滅亡した。だが、聖なるロシアは「第三帝国」とならなければならない、と論じた。プーチンはピヨートル1世の第一ロシア帝国、崩壊したソ連邦(債2帝国)、のあとを受けて、偉大なロシアの第三帝国の皇帝になることを夢想しているのではないだろうか。

 だとすれば、ベルリンの地下鉄の時間回廊の向こうの歴史的現実に照らして、ヒトラーが第二次世界大戦を惹き起こしたように、こちら側でも今のウクライナ戦争の延長線上に、第三次世界大戦が我々を待ち受けているということにならないだろうか。

 人類が歴史から学んだ真実は、「人類は決して歴史から学ばない」ということだというが、「ファビアン」の映画は、人類が初めて第三次世界大戦への運命を回避する英知を身に着けることが出来るか、と問うているように思える。

 映画「さよならベルリン、またはファビアンの選択について」の原作者、エーリッヒ・ケストナーは1899年に生まれ1974年に世を去った。私がいまブログに連載している短編の作者ヘルマンホイヴェルス師は1890年生まれで1977年没だから、ケストナーより早く生まれ彼よりも遅くに亡くなった全くの同時代人だ。そのホイヴェルス師は、第一次世界大戦に衛生兵として従軍した。

 また、この映画評を書いている私は、1939年9月1日にヨーロッパで第2次世界大戦が勃発した3か月あとに生まれ、原爆で真っ平になった広島に住んだことがある。だから我々はヒトラーとプーチンの二つの時代にまたがって生きていると言える。そして、ファビアンの身辺で起こった出来事は、私たちのまわりで起こっていることと同じだと言えるのだ。

 プーチンはウクライナをネオナチと非難するが、それはお門違いも甚だしい。プーチンこそ、90年のタイムトンネルを通って今日に現れたヒトラーの化身ではないか。

 とにかく、今のウクライナ戦争はまさに私たちの時代の緊急事態だ。ファビアンの時代の流れが今再び繰り返されて、第三次世界大戦が明日始まり、その後ヒトラーのようにプーチンも亡び、全世界は核戦争で滅亡し、辛くも生き残った少数の人類は、次の第4次世界戦争を石の武器で戦わなければならない運命は、果たして絶対不可避なものだろうか。

 現代から90年前のベルリンに行った我々は、ドイツが第二次世界大戦に突入していったことを歴史的事実として知っている。それならば、歴史のジンクスが我々の英知によっ初めて覆されることも在り得るとは考えられないだろうか。

 多くのことを考えされられた実にすばらしい映画だった。

コメント
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