:〔続〕ウサギの日記

:以前「ウサギの日記」と言うブログを書いていました。事情あって閉鎖しましたが、強い要望に押されて再開します。よろしく。

★ 神学生の母

2022-08-20 00:10:47 | ★ ホイヴェルス著 =時間の流れに=

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神学生の母

ホイヴェルス著 =時間の流れに=

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神学生の母

 お祝いの晴れ着を着た人々が広い部屋部屋をあちこち歩いていました。私がこの家に着いた時、一人の若い神学生が迎えに出て、嬉しそうな顔で挨拶をし、人々の流れをよけて、静かな隅に私を導きました。 

 十年ほど前、時々私のミサ答えをしたと話して、私を驚かせました。その時の少年を、私はよく覚えていたのです。重いミサ典書を祭壇の書簡の方から福音の方へたいそう骨折って運び、聖体降福式のときに、私の肩にベールムを掛けるのに、かなり小さな体を相当伸ばさなければなりませんでした。 

 十年ぶりに会ったこの神学生が、あの少年とは思われませんでした。その頃、一言も話を交わしたこともないほど、静かな無口な少年が、今では元気な青年になって、長い黒のスータンを着ています。それは、今日の晴れ着でした。スータンには数えきれないほどの小さいボタンがあって、広いチングルム(帯)をしめ、ちょうどステファノや聖ラウレンシオのような姿でした。

 元気な、はきはきした口調で、私に勉強のこと、グレゴリアン聖歌の練習、大祝日の儀式のことなどを話してくれました。友だちの中でも、彼は儀式の指導者と聖歌隊から引っぱりだこにされています。どちらにも興味をもち、よくできる彼は、あるときは祭壇の前につとめ、あるときは聖歌隊に加わって聖歌を歌います。 

 私たちが、こうして楽しく話し合っているとき、愛のこもった目が、私たちの上に注がれているのを感じました。しばらくして目を上げて見廻すと、人びとの肩ごしに娘のように若々しい婦人がじっと私たちを見つめていました。その顔は大きな喜びに輝いています。私たちの目が会ったとき、彼女はよく人びとがするように目をそらせず、感謝のほおえみを満面にたたえて見つめていました。神学生は、向うの婦人の姿が、私の注意を引いたことがわかったのでしょう。元気に彼女の方を指さして「あれは私の母です」と言いました。私たちは人びとの間を横切ってゆきました。私は驚いて「あなたのお母様ですか!」と思わず言いました。「私はお姉様だと思ったのです。」神学生は「いやあ!」といって笑いながら、「私の姉もそちらにおります。こちらが父です」と教えてくれました。 

 神学生の母! 私は長い間人びとの後に立って、じっと私たち二人を眺めていた理由がわかりました。そしてこの母の顔に、世間の人びとには見られない深い深い喜びが溢れているわけもよくわかりました。 

 この母は、お乳を含ませていた頃から、大きな望みをこの子供の将来に託していたに違いありません。この子供が姉と「ミサの遊び」をするのを見たときの母の喜びはどんなであったでしょう。母の丹精でミサ答えをすることも学びました。母はときどき子供の後からそっと聖堂にはいると、仄暗い片隅から、子供が祭壇のおつとめをするのをじっと見守りながら、心の中で祈ったことでしょう。今では、この子供はラテン語や哲学を学んでいます。これからまた神学の勉強もしなければなりません。どれほど勉強しなければならないか、母にはよくわからないのです。母はこの愛する子供が、神の祭壇に登る日を日ごと待っていました。神はいずれきっとこの希望をみたし給うであろうと。

 今日こそ、母の目が私たち二人の上に注がれたとき、母はもう心残りもなく、ただ清らかな喜びばかりがあったでしょう。世の荒波をくぐりぬけて、この子供が光り輝く祭服を身にまとい、神の祭壇に登る姿を母は見たのです。天のみ使のように手を挙げ、神に向かって天使たちの栄誦「グローリア・イン・エクチェルシス・デオ」と歌うのを聞きました。

 子供は天と地の間に、すなわち永遠にして全能なる父、一切の物を造り給うた天父、一切を支配し給う天父と、キリスト信者の間に立っています。人びとは、神に讃美を献げるために、わが子を天父に遣わしました。母はみ堂で人びとの蔭に隠れて、子供の挙げる手を見ます。天父に差し伸べるその手は、母から受けた手、この声も母から受けたのです。この声は、今でもまだ少し母の声に似たところがあるようです。この声で、子供は神に何よりも大切な唇の讃美を献げるのです。母は心もちおののきながら、しばらく子供の真白な気高い姿を見守ります。心の中で母は「見よ、主のはしためを、すべてはみ旨のままに……」と誦えます。

 もしこの母の願いのようになるならば、もう世の中には悪もなくなり、あらゆる人びとの心の中には、清らかな善意のみが働くようになるでしょう。天と地、そして、この美しい地のみが存在し、ほかには何の汚れたものも存在しますまい。今も、また永久に……母はこの希望を実現するために、その子供を神に献げました。

   「われら、主を讃え、主をあがめ、

   主のみ栄えの大いなるがために、

   つつしみて感謝し奉る。」 

 母は群れ集う人びとの中に、子供のまぶしいほどに気高い姿を見いだしたとき、神が子供の心を強め給うことをかたく信じていました。その上、神が全能のみ力と豊かなみ心とをもって、子供が祭壇に登るその日までお守り下さるようにと願ったのです。 

 ちょうど同じ日の昼、食事のときに私は一人の友に「天国にも笑いがあるだろうか」という愚かなことを聞いたのでした。すると、その友は少しもちゅうちょせずに「もちろん、天国には笑いはない。ただ清らかな喜びがあるだけだ」と答えました。 

 私はこの夕方、この母の清らかな静かな喜びを見て、友のいったのももっともなことだと考えました。そうです。天国には、確かにこの母のような深い静かな喜びのみがあるに違いありません。フラ・アンジェリコの天使たちの顔に描き出されているあの喜び、確かに天使には大笑いはなく、ただ溢れるほどの深い喜びがあるのです。

 この母の喜びは、今はまだ心配が混っていましょうが、母が人びとの中に私たち二人を見いだしたとき、神はしばらくの間、この母の心配をお除きになりました。そのときの母の心には、静かな清らかな深い深い喜びが満ち溢れていたのです。

 このエッセイをよく理解するためには1965年に幕を閉じた第二バチカン公会議前夜の日本のカトリック教会の世界を知らなければなりません。

 まず、「ミサ答え」という言葉。現代的に言えば「侍者」とか、もっと適当なことばは「祭壇奉仕者」と言われますが、当時は赤いスカートの上に白いケープを着て、赤い広い襟を付けた少年のことを指していました。公会議前のカトリック教会では、司祭は一人でミサをささげることは原則として禁じられていて、必ず一人以上の信者がそのミサに与っていなければなりませんでした。その最小限度の条件を満たしていたのがこの「ミサ答え」だったのです。この神学生も小学生、中学生の頃ホイヴェルス神父様の「ミサ答え」をしている間に、司祭職への召命が心の中に育って行ったのでしょう。

 私も洗礼を受けて以来高等学校を卒業するまでは神戸の六甲教会で、上京してからは、イエズス会の志願者として上智大学のキャンパスの中の寄宿舎に住み、毎朝7時にホイヴェルス神父様のミサ答えをしました。最初の1年間の同室の神学生はイエズス会の志願者からカルメル会の神学生に転身し、後に東京の補佐司教になった森さんでした。同じ目覚まし時計で一緒に起き、二人して毎朝ミサ答えをしました。この奉仕は少年の心に司祭職への召命が芽生えさせよいる機会ではありましたが、ミサ答えの少年と、聖歌隊の声変わり前の少年は、しばしば聖職者によるペドフィリアの格好の餌食になるリスクもありました。ヨーロッパでは、今は若い金髪の娘たちが祭壇奉仕者をしているから、これも新手の女性機会均等かと、時代の変化には驚くほかはありません。しかし、ここからもカトリックでは女性の司祭の召命は芽生えないだろうと思います。

 さて、「重いミサ典書を書簡の側から福音の側へ・・・」というのは今の信者さんたちは何のことだかさっぱり分からないでしょう。公会議の前は、教会の祭壇は聖堂の内陣の一番奥の 階段を3段ほど上がったところにあって、司祭は信徒に背を向けてミサをささげていました。そして、ミサ答えはその段の一番下に跪き、司祭が左側で書簡(第1朗読)を読むと、ミサ答えは段を上ってミサ典書をうやうやしく捧げ持って、一度階段を一番下までおりて、中央で膝を折り、また捧げ持って反対側の祭壇の福音朗読の側に置くのですが、そのミサ典書の重さが半端ではありません。立派な表紙がついて厚さは8センチほどもあるずっしりと持ち重りする本で、小学生には重労働でした。しかも、全部ラテン語。司祭とミサ答えはミサの冒頭に階段祈祷というのがあって、階段の上の司祭と下のミサ答えがラテン語でやり取りをしたものです(「ミサ答え」という言葉はこのラテン語の応答から来る)。小学生でも、大学生でも、丸暗記のラテン語で意味も解らずにオウム返しに答えていたのです。私も森神学生も、ご多聞にもれず丸暗記のラテン語で毎朝ミサ答えの奉仕をしていました。考えられますか?

 ホイヴェルス神父様は背後に暖かい眼差しを感じます。その神学生の母です。当時、カトリック信者の家庭の多くには本当の信仰が息づいていました。母親は、男の子を生んだら、せめて一人は司祭として神様に捧げたい、と願って、朝夕密かにそうなりますようにと祈っていたものです。そして、その祈りが届いて、いま息子は神学生としてホイヴェルス神父様と二人きりで話している。母親の誇らしい気持ちと、神様への感謝の入り混じった眼差しです。

 一家庭の子供の数が平均で1.4人と言われるいまの日本では、男の子が一人いれば神様に感謝すべき少子化の時代です。男の子のいない家庭もたくさんある中で、信者の家庭であっても、どの母親がかけがえのない一人息子を司祭として神様に捧げたいと日夜祈るでしょうか。夫が働いてーあるいは共働きでー、ようやくローンを払い終わったこの持ち家はーこのマンションはー、当然この子が遺産として相続すべきもの、その代り自分たち夫婦の老後を託するのもこの子しかいない、と考えているとき、どの母が、この子をどうか司祭として召してくださいと神に祈るでしょうか。この家はどうなる?私たちの老後はだれが看る?

 栄誦「グローリア・イン・エクチェルシス・デオ」はラテン語で「天のいと高き所には神に栄光」という意味です。信仰の祈りです。

 当時、神戸の六甲学院の同期生130人ほどの中から卒業の頃には三分の一が洗礼を受けていました。名実ともにミッションスクールでした。そしてその中から3人がイエズス会の神父を志しました。中村神父は今故郷の六甲教会で働いています。同期で一番成績の良かった宋神父は、コロナ禍の中で面会もままならない人工透析専門の川崎の病院で長い苦しい入院生活の後、つい先日、天国に召されました。彼は母一人子一人の母子家庭の出でしたが、宋君のお母さまはこのエッセイの神学生の母のように、一粒種の愛する息子を神様に司祭として奉献されたのでした。いまこの母子は天国で再開し見つめ合ってほほ笑んでいることでしょう。

 私は一人落ちこぼれて、50歳で放蕩息子のように父の家に帰り、神様の憐れみとお目こぼしに拾われ、二人の同期生より20年以上遅れて第二の人生を送っています。風天の寅さんのように風の吹くまま、サマリア人のように隣人となるべき人を探し、99匹の羊をおいて一匹の迷える羊のあとを追う愚かな司祭として老いて行きたいものです。

コメント (3)
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