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《映画》 “SILENCE” 「沈黙」を見て
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M・スコセッシ監督の映画「サイレンス(Silence)」が今ローマではブームです。日本人のわたしは「サイレンスを見たか?」「お前はどう思ったか?」と、しつこく聞かれます。見なければ答えようもないので、実に久しぶりにイタリアの映画館に行くことにしました。
昼間は忙しい。夕食後に郊外の大型レジャー施設に行きました。ポーリング場も、ステーキレストランも、バーも、子供の遊技場も、うるさいBGMの中、満員の熱気に包まれていました。初老のカップルも若者に負けじ!と、手を繋いだりキスしたり、子供が数人でロビーを走り回ったり・・・。私はビールの大瓶をテーブルにドンと載せて、10時の最終回を待つ間ゆっくり現代ローマ人の生態を観察しました。教会に人が来なくなったと思ったら、こんなところに集まっているのですね。
「沈黙」は10ほどあるマルチ映写室の7番目でやっていました。客の入りは半分ほど。青年も、初老もほとんどが男女のカップル。一人ボッチは神父の私ぐらいなものでした。
さて、ここからずばり私の感想を書くはずですが、写真がない、どうしよう?ネット上に散見する写真は借用を許される?ソースからご注意あればすぐ謝って削除するとして-営利目的でもなし-ひとまずお借りいたします。
1966年に遠藤周作の「沈黙」が出ると、日本では大評判になり、海外でももてはやされました。しかし、中世哲学研究室の助手の耳目に勝手に飛び込んでくる論評はなんとなく胡散臭く、読む気になりませんでした。ただ、最後の長編の「深い河」(1993年)だけは読み、95年の映画も見ました。そして、フーン?!これが遠藤の辿り着いた世界かと、別に感慨もなくそのまま忘れていました。
当時、私は私なりに、自分の信仰と生きる道を真面目に考えていて、東京オリンピックの開会式を白黒テレビで見た夜の12時に、密かに横浜港から貨客船に乗って日本を脱出しました。25歳のときでした。
半年ほどかけてインドを放浪し、旅の終わりにはガンジス川のほとりの町や村を巡って色々な体験をしていたので、深い河の映像は見慣れた世界でした。
私をうろたえさせたのは、そこそこ教養を身につけたカトリック信者のイタリア人たちが、遠藤の「沈黙」を優れた作品として持ち上げ、私にも同意を求めるそぶりを見せたことでした。わたしには「棄教を肯定し美化するなんて・・・!」と言って怒る単純なご婦人方のほうが、よっぽど正直に思えました。
ナザレのイエスが、十字架の上で壮絶な最後を遂げようとした時、天の父なる神が「沈黙」を破って、「そんなに苦しまなくてもよい、奇跡の力を使って十字架から降りなさい」と言ったとは、聖書のどこにも書いてありません。キリストの場合でさえも、拷問にまさる究極の苦しみ、つまり、神にも見捨てられたという絶望の彼方にしか、復活の栄光は輝き出なかったとすれば、信者の殉教を見た神父の懊悩に、神が沈黙で応えるのは当たり前ではありませんか。
遠藤が、迫害の極限状態における神の「見かけ上の沈黙」は、実は神が人間の弱さに同情して、暗黙裡に「踏み絵を踏みなさい、転んでもいいよ」と言っているのだと言う都合のいい解釈は、結局、そうでない神は受け入れられない、つまり、「神は存在しない」と言っているのと同じではないでしょうか。
「沈黙」をもてはやすカトリックの高位聖職者や神学者らの論評に接するほどに、読む気が失せていった裏には、そんな思いがあったような気がします。
今回、スコセッシ版のハリウッド映画に見る遠藤の世界には、聖書の神、ナザレのイエスの天の父なる神はいませんでした。いるのは日本の神々の神、森羅万象に秘められた力に「人間が勝手に名を貼り付けた神」であって、森羅万象を無から創造した「生ける神」、モーゼに「私は在りて、在る者なり」と「自分の側から名乗りを上げた神」はいませんでした。
映画「サイレンス」に深い感銘を覚たと言って、私に同意を求めるイタリアの紳士淑女の心の中にも、「ナザレのイエスの天の父なる神」はすでにいないのではないか、と不安になりました。これは文化や風土の違いではなく、信仰内容の質の問題でしょう。
鍵を握っている概念は「復活」です。ザックリ言って紀元前2000年ごろに、ユダヤ人の祖先アブラハムに「アブラハム!アブラハムよ!」と人類に初めてはっきりと語りかけた神を信じる一神教には、「復活」と「永遠の命」の概念が根底にあります。と言うか、日本に限らず、キリスト教以外の宗教にはそれが欠落しています。(同じアブラハムから派生したユダヤ教や回教においてさえそれは曖昧で希薄です。)
日本人は、キリスト教の様々な祝い事や外国のお祭りを上手に取り入れて、何でも金儲けの機会に利用します。クリスマス商戦が典型だが、バレンタインデーも万聖節やハロウィーンなどもその中に入ります。ところが、キリスト教にとって最大のお祭りである「復活祭」だけは、どうもしっくりと馴染まないようです。「復活祭記念バーゲンセール」も銀座のクラブでは政治家の「復活祭パーティー」も聞いたことがありません。
しかし、この「復活」の信仰なしに「殉教」もあり得ません。私が今回数枚の写真をお借りしたサイト
https://www.fashion-press.net/news/25736
は、「サイレンス」のあらすじを:
17世紀江戸初期、幕府による激しいキリシタン弾圧下の⻑崎で、棄教したとされる宣教師フェレイラの真実を確かめるために日本にたどり着いた若き司祭ロドリゴとガルペ。⻑崎に潜⼊した彼らが⽬撃したのは、⻑崎奉⾏による想像を絶する弾圧の現状だった。
次々と犠牲になる⼈々。守るべきは⼤いなる信念か、⽬の前の弱々しい命か。⼼に迷いが⽣じた事でわかった、強いと疑わなかった⾃分⾃⾝の弱さ。追い詰められた彼の決断とはー。
と言う言葉で始めています。
フェレイラ神父はすでに穴釣りの拷問に耐えかねて棄教していました。神父のガルペは「むしろ巻き」にされて海に投げ込まれた美しい村娘(小松菜奈)を助けようと飛び込んで溺れ死にました(これは一種の殉教と言えるでしょう)。問題のロドリゴは、棄教し妻子のある役人になっていたフェレイラに会い、穴吊りの拷問に苦しみもだえる信者たちの姿を見て、穴吊を待たずに踏み絵を踏んで転び、妻を得ます。
小松菜奈
素朴な日本の信者たちは、神は人類を不死のものとして創造したのに、人間は傲慢の罪で命の源である神から自らを切り離し、当然の結果として死ぬべき運命を引き寄せてしまった。その人類を憐み、罪と死の影から救い出すために、神の子キリストは「十字架上の死」を通して「死」を打ち滅ぼし、「復活の命」と永遠の幸せの国、キリシタン用語で「ハライソ(パラダイス=天国)」を取り返して下さった、と教えられた。パードレ(フェレイラやロドリゴ)から「ハライソ」の信仰を植え付けられた彼らは、その言葉を信じて天国にあこがれて殉教していった。捕えられ拷問を受けることを恐れながらも、殉教者たちの姿に励まされ、自分も殉教しようと覚悟を固めていた矢先、その信仰を教えてくれたパードレが踏み絵を踏んで転んでしまうとは、なんという残酷な裏切りだろう。
パードレたちは自分が頭で信じていた教えを信者たちに植え付けたが、彼ら自身はその神の存在を心では信じていなかったということか。17世紀のパードレの不信仰は、遠藤によって共有され、その神の非存在は60年代、70年代の日本のカトリックのインテリに感染し、今や、イタリアの自称カトリック信者の中に広く蔓延して行きつつあるのだろうか。
パラダイスの存在を固く信じず、それに憧れることのない信者は、心底では神を信じてはいない。だから、神が沈黙すれば彼らは踏み絵を踏み、転ぶ道を選ぶ。遠藤がたどり着き、スコセッシ監督が台湾の美しい自然に託して描写した「ころびキリシタン」の運命は、イタリア人をふくむ「我々人間の限界」の発見を意味するのだろうか。
しかし、ここで忘れてはいけないのは、「神がいる」ことへの信仰と、それに基づく「殉教」は、神の一方的な恵みのよるものであって、人間が自らの力で獲得できるものではないということだろう。人間にはできなくても、神が居るなら、神が一緒ならできることがある。
もし、世界を-そして人間を-愛をもって創造した神が居るなら、天国は確かにある。その天国にあこがれる人には、殉教を成し遂げうる力が神の恵みとして与えられる、と信じることは今日でも可能なはずではないだろうか。私はとんでもない罪深い人生を送ってきたという自覚があるから、手の届きそうにない殉教に敢えて憧れる。殉教者は無条件に「ハライソ(天国)」に入れると教えられ、キリシタンはそれを信じた。私ごとき罪人には、そうでもしなければ救われないのではないか、という思いがある。死は一瞬の通過儀礼に過ぎず、人は「復活」して永遠に生き続ける。これがキリスト者の「信仰告白」、殉教者の「証し」ではないか。
それにしてもこれほど多くの日本人俳優がそろい踏みしたハリウッド映画は、過去に例が無かったように思った。日本人はハリウッドまで占領するつもりなのだろうか?
中央はスコセッシ監督
【ワシントン時事】 トランプ米大統領は25日放送されたABCテレビのインタビューで、テロ容疑者の尋問に関して、拷問に当たる水責めなどの手法は「機能する」と主張した。さらに、治安当局に求められれば、法律の範囲内で復活に尽力すると明言した。(オバマは拷問を禁じていたのに・・・)
〔陰の声〕 トランプさん!拷問なら日本人が発明した「穴吊り」が最もよく「機能」しますよ。レシピは以下の通りです。
穴吊りは、1メートルほどの穴の中に上半身が入るよう逆さに吊す。吊す際、体をぐるぐる巻きにして内蔵が下がって早く死なないようにする。頭に充血して死なないようにこめかみや耳に小さな穴を開けて血を抜く。二枚の板を半月形にくりぬき、腰のあたりを挟みつけて穴の中を暗黒にする。穴の中に糞尿などの汚物を入れ、地上で騒がしい音を立て、精神を苛む。足から吊されたまま放置すれば、身体全体の耐えられぬほどの激痛に加え、孤独、無力、助けと励ましになるものもなく、時間はゆっくり流れていく。あとは苦しもうともがこうと捨て置くだけ。転ぶ意志を示して信仰を棄てるか死ぬまでそのままかのどちらかであった。
この刑罰は実に効果的で、外国人の宣教師達もこれで何人も『転んだ』が、中浦ジュリアンは棄教せずに死を選んだ。
しかし、転ばせることを念頭に置かないなら、ローマ人が発明しキリストがその犠牲になった十字架刑よりも残酷な処刑方法はない。ゲテモノ食いの物好きさんは私の本「バンカー、そして神父」にその実態がいかなるものかをリアルに詳述したのでご照覧あれ。→http://books.rakuten.co.jp/rb/4122150/