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自殺者統計
-なぜキリスト教の宣教は必要か-
(一部変更・加筆版)
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たまに日本に帰ってくると、人の多さに圧倒されます。渋谷のスクランブル交差点などでは、人の波に酔って目が回りそう。混雑した地下鉄のホームで「○×線は人身事故で運転見合わせ中」というアナウンスに出くわすと、また飛び込み自殺ではないかと思って心が凍るのは私だけでしょうか。
地下鉄丸ノ内線の四谷駅
日本が先進国ではダントツの自殺大国であることは皆さんもよくご存じでしょう。パソコンを開いて「自殺 統計 世界」などのキーワードで検索すると、簡単に「2011年段階の最新データ」(原資料「国連人口統計年鑑」)というサイトに出くわします。それによると、例えば私が住んだことのある四つの国の人口10万人当たりの自殺者の数字は次のようです。
日本 24.4人
ドイツ 11.9人
アメリカ 11.0人
イタリア 6.3人
つまり、日本の自殺率はドイツ、アメリカの2倍以上、イタリアの約4倍ということになります。この顕著な違いはいったいどこから来るのでしょうか。
現代世界の特徴を言い当てたものに、「「グローバル化」と「世俗化」とい言葉があります。
世俗化はもともと「聖なるもの」に属すると考えられていた場所や空間をこの世の人間的な目的のために用いることでした。例えば、キリスト教の教会堂を、礼拝のためだけではなく、幼稚園の遊び場、世俗の集会場などに用いたりすることです。
「世俗化」は、第一義的には、聖なるものの俗化という宗教学的概念にほかならず、厳密には、西欧キリスト教社会の歴史的没落現象を意味するものとして理解されてきました。
他方、もともとは戦後の多国籍企業の急成長に端を発した「グローバリゼーション」は、社会や文化の広い範囲にも影響を及ぼすようになり、それに伴って、本来キリスト教社会の現象であった世俗化も、仏教や神道の影響下にある日本の社会の類似の現象にもあてはめられるようになりました。かつて信仰の対象として考えられてきた寺社が、歴史的遺産として拝観料をとる観光資源になり変わるなどもその類と言えるでしょう。
世俗化には、呪縛的であった宗教からの人間の自己解放の過程という側面があり、より根源的には、神を棄却することを意味するという考えもあります。その意味では、「神」という超越概念の名の下で呪術的支配を行ってきた制度としてのキリスト教が全体的に没落していくのは、西欧社会における人間の「自律」追及の必然的過程であったのかもしれません。
キリスト教的超越神の概念を精神的土台にしていない日本の社会は、その限りにおいて、もともと世俗的であったわけですが、敗戦時になされた現人神(あらひとがみ)天皇の人間宣言によって唯一の神的な存在が消滅した後には、世俗化はもっとも純粋な形でなりふり構わぬ素顔を露わにしました。
日本の自殺者の人口比率は、ドイツやアメリカの2倍、イタリアの4倍であるというのは統計的事実です。
いずれの国もグローバル化した西側先進国の一員であるという共通項の中にあって、この顕著な差異はぜひとも十分に説明されなければなりません。
上の例の4つの国の間で、失業や、経済的破綻や、失恋や、孤独や、病の宣告、などの様々な逆境にある人の割合に、2倍も4倍もの差があるでしょうか。
わたしはドイツに生活した4年間、ナチスの強制収容所に異常な関心を抱いて生きてきました。そして、様々な情報から、同じ劣悪な極限状況にあって人の生死を分けるものは、結局は個々人の「生を肯定する意志、生きる願望の強さ」であったという漠たる確信を持つようになりました。
今回、それを裏付ける証言を求めていろんなキーワードでたくさんのサイトを渡り歩き、ついに「夜と霧」という本の紹介するこんな言葉と出会いました。
「あらすじと言えるものはありません。アイシュビッツに送られた後、そこを一歩も出られないのですから。ガス室、強制労働、貧しい食と住、凄惨な日々に感情を失っていく人々の毎日の記録なのです。家族のなかで、只一人生き延びたフランクルは書いています。収容された人の生と死を分けるのは、体格や栄養ではない、未来があると信じたものだけが生き延びられたのだ、と。」
ヴィクトール・フランクルの『夜と霧』(みすず書房、1956年)という本の訳者は、故霜山徳爾(しもやま とくじ)先生です。臨床心理学者で、上智大学の名誉教授でした。50年前、私は中世哲学科に身を置きながら、心理学科で講義する先生の科目を全て聴講し、個人的にも可愛がっていただきました。先生自身フランクルの友人だったそうです。わたしのアウシュヴィッツに対する異常な関心と、「生死を分ける意志」についての確信は、霜山先生から受け継いだものでした。
愛されたことのない人間は愛し方を知らない。本当の愛を知らない人は、自分の存在と自分の生を肯定する十分な根拠を見出さない。だからいとも簡単に死を選ぶ。死の誘惑の前に抵抗力がない。
自殺者の統計が示しているのは、端的に言えば、ドイツ人やアメリカ人は日本人に比べて死の誘惑に対して2倍の抵抗力があり、イタリア人は4倍の抵抗力がある、ということではないでしょうか。
グローバル化した現代社会において、物質的側面で4つの国の間に大きな格差は認められないとすれば、自殺率の違いは精神的な面での世俗化の度合いに由来すると考えるべきではないでしょうか。そもそも世俗化の原型がキリスト教圏にあったことを忘れてはなりません。日本など、世俗化されるべき神聖なもの、超越的な人格神の概念が初めから欠落していたのですから、その対極にあるお金の神様以外に、これと言って拝むべきもの、帰依すべきものはなかったと言っても反論は難かしいはずです。日本人はアウシュヴィッツで生き延びたフランクルのように「未来がある」という確たる信念を持ち合わせていないのが普通ではないでしょうか。
旧約聖書には、
女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。
母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。
たとえ、女たちが忘れようとも
わたしがあなたを忘れることは決してない。
(イザヤ書49章15節)
という言葉があります。
この神の言葉には、ユダヤ教やキリスト教、回教のように、旧約聖書を自分の信仰の書として戴かない日本人の心にも、共感を呼ぶ響きがあるのではないでしょうか。
神がいる。神が貴方を愛している。この世の涙の谷の試練の後に、神の愛の中で喜びのうちに生きる永遠の命がある、と信じられる人は、アウシュヴィッツのような、一見絶望的な極限状況の中でも、最後まで死の誘惑に抵抗する免疫力を保ち続けることができるはずです。
だとすれば、東京のラッシュ時の地下鉄ホームの縁に立って、ふらりと前のめりになろうとする人に向かって、「神はいる。神はあなたを愛している。死の向こうに復活と永遠の命がある。人生には意味がある。生きなさい!」と告げなければなりません。それがキリスト教の福音宣教であり、反世俗化の戦いではないかと思います。
日本の社会に住む我々は、高圧電流の通う鉄条網に囲まれてはいません。しかし、一皮剥けば、そこにおける生は、アウシュヴィッツ同様に出口も希望もありません。都会の絶望的孤独の中に閉じ込められて、お金に、名誉に、セックスに、麻薬に、ギャンブルに、偽りの愛と絆を求めても、結局は裏切られるだけです。
一見同じように世俗化が進んでいるようであっても、中世から1970年代までキリスト教に精神文化の根底を染めぬかれてきたドイツ、アメリカには、日本の2倍の、イタリアに至っては4倍の「神聖なもの」の残り香が生きているのでしょう。
それに対して、日本はと言えば、1549年にフランシスコ・ザビエルが来日してわずか60年の間に、一旦は50万人(当時の人口1230万人の4%つまり当時の日本人の25人に1人)に達したキリシタンの数は、鎖国政策と厳しい迫害でたちまち歴史の表面から消えてしまいました。戦後の日本社会が完全な信教の自由を謳歌した後も、カトリック信者の数は最盛期にさえ50万人(人口比0.4%)を超えることはありませんでした。だから、日本の精神文化の土台は今もって圧倒的に仏教的であり、神道的であって、超越神を持たないという点では、もともと世俗主義と同質のものであったのです。
歴史は逆には流れません。だとすれば、グローバル化した現代世界において、かつて中世にあったように、広い地域がキリスト教一色に染め上げられる時代はもう永久に戻っては来ないでしょう。
日本の自殺率をせめてドイツやアメリカ並みに半減させるためにも、キリスト教の宣教は急務です。本当に福音を信じて回心する信者が増えるなら、日本の社会を反世俗化させるためにそれほど多くの数はいりません。
鍋の中の料理に味を付けるために必要な塩の量ほど、家の中を躓かずに歩くために必要な蝋燭の数ほどの信者がいればいい。日本の場合、せめて人口の1%、100万人ほどがいてほしい。日本人100人に一人、本当の回心を遂げたキリスト者がいれば、社会に光を投げかけ、塩のように社会の腐敗を防ぎ、それに適当な味をつけることが出来るでしょう。
この目標達成は決して不可能ではない。 しかし、そのために福音を宣べ伝えなければなりません。
(つづく)