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イタリア地震リポート (その-1)
日本人はどこまでそれに寄り添えているか?
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通称「テント」(昔、本当にここに巨大布テントがあった)会議場から裏の丘を望む
昨日アドリア海に面したポルト・サン・ジオルジオと言う漁村の丘の上のコンヴェンション施設から帰ってきました。世界5大陸の宣教の責任者たちの集いがありました。平山司教様もご一緒でした。
宿は海岸通りの「ティモーネ」(舵輪)と言う名のホテルでした。このあたりに無数にある夏の保養地のホテルは、みんなこの季節には閉まっていて私たちだけが独占するはずが、今年は60人ほどの先客グループが泊まっていました。聞くと、ここから少し北のアマトリーチェで去る8月24日以後に起きた一連の地震の被災者の皆さんでした。震源から離れたこの漁村でさえも、ほとんどの教会が打撃を受け一つを除いて皆閉まっていることを思えば、当然予想できたことでしたが、被災地は当分誰も住めないほどに破壊され、多くの人が路頭に迷うことになりました。
日本の地震の場合は、ふつうはすぐに学校の体育館や公民館などの公共の施設に収容され、仮設住宅が建てられて入居が始まるまでのかなりの時間、プライバシーも何もない劣悪な環境に長期間耐えなければなりませんが、イタリアの場合は地震直後の数日間こそは同じように一時避難するかもしれませんが、きわめて短期間に軍隊用のテントで村が建てられ、そこに移るようです。実は、私は2009年のラクイラ地震の直後にも、ポルトサンジオルジオの集会に来ていたのですが、その時テント村に慰問と宣教に出かけたことがありました。
被災者で親戚や知人を頼って他の街に自主避難できない人たちは、あっという間に立ち並ぶテント村に入ることが出来ます。防寒性も十分なテントはとりあえずの人間的な環境を与えてくれるわけです。ラクイラにはこのようなテント村が数か所設けられました。
お世話は兵隊さんたちとボランティア―がします。
他の神父たちと共に私もそこへ精神的な支援部隊として入りました。人々の心のケアーに当たり、教会を長く離れていた人たちの告白(懺悔)を聞き、一緒に祈ったりするわけです。たくさんの人たちが、この自然災害を機会に信仰を取り戻していきました。
そのころ私はまだ爺さん臭い「ひげ」を生やしていませんでした。
テント村にも生活があり、子供が生まれ、司教さんが呼ばれて洗礼式もありました。
そして、次のステップは空いているホテルを行政が借り上げて8か月間は無償で生活できるようです。ホテル・ティモーネだけで60人ほどですが、近隣の町まで含めえると数千人規模で受け入れられているようです。私たち普通の泊り客と同じ待遇の部屋でベッドに寝てシーツもホテルの従業員が交換し、私たちと同じメニューのホテル食を食べています。毎食、赤と白のワインも付きます。
同じ食堂の彼らのテーブルには「市民保護グループ」という札が置かれていて、私たちと区別されますが、毎日おはよう、こんにちは、とあいさつを交わすうち、次第に打ち解けて心を開いていきます。まず一人の可愛いおばあちゃんが私に近づき、懺悔をしました。やはり久しく教会から離れていたのでしょう。
壁際のテーブルや壁にはいろいろなお知らせが書かれています。
医者の来診スケジュール
毎日の食事の時間
自治体差し向けの被災地行きの定期バスの時刻表、などなど
私たちと食事の時間が微妙にずれることがあるが、この写真の右手が私たちのテーブル
彼ら被災者たちは、小ざっぱりした服装で明るく振る舞っています。若い夫婦も子供も乳幼児も、たくさんのお年寄りと共にいます。一人の男性は、話してくれました。このホテルにいる間に自治体の専門家チームが全壊、半壊など、各家の被災状態を評価し、提供すべき再建資金の査定をするようです。再建を済ませると、資金を正しく十全に使ったかどうか、再建に使わないで懐に入れてはいないかなどの審査があった後に、順次村に帰って生活を再開することが出来るようですが、元の軌道に乗るまでには10年はかかるだろうと言いました。
先に席に着いた平山司教様(92歳)にスパゲッティーを配る給仕のお姉さん
私たちの仲間、アジアの国々の宣教チーム
みんな被災者と同じメニューで食事を戴く。
ここでの被災者の姿を見る限り、悲惨とか、暗いとか、先行き不安・絶望とか、いう印象を持たなかった。鬱になる人もいるだろうが、それは致し方のないことか。私は、2011年の 3.11 東日本大震災以来、福島の現実にある程度深くかかわってきたつもりだった。岩手や宮城と違い、福島には地震と津波の上に原発事故と放射能汚染という3重苦があるとはいえ、イタリアの地震被災者との間に明らかな空気の違いを直感しました。
そのイタリアは、日本の 3.11 に対して物心両面で多大な支援を惜しまず、なお今も続けています。そのことを私はこのブログで度々伝えてきました:
例えば、《3.11 東北大震災 ローマは忘れない 「記念追悼ミサとコンサート」》
http://blog.goo.ne.jp/john-1939/e/4035922aaa85e792c900587deb8d0cc8
とか、《悲しいお知らせ―しかしローマは「ふくしま」を忘れない》
http://blog.goo.ne.jp/john-1939/e/87135ed47e405510ab3e3b5fb4c7a499
とか、《チェルノブイリの子供たち -サーシャとアレクセイの場合-》
http://blog.goo.ne.jp/john-1939/e/a9641f87b4aeeed066d943a7b77fc57e
など、私のブログの「カテゴリー」《★ 大震災・大津波・福島原発事故》23編 をご参照いただきたい。
(つづく)
お二人とも11月27日にコメントを戴いていたのに、コメントチェックを怠っていて気づきませんでした。あわてて公開いたしましたが、申し訳ないことをいたしました。他意はありませんでした。
26日にローマから帰り、時差ぼけのきつい中、急ぐ用件を片付けるだけでのびてしまい、コメントチェックまで気が回らなかったのです。いま、四国への旅の途中の宿で、フト思い出して開けてみたら、公開を待つコメントを2件発見した次第です。
いつも「ワルモノ」を定めてカッカしていなければ
存在意義や求心力を保ちえないのではないか?
という疑問です。
「シンポテキ・チシキジン」や「インテリ」や
「レンアイ・シジョーシュギ」などが
過去には取沙汰されたことが読み取れました。
現代においては「なげかわしい若者」がそれに該当するように見受けられます。
つねに目を皿のようにして血眼で探しまわり、、
「ワルモノ」が見つからなければ
ついには創り出してしまう。
そのような側面がある事を否定しきれないところが
あるのではないでしょうか?
ある宗教なりスポーツなり武道なり茶道なり、
その集団に属した途端に気が大きくなり、
一歩高みに立ったような気になって
断罪的な態度に出てしまうことは、
実に危険な落とし穴であると感じます。
私が反面教師としているサイトに
『現代空手道研究会』というものがあります。
いちどご覧になるとよろしいかと思います。
ここ数回のブログ、いつも以上に興味深く読ませていただいています。
結局のところ、
今さらではありますが、
『タテ社会の人間関係』(中根千枝)に尽きると思います。
日本人特有の感情である「ムラ社会根性」、「島国根性」が、
それをしてこの国の文化を他に類のない独特なものにしてしまっています。
舛添さんも地震も『タテ社会の人間関係』で説明がつきます。
ついでに日本のカトリック教会も然りです。。
むしろこれほど「敢えて論理を逸脱した娯楽や遊戯としての」床屋政談が蔓延した社会も珍しいと思います。
最近久しぶりに中根千枝の『タテ社会の人間関係』を読み直し、
あらためてその思いを強めています。
ところで、
キコ氏が新しい本を出したようですね。
Annotazioni
さっそく読んでみようと思っています。
今後のブログの展開楽しみにしています
神父さま、
ここ数回のブログ、いつも以上に興味深く読ませていただいています。
結局のところ、
今さらではありますが、
「ビューロクラシー」に尽きると思います。
日本人特有の感情である「事なかれ主義」が、
それをしてこの国の文化を他に類のない独特なものにしてしまっています。
舛添さんも地震も「ビューロクラシー」で説明がつきます。
ついでに日本のカトリック教会も然りです。。
むしろこれほど事なかれ主義が蔓延した社会も珍しいと思います。
最近久しぶりにマックス・ヴェーバーの『職業としての政治』を読み直し、
あらためてその思いを強めています。
ところで、
キコ氏が新しい本を出したようですね。
Annotazioni
さっそく読んでみようと思っています。
今後のブログの展開楽しみにしています
コメント有難うございます。
日本の教会はすごいスピードで高齢化しているように思えます。
70年代ぐらいまで教会の門をたたき、入信する人がいましたが。その後急速に減りました。
教会は50歳台以上の信者さんが中心ですが、彼らの子供たちは少子化でもともと数が少ないうえ、親の信仰が子供たちに受け継がれていないケースが圧倒的です。
このままでは、日本の教会は緩やかに安楽死を迎えるのではないかと危惧します。
50万人ともそれ以上とも言われる外国籍の信者さんは、ほとんどが日本のカトリック教会の中に溶け込んでいないのが現状です。1割にも満たない人が教会につながっているでしょうか。
多くの人たちが、物見の塔などに流れているようです。打つ手はないのでしょうか。
祈るばかりです。
ここ数回のブログ、いつも以上に興味深く読ませていただいています。
結局のところ、
今さらではありますが、
「甘えの構造」に尽きると思います。
日本人特有の感情である「甘え」が、
それをしてこの国の文化を他に類のない独特なものにしてしまっています。
舛添さんも地震も「甘えの構造」で説明がつきます。
ついでに日本のカトリック教会も然りです。。
むしろこれほど甘えが蔓延した社会も珍しいと思います。
最近久しぶりに土井健郎の『甘えの構造』を読み直し、
あらためてその思いを強めています。
ところで、
キコ氏が新しい本を出したようですね。
Annotazioni
さっそく読んでみようと思っています。
今後のブログの展開楽しみにしています。
それがどうかしましたか?
私がブログを書き始めたのは21日11時39分ごろでした。結果的には福島沖のM7.4の地震の直前だったようです。そのあとすぐ、私のブログを読んだ「幸子」さんから、「神父様、日本でも大きい地震がありました!さっき。」というメールを受けています。私は毎日必ず日本の新聞2紙の電子版を読んでいます。それには仙台で1.4メートルの津波があって何台かの車がそれに洗われたが幸い人は乗っていなかった、と書かれていました。他の場所は90センチとか60センチとか様々でした。