:〔続〕ウサギの日記

:以前「ウサギの日記」と言うブログを書いていました。事情あって閉鎖しましたが、強い要望に押されて再開します。よろしく。

★ (一部補足) 2012年 聖土曜日 復活の徹夜祭

2012-04-12 15:18:10 | ★ 復活祭の聖週間

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2012年 聖土曜日 復活の徹夜祭

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炎の右側の助祭が地面に置いて手で支えているのが復活の大ローソク 大きいでしょう

 

2012年4月7日 聖土曜日 復活の徹夜祭は 夜の10時に始まった

会衆は一週間前の枝の日曜日にキリストの十字架によって押し開かれた正面の大扉を通って

聖堂の中に入って 明かりを既に消して 暗闇の中に待機している

聖堂の外では赤々とかがり火が焚かれている

三位一体の神の おん父の創造的愛を象徴するかのような この炎から

御子キリストをかたどった 直径12~3センチほどの太い重い復活の大ローソクに火が移されると

助祭の一人にヨイショとばかりに捧げ持たれたローソクを先頭に 司祭団と侍者たちが暗闇の聖堂に入る

電気を使った人工の光が消えた真っ暗闇に佇む人々にとって 一本のローソクが放つ光は

どんなに遠くからでも見える希望の光を象徴している

助祭が聖堂の入り口を入ってすぐのところで 低い声でメロディーをつけて


♪ キリストのひか~り (Lumen Christi) ♪

と歌うと 会衆は

♪ 神に か~んしゃ (Deo gratias) ♪

と歌って答える そして主任司祭だけが 手にした小さいローソクに大ローソクから火をもらうが まだ大ローソクの周りは闇だ


次に 聖堂の後ろから三分の一ほどのところに常設されている洗礼盤の前で 助祭はまた大ローソクを高く掲げ より高い声で

♪ キリストのひか~り (Lumen Christi) ♪

 と歌い 会衆は また

♪ 神に か~んしゃ (Deo gratias) ♪

と応え 主任司祭は周りの司祭たちと助祭たちが手に持つローソクに火を配る

すると 大ローソクの周りに小さな明かりの島が生まれる


続いて祭壇より前の 教会の内陣の手前まで進むと

助祭と会衆はさらに高いトーンで歌声を交わし

今度は司祭たちの手から周りの会衆に火が配られる すると見る見るうちに 光の絨毯は聖堂の隅々まで伝搬していく


                     右上寄りの大きな光の点は復活の大ローソクの明かり 

聖堂内がほの明るくなり  火をもらった子供たちのうれしそうな笑顔も 光の中に浮かび上がる

 

私は カトリック教会の一年間の沿った中で この復活の徹夜祭の光の祭儀ほど美しい儀式をほかに知らない

神の創った世界は 人間の罪で闇に沈んだ その闇に処女マリアに宿ってこの世に入った神のひとり子イエスの愛の火が点った

友のためなら命を捨てるほどの愛の火 (イエスはそれを十字架の上で示して見せた) は

人の心から心へと伝わり 世の光となって闇を照らしていく

キリスト教の福音が人々の心に愛の火を点し 世の光となって広がっていく姿を 目に見える形で示してくれる光の祭儀

神の栄光の讃歌が朗々と歌われ 真夜中の闇の空に教会の明るい鐘の音が響き渡るとき

40日間の断食と節制と痛悔と回心の季節の終わりが告げられ キリストの復活の喜びが爆発する

人々は抱擁し合い 接吻し 「キリストは蘇られた」 と一方が挨拶すると もう一方は 「キリストはまことに蘇られた、アレルヤ!」 と挨拶を返す

そして 聖堂の照明がともされ 復活の大ローソクだけを残して 各自の手元のローソクは吹き消される

それを見ていると なるほど 世俗化した現実の快適さと裕福さのまばゆい価値観が支配する社会の中では

キリストの愛の教えは まるで人工照明の中に光を失う復活のローソクのように すっかり色あせて見えなくなってしまうものだと納得する

世俗的価値観のまぶしさに幻惑されていただけにすぎない自分の心の闇に気付き 本当の光を渇望することの必要性を思い出すために

ときには 病や災害も 気付きのきっかけとして 大切な役割を担うことがあリ得るのかな とも思う


 

光の祭儀の後を受けて み言葉の祭儀が続く


旧約聖書の創世記第1章の天地の創造譚から始まって ユデオ・クリスチャンの伝承にある神の救済の歴史が 延々と朗読される

ひとつの聖書朗読の前に信徒による短い導入の話があって 朗読の後に祈りがあって 歌があって 次の朗読に移っていく

子供たちも参加する

可愛い子供たちの合唱や 子供たちの賢い信仰上の質問に たじたじの親たちが 大汗かいて答える場面も挿入される

今年はたまたま 私の属する第4共同体のダリオが 子供たちに親としての苦労と信仰体験を語って聞かせる場面があった

 

ダリオは可愛い5人の娘たちを育てているうちに 労災事故に遭い 両足の膝から下を失った

さらに子供をつくることは事故を境にあきらめたが すでに生まれている子供たちの信仰教育については 夫婦で細心の注意を払ってきた

屋内は杖なしに義足だけで歩き 屋外は障害者用の電動車いすを使うが 

家庭内では義足も脱いで 半ズボンから棒くいのような短い脚を露出して 毛虫のように這い回る父親の姿を 娘たちは毎日見ている

その彼自身が かつては離婚家庭の子どもとして 親の愛を知らず 信仰も希望もなく すさんだ少年・青年時代を過ごしたこと

たまたま 友達を通して今の共同体を知り 神を見出し 美しい妻と愛する子供たちに恵まれたが

事故で生活は一変した・・・ だが事故を通して神は自分に語りかけ 回心に導かれ

世俗的価値観の追及をやめ 子供たちに自分の持つ最大の宝 「信仰という宝」 を伝えることを

生涯の最高の使命 生きがいそのものとしていることを 淡々と語る

彼自身の子共達に向けて語りかけているのだが 居合わせた全ての子どもたちに

そして この夜復活の徹夜祭にたまたま参加したすべての大人たちの胸に 

司式する主任司祭の雄弁な説教の影が薄くなるほどの感動と説得力で迫るものが 彼の信仰告白にはあった

その後もさらに朗読が続き 最後の福音の朗読があって み言葉の祭儀が終る頃には すでに深夜0時を回っていた


次は 洗礼式だ


 今年 この教会では 復活の徹夜祭の中で3人の洗礼が予定されていた

 

 

先ずは一人目の男の赤ちゃん 見ると 若い母親のおなかには 順番を待つ次の子がすでに宿っている気配だ

 

  

 

ナティビタ (主のご降誕) 教会の8角形の洗礼盤は 大人の浸しの洗礼にも対応出来るだけの大きさがある だから赤ん坊には悠々だ

父と 子と 聖霊のみ名によって 汝に洗礼を授ける

助祭はそう唱えるうちに 素っ裸の赤ん坊を3度 すっぽり頭まで水に沈めて洗礼をする

 

 洗礼盤を取り囲んで楽しげに眺めている子供たちも わずか数年前には みなこうして裸ん坊で水をくぐったのだった

娘になりかけている女の子は それを思い出して チョッピリ恥ずかしそうでもある


 

二人目の赤ん坊も ジャブン!  ジャブン! ジャブン!! とやられた


  

赤ん坊は水に対しては動物的な本能で反応するので 水の中に沈めても大丈夫なのだそうだ では大人ではどうだろうか


この日の3人目の受洗者は うら若い女性だった 聞いたら ブラジル娘で わけあってイタリア人の中年夫婦に養女として引き取られてきたのだそうだ

 

 
 

 

 

 

 

 

 

        


右側 世俗に通じる聖堂の入り口側の段を降りて洗礼の水に入る

 

父と 子と 聖霊のみ名によって・・・と唱える間に 頭まで3度水に浸かる

魚にとって水は生きる場所だが 人間など哺乳類にとっては 水は死を象徴する 東北の津波はまさにそれだった 


洗礼を受けた後 左がわ つまり祭壇の側の段を上って教会の中に入る

水に沈んだとき 罪と死の恐れの奴隷の古い人に死んで キリストの復活の命を身にまとって

新しく生まれ変わる

(ここで余計なこと 低俗なことを 敢えてひとつ言わせてください)

カトリック教会の中には 共同体が浸しの洗礼を行うと聞いて 見たこともないのに あらぬ噂を広める人たちが現れた

曰く

プロテスタントの一派ならいざ知らず カトリックでありながら 全身を水につけて洗礼するなんて なんと不謹慎な 異端的ではないのか?

水から上がった女性の体を想像してご覧 濡れた体にに布が張り付いて肌が透けて見えて 裸同然になるではないか いやらしい! と

これは 見たことのない人しか言えない 想像の産物なのだが

そういう誹謗中傷に対して あらゆる言葉による弁明は全く無力だ

そんなことを触れて回る人に言いたい

一度よく見てください 上の品位に満ちた美しい大人の女性の浸しの洗礼式を

どこに問題がありましたか? 百聞は一見にしかずではないですか

カトリック教会に一大変革をもたらした第2バチカン公会議は 攻守所を変えて

「今後カトリック教会は浸しの洗礼を本来とするが 額に水を流す注ぎの洗礼も 従来通り許される」

と言う意味のことを明言している 本来の姿を忠実に実行するものを誹謗中傷するために

見たこともないのに 想像だけでいやらしく悪く言う

しかも 悪いことに 同じような心根の人たちの間ではそれがまるで事実であるかのように信じられ 見境なく言い広められていく

そんな人には 奥さんに内緒でインターネットのポルノを見過ぎではないですか と言いたい 全く嘆かわしい限りだ!

おっと 神聖な復活の徹夜祭を 下らぬ話で汚してしまいました どうかお赦しください 先を続けます


洗礼の部が終ると復活祭のミサの部に入る

 

 

16の角のある銀の大盃になみなみと注がれたぶどう酒と 8角形のお皿の上には手で焼いた種無しパンが

この夜の会衆約600人余りとして

10人の司祭・助祭がひとつの盃からそれぞれ60人にぶどう酒を飲ませる 一枚のパンも60片に裂いて配ることになる

 

 

洗礼を受けたばかりのピッカピカのブラジルのお嬢さん これから初聖体拝領になるのだが 今日の祭儀の中では特別に目立つ存在だ 

 

(もう書く方も 読むほうも いい加減くたびれましたね このあと 復活祭のミサは普段通りつつがなく進んだ とだけ報告します) 


〔以下省略〕 で 最後はいつものように 祭壇を囲む踊りと音楽で 朝の2時半ごろに 全てがつつがなく終わったのでした

深夜をまたいで延々と4時間半の徹夜祭でした 皆さんほんとにお疲れ様

 

 

 

キリストの復活を祝う喜びが爆発して 踊りながら思わずキスをするものも


 

二重三重の環になって踊りながら 喜びの余韻は少しずつ落ち着きを取り戻していく

 

 各共同体は この後レストランに場所を移し それぞれお祝いのテーブルを囲んで食事を共にする

午前3時に大御馳走? それもそのはず あるものはまじめに36時間近く水や牛乳だけの断食をした

いわば ラマダン明けの回教徒以上に腹ペコなのだ

実は ミサそのものがそうなのだが この 「一緒に食べる」 と言う行為が 共同体の一体感を養う上で 非常に大切な要素となっている


会食(アガペ=愛の食卓) は朝4時半過ぎに終わった 

 

 最後に一言 私の属するこのナティビタ (主のご降誕の教会) 小教区では40年ほど前に共同体が導入された

主任司祭は これに対して斜めに身を構えて 全面的には支持してくれなかった

だから 初めは共同体が産まれかけても 産まれかけても 流産を繰り返し

いま頃ようやく 9つの共同体が育つところまでたどり着いた

(同じように40年前に導入されたほかの教会では 20以上 教会によっては30以上の共同体が花開いてる)

事 復活の徹夜祭について言うと

以前は主任司祭を中心に 復活の徹夜祭は伝統的な古い方式に固執して行われていた

だから 今日のような新しい典礼は共同体だけで他の場所を借りてやってきた

ところが 世俗化の波はイタリアにも日本にも等しく押し寄せていて 

若い世代の教会離れと 残った信者の高齢化で すっかり活力が失われ

 教会でする復活の徹夜祭は年を追うごとにさびれ

「徹夜祭」 の名は空洞化し 妥協して夕方から始まり夜が更ける前に早々と終るように 簡略化して行う習慣が広まったが

ところが それでなお衰退に歯止めはかからず ある時点からは  

ついに ばらばらにやっていた共同体の徹夜祭をひとつにまとめて教会でやり 

共同体スタイルに統一して それに一般の信者も参加することで やっと 「徹夜」 で行う本来の姿を取り戻した

ローマの教会では全体の4分の1ほどで似たり寄ったりの形になってきた

ローマで起こったことは いずれ一呼吸遅れて全世界に 従っていつかは日本でもそうなるものと思われる


(おしまい) 

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